第三章
三 冬
冬になった。日向がいなくなって、三ヶ月の日が経とうとしていた。
まったく死んでしまいそうなほど喉を焼いて泣きはらしていた者も、ようやく落ち着きを取り戻して、罪木などは以前よりも人を癒すことに没頭するようになり、小泉はこの世のあらゆる景色を切り取ろうとして、目の覚めるような写真をいくらも撮った。左右田はその写真家のそばに立っていることが多くなった。互いが互いに肩を支える心地よさを知ったように、寒い風に生きものが消えるのとは裏腹に、芽吹くようにして、少しずつ頬笑みが戻っていった。
建物の外も内も、時間の絶えるときはなかった。もうすぐ凍える季節になる。いまだ荒れた土地に棲まう人々が、寒さとひもじさに凍りついてしまわないよう、彼らは許しを請うように手を差し伸べつづけなければならなかった。その中に日向の手がないことが、自然に思われるようになるまでは、息をつくひまもない渦のような月日に翻弄されて、そう長いことはかからなかった。
その時間の中で、ソニアは、その美しい金の髪を短く切ってしまった。なにが、彼女にそうさせたのか、彼女自身にもわからなかった。しかし、ソニアは、北の山を越えて吹き下ろす風が、建物の合間をとおってうなじを針のように冷たく刺していくのを、ここちよく思っていた。
ソニアはこっそりと、自身から分離されて無機物のようになった髪を、建物の裏の、隅っこにある焼却炉で燃やしてしまった。
空にかろうじて乗っかっているような雲は、重たげに、今にも綿雪をこぼしそうだった。吐く息は白く、煙に混じって空中に浮かんでいった。ソニアよりほんの少し背の高いくらいの煙突から、煤と灰色の煙とが立ち上るのを、彼女は目を細めて眺めた。そしてまぶたをおろした。
「ソニアさん」
と声がして、彼女の夢想のような時間がさえぎられた。けれどもソニアは不愉快に思わなかった。だって、振り返ったらそこにいたのは狛枝だったのだから。
「どうしたんですか、寒いでしょう」
と、ソニアはやさしく心から労って言った。
きびしい風のためにとうに土の中に溶けていった落ち葉の上を踏みしめて、狛枝は歩いてきた。
ソニアの横に立った狛枝はあおのいて、空に舞っていく煙の残滓を見届けていた。
その表情は、どこか白昼夢を見る子どものように、空に想像の兵隊の行進を描く子どものように、うっとりと、あるいは空虚に、唇が桃色のかけらもなくしてしまうのも厭わないほどに、熱心な様子だった。
ソニアは、彼がこのまま手を差し伸べて、どこかへ行こうとしているのではないかと、思うほどだった。
そう考えて、自分がおそろしい考えをしたことに、ソニアは、はっとなって肩を揺らし、悔いるようにかぶりを振った。どこに行ってしまうというのだ。なぜ、なぜその手は差し伸べられたのだ。
「どうしたの」
浅瀬を映したような瞳が、怪訝そうにソニアを見下ろしていた。
怖気が去るまもなく、ソニアは額に親指と人差し指をあてて、自身をなだめようとした。
「いいえ、いいえ狛枝さん。私ったらなんてことを。私はたった今、全部全部にお別れをしたところでしたのに」
「お別れって?」
ソニアは思わず彼を見つめた。その声音の無知なことといったらなかった。狛枝はまったくの真っ白な声をして、しかし、それきり、二度、三度と同じことをたずねる様子はなかった。
「ううん、なんでもないんです。ねえ、狛枝さん。もう、中に戻りましょう。お昼の休憩も終わってしまいます」
とソニアは左手につけた時計を確かめて言った。すると、視界に、狛枝の空っぽの左腕が映った。彼はいつも腕時計をつけていたはずだった。いつから、その無慈悲な金属を凍えるような空気にさらすようになったのだろう。そう考えて、ソニアの胸を、耐えきれぬかなしみが襲った。彼が無邪気にたずねた、お別れ、をしたはずだったのに、そうなってしまうと、もうどうしようもなかった。
「ああ」とソニアは声を上げた。
狛枝は、とつぜん、自分の左手がソニアに取られるのをふしぎそうに、関心のなさそうに見ていた。手袋をしていないので、金属の触れた生身の皮膚が赤くなっていた。
「冷たくない?」
と、感慨なく狛枝はきいた。
「ええ、ええ。だいじょうぶです」とソニアは何度もうなずいた。「狛枝さん、冷たいのですね」
そう言って顔をあげたソニアの頬は赤らんで、うっすらと、瞳は露のこぼれそうなさまだった。
「戻りましょう、あたたかい建物の中へ」
狛枝はうつむいた。ソニアの言ったことを、外国の言葉を反芻するように考えているようだった。ソニアは狛枝の左手を引いたまま、そうしてふたりは、腐葉土のように湿った土の上をとぼとぼと歩いた。
彼らが、機関にあてがわれた広いへやに入るなり、左右田が走るようにせわしくやってきて、冷たくなっているソニアの肩を案じた。彼は肩をおおうソニアの豊かな髪の毛がなくなっていることに気づいたが、その理由をたずねないように、利き手に持ったままの工具をもてあそびながら、つとめているようだった。
ソニアは、狛枝が、あんなにさみしい建物の裏にやってきたのが、どうしてなのかわからなかったので左右田にたずねた。そのときには、もう狛枝はすべてに興味を失ったようにソニアと左右田からはなれて、窓のそばにある自身の机へと歩き去っていた。
「オレが、ソニアさんを探してこいって言ったんです」と左右田は工具を持っていないほうの手で頭をかいた。「ソニアさんがどこに行ったのかは、まあ、出て行った扉を見ればわかったけど、むしろ心配だったのはアイツ……狛枝のほうで」
言いにくそうに言葉をよどませる左右田を、ソニアは大きな目を見開いてその先をうながした。
左右田は窓際に目をやると、微笑にはほど遠いかたちに口を苦々しげに歪ませた。
「昼メシ、誘ったんです。ここ最近また何も食べてなさそうだったんで」
「あら、それはよいことですね」
「文句も言わずついてきましたけどね。椅子に座ったとたん呆けちまって、話しかけたってどうにもならなかったんで、ソニアさん探してこい、って言って。ダシにしました」
すみません、と頭を下げる左右田の話を聞いたソニアの脳裡には、そのときの狛枝の表情がありありと浮かび上がってくるようだった。
「左右田さん、そのお昼はどこで食べたんですか」とソニアは自分の声が震えているかを気にする余裕もないように言った。
「休憩室の隅ですよ。ほら、中庭の見える窓のある」
ソニアは声を失ってしまった。中庭という言葉に、彼女は、きょうは何度、哀しみに打ち据えられなければならないのかと思った。
左右田は、建物の蔭になった中庭のことについて、それがだれも使わないくらいのひっそりとした憩いの場としての知識だけを持ち得ていた。けれども、ソニアは、春には新芽の息吹におおわれ、夏には隠れ家の影を落とす葉の傘でつつまれる小さな庭園が、どんなにふたりの幸福を腕にいだいてつないでいたかを、しっていた。あの中庭は、たったふたりのための空中庭園だったのだ。
「左右田さん、狛枝さんを私のところに導いてくださって、ありがとうございます」
ソニアは切に感謝して言った。
左右田はなにか、思わしげな顔をしたが、なにもかも、のみこんでしまって、いつもの、ともすれば軽い笑顔をソニアのために作って、ひとことも言わずにうなずいた。腕と共に、がっしりとしたからだの横にぶら下がる工具が、室内の灯りを鈍く反射していた。
狛枝は、目の前につらなる文字の載ったしろい紙から目を背けた。へやの中はあたたかく、赤色に色を変えていた皮膚が、もとのように青白くなっていた。好き好きに、活動する者のあつめられたへやは、心地よく、ノイズのようにざわめいて、狛枝の姿を雑踏の中へとひた隠しにした。
彼は、おもむろに椅子から立ち上がり、ブラインドのすき間に見える窓の外を見やった。その動作はもう幾度もくりかえされて、すれて黄土に変色した本のページのようになって、物語の冒頭へとページを捲り返しているかのようだった。
窓の外では、灰色の雲が、変わらず重たそうにぶら下がっていた。けれども、その曇天は狛枝の瞳に少しも映らなかった。狛枝の瞳にはなにも映らなかった。彼は、自分の足が、自分のものでないように、まるで、水面をつつくかのような心地のまま、ただ、記憶にたよって動かしているだけのような気がしていた。
すべての行為が、狛枝にとっては宙ぶらりんだった。食べものを口にはこんだり、食道に送り込んだり、歯みがきをして、顔を洗ったりするのだって、そうだった。眠れば、深く深く、夢の浮かばぬ黒い空間が広がった。その空間に、遠くから杭を打ち付けるような音が、鏡のように自身を映す大理石の床に響く、そんな眠りだった。
ふいな身震いが狛枝のからだを走った。狛枝は、両の細い手で自身を抱いた。窓のぴったりと閉じられて、何ものにも侵されないはずのへやを、吹雪のような、冷たい風が切り裂いて、狛枝の鈍い思考がいっとき、過去に帰った。
いつの間にか止まっていた息を、長くため息をついて逃がした。濁ることのない息は、へやの空気に霧散した。脳裡には、ソニアの髪という人間のからだを切り離したものが燃え立った、薄黒く細い煙の、空に吸い込まれるように立ち上るさまが、白い紙に薄墨ではいた絵のように刻まれていた。
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