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第四章


   四 過去

 雨風にさらされたコンクリートの味気ない壁が、人工の光にぬらぬらと濡れるように反射しているのを、日向と狛枝は見上げていた。
「ぼろぼろなんだ。おまえが寒くなければいいんだけど」
狛枝は、そう言って小さなトランクを持ってずんずんと歩き出した日向のあとに懸命についていった。
日向の歩みと、狛枝の歩みには、長い永久の覚悟すらした年月によって大きな差ができていた。しかし、日向が狛枝を置いていくことはけっしてなく、またそうしようともしなかった。日向はつと立ち止まっては、しばしば、狛枝が彼に追いつくのを辛抱強く待った。
 病室で、日向の手をとったときから、なにもかもは決められていて、狛枝は連れられるままに、タンスとベッドと、少しの家具があるだけのへやに根を下ろした。
 機関に与えられている寒々しい寮だった。そこに、日向は住んでいた。彼にとっては、ほとんど、睡眠をとるだけのためのような、ベッドに倒れ込むだけのへやだった。
「探せばアパートなんかだって、あるんだけど、おまえは俺と、一緒にいたほうがいいかと思って」
 と、住み心地のよくわからないままに、このへやに棲んでいる日向は、途切れ途切れ、そう言っていたのだった。
 はじめて狛枝の住処となるへやに足を踏み入れたとき、くらいままの玄関で狛枝の手を握った日向の、ぬくみのある手は、まだわずかに震えていたようだった。歩く練習と、記憶を言葉に吐きもどす長い練習をを終えて、生命の活動をするだけの力が戻った狛枝は、小さな口を少し開いたまま、しかし言葉はなく、その手を両手でをぎゅっと握り返した。
 そのことに日向はなにも言わず、
「なあ、腹へってるだろ」
 と、ただ穏やかに問うた。狛枝はうなずいた。その日はじめて、空っぽのへやで食べたものは、熱いカレーライスだった。膝にのせた紙の皿からたどたどしく口に運んだそれは、熱くもぬるくもなく、ぴりりと刺激もなく、するっと喉を通って狛枝の胃の中に落ちていった。狛枝は二度とこの味を忘れないだろうと、思った。
両手に数えられるくらいの荷物を詰めたトランクはベッドの足もとに置かれた。空の皿をもてあました日向と狛枝は、しばらくそうして、まっさらでほこりのない床の真ん中に座っていたが、そのうちに日向は手を伸ばしてトランクを引き寄せた。
狛枝はその様子をじっと眺めていた。日向がトランクを開けると、中には白いシャツと黒いズボンの着替えのほかに、タオルや日用品が詰め込まれていた。しかし日向はそれらのどれもを除けて、一番下で、息を殺していたものを引っ張り出した。
「……ボクのだ」
「そうだ」
 それはかつて狛枝のからだをいつもつつんでいた、深緑色のコートだった。狛枝は受け取って、思わず顔をうずめた。かすかに病室と同じ消毒のにおいがしたが、まぎれもなく彼のコートだった。
 袖を通さずにコートを羽織ると、衿がすっかりと狛枝の細い首をかくして、彼の目からは小さな露が自然とこぼれてきた。
「どうしてだろう。こんなことで」
 と狛枝は恥じ入って、余計うつむいてその顔をそむけようとしたが、台所からいまだ漂ってくるカレーのにおいと、伸びた日向の手が肩をさするために、それはうまくいかなかった。彼は、その手がもっと強く押し付けられて、抱いてくれはしないだろうかと思った。
 日向は、床にうずくまる狛枝の肩をひきよせて、ふたり重い足を引きずって、ベッドにからだをかなぐり捨てた。
 ベッドは枠組みにマットレスが敷いてあるだけで、シーツも枕もなかった。足を床に投げ出して、日向と狛枝は向かい合った。狛枝の髪の毛はベッドの上にちりばめられて、日向の指が、彼の顔にふりかかって表情をかくしているやわい房をそっとのけた。マットレスにつぶれた狛枝の白い頬が桃色になるのを見て、日向は笑っていた。
 身を守るように、狛枝はコートの合わせをかき抱いて、日向の指が自分の髪を梳いているのにじっとしていた。やがて、手の平が頬に下りてくる。狛枝は、日向のやりやすいようにするために、身じろいだ。頬に触れる指の先から、動脈に流れている血がそのまま流れ込んでくるようだった。日向のまぶたがゆっくりと上下して、うなずいた。
 狛枝はそろそろと両手を伸ばし、日向のたくましい肩、それから首筋をなぜて、いびつなおそろしさでもって、ぬるいシャツをまとったからだに抱きついた。狛枝の雪色の頬を包んでいた手は、するりと抜けて、狛枝の腰と背をつかむように抱き寄せ、熱く燃えたぎるような息がやわらかな糸のような髪をかいくぐり、うずめられた。
 まどろみがやってきて、ふたりの頭を母のように腕に揺らし、彼らは額と額とをくっつけて、星の夢をみた。
 一晩がたち、目が覚めると、日向はまだ眼をぼんやりとしばたたかせている狛枝に、自分のへやから持ってきていた厚い生地のコートを羽織らせ、彼をベッドから連れ出した。
「今日は休みなの?」
 と、狛枝はやっと言った。そのときには、すでにへやどころか、雨のしたたりをくっきりと浮かび上がらせた壁に囲まれた土地をも抜け出て、まだ陽も上がりきっていない濃紺の星空を隅に寄せ映した路を、東へとひたむきに進んでいた。
「神聖なる日曜日!」
 とだけ答えた日向の後ろ頭がせわしく跳ねて、それはうきうきとした子どもの駆け足であるようなここちで狛枝の前を先導した。狛枝はコートが脱げてしまわないよう、右手で衿をかき合わせながら、日向につながれている左手についていった。
 潮をのせた風が狛枝の鼻腔を通り抜けた。ほとんど走ってさえいるような足どりは、ふたりをあっというまに、夜明けの埠頭へとみちびいた。狛枝は荒らぐ息の合間に、静謐な波の音と、遠くのオレンジ色に黒い陰翳になってすすんでいる船とを吸い込んだ。
「寒くないの」
 ともう一度狛枝はたずねた。
「ああ、どこも。それよりほら、見えるか」と日向は何ものをも指ししめさずに言ったが、狛枝にはすぐにわかった。
「海が」と上がった息をととのえながら狛枝は口を開いた。「海が見える。キミと、海が」
「うん」
 遠くの水平線を見やりまぶたを伏せた日向を覗いて、狛枝は、ようやく、帰ってきたのだと思った。彼らの至るところ、始まりと、終わりとの碇を海底の砂にしずめて、日向と狛枝はいつでも、彼らの追懐にあるところの海に、ふたたび溺れることができるのだった。そしてそれは、何よりも狛枝にとって、あるいは日向にとっても、その波間に轡をはめられてしまったかのように、言いあらわせないほどの言葉が喉に詰まって窒息してしまうような思いをわき上がらせた。その眼ざしは、けれどもその烈しい思いをほとばしらせずにはいられなかった。
 ふたりの顔は遠い海の向こうに向いていた。
 狛枝の右手が、日向の左手をつよく、彼にできる、あらん限りのちからで握った。日向は狛枝の骨すらその手におさめようとするように、指のふしの全部を彼の手にぴったり沿うように曲げて、握り返した。
 そのとき、紛れもなく、狛枝の胸は熱くなり、からだのなにもかもが焼かれてしまうように煮えていた。海の端からやってくる夜明けの光が狛枝の眼底に痛いほど届き、それは、またも心臓から吹き出るようなあたたかさをもって狛枝の瞳に膜をはった。
「ボクの、ぜんぶがキミに奪われてしまった」と狛枝は小さく静かな調子ではき出した。それは誓いのような響きをもっていた。告白というよりも告解のようだった。罪を告白する懺悔めいて、狛枝はうなだれた。
 狛枝は戸惑っていた。そして隠しもせず、その戸惑いのうかんだ眼を日向にそそいだ。もう、なにものも、彼の表情を隠し立てするだけの盾はうしなわれて、狛枝はたったひとり彼の聖典を燃やしてしまった日向にだけ、そうしてむき出しのこころを対峙させなくてはならなくなった。
 言うべき言葉を見つけられず、どうしたらいいかわからなくなって、日向に助けを求めていた。
 すると彼の、暁にくすぶり、金の光を閉じこめた眼が薄く細んで、言った。
「俺は、ただ幸福だ」
そして握られた手が、もっとつよくちからを込めて、あたたかく血の流れをせきとめ、狛枝の指先を紅くした。
とたんに、言葉から世界がはじまって、狛枝の、かたちだけ動くようになった足は、はっきりと地を建設し、そこに根を張ったようだった。
「幸福」
 むき出しの狛枝のこころは、幸福、とくり返し言った。
 ふしぎなことに、狛枝の生涯がまったくはねのけておそれていた言葉は、唇を震わせることもなく、すんなりと、まるくしっかりしたかたちの音になって現れ出た。それこそ、真におそろしいことだった。しかし、狛枝は水泡の浮きあがるように喉から次々と浮かんでくるその言葉を、くり返さずにはいられなかった。
 群青の星空がふたりの背に追いやられて、夜明けが長い影をふたりの足にはり付けた。
 ボクは幸福だ、とだれかが言った。