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白い嵐

 うさぎのなく声をきいたことがありますか。
 中央の国の王子はそうたずねたあと、ちょっとしたあやまちをおかした子供のようにふと息をもらして困り顔で笑った。アーサーはあるんですか、とききかえすと、彼は「実は私もありません」と、また人懐こいいたずらげなかたちに眉をひそめて言った。うさぎは、今思えば、幼い私においかけられて必死だったのでしょう。かわいそうなことをしました。すぐになついてはくれても、それがうさぎの本心だったのかは、私には知ることはできなかったのです。そう言うアーサーの声はなだらかな小川のようにここちよく、静まりかえっておごそかにすら思える時間にぽつぽつと落ちてミルククラウンのように拡散していった。
 すでに夜ふけてあたり一面がしんと眠るなか、アーサーがあたたかな火で熱されたなごりをほんのりとまとうシチューの鍋をのぞきこんでいるのを見つけたとき、ひとり帰りついた彼の、さみしげな影を背に負っているような肩をおおっている厚いペリースがひどく重たげに見えた。だというのにその下のまだ幼さののこる背はしゃんとのびているのがうかがえると、ひしひしとせまってくるほろ苦い痛みと孤独をだれよりも感じつづけた人の顔が思い浮かんだ。今はその面影もなく、バルコニーから中庭を見おろしているアーサーの横顔は静かで、いつものようにやさしくなごやかで、手にしたマグカップからたちのぼる白い湯気がときおり朝の霧のように彼の表情をとおりすぎていくだけだった。
 ふたつの人影の背中に、食堂にそなえつけられたふりこ時計の、その日のいちばんに鳴らされる鐘の音がポーンとひとつだけひびいた。その音につられて、幼少のいつかの図鑑で目にしたことを思い出したのか、ふいに「うさぎは声をだす器官をもたないそうですよ」ということばが口をついた。すると、アーサーは中庭におとしていた目をはたと上げて、しばらく黙ったあと「そうですか」と、かすかな声で言った。
 濃紺の空に夜明けは遠く、はるかにのぞむ山の端が星明かりをうつして薄紫色の影をぬる谷間から風が吹き、羽化したばかりの羽根のような銀色に透くアーサーの髪がはっきりと冴えて浮かびあがって見えた。やがて、わずかにとり残されていた昼の空気が夜の気色にすっかりうつりかわりはじめると、アーサーのまるい爪の先がマグカップをさすっていったりきたりするようになった。それを見て、冷たい指の先を思えばこそ遠慮のない心への反省と心配が波のようにやってきて、「夜は冷えます。せっかく魔法舎に来たんですから、もう戻りましょう」とさそうと、しかし、アーサーは首をふって、両手を欄干にのせたままではあるものの、まっすぐとこちらをとらえて見、「私の手は冷えていません。私の手が冷たくなることは、もうないのです」とつよく言い放った。青空をいだいた広いみなものような瞳に白い星々が沈んでいる。彼の顔に、あの、ものうげに戸惑うような、やるせないような、心のうちで克己するようなほほえみは見あたらなかった。
「オズがいるからですね」
 アーサーははにかんでうなずいた。
 彼は中庭に背を向けて欄干にもたれかかり、空を見あげて、星への思慕をめぐらせてみとれる人のように目を細めてながめいった。いつのまにか、マグカップのなかみはなりをひそめて、熱を失い、アーサーの手指からじんわりとしたぬくもりを分け与えられるのみで、彼の桃色の指先はとうに真っ白くなっていたが、ほほは紅潮して瞳は今にも空にかけ出そうとする子供みたいにきらきらとうるみはじめていた。
 オズ様のことがおそろしくはないのか、と何度もそうきかれました。言われずとも、人びとの目が、みなの肌がおののいて、私にそうたずねるのです。そのたびに私はこう答えます。
「はい」「すこしも」
 アーサーの空色の瞳の奥に、水晶のような北の氷のうちに光るするどい明滅のひとかけらがさ走った。深いクレバスのような覚悟、真夜中の海のような決意、北の夜空をかける大翼のようにかがやく真心があった。マグカップを持つ手にだんだんとちからがこめられていくのがわかった。
「あの方の手はあたたかいのです。つめたい城の暖炉よりも、ミルクのたくさんはいったシチューよりも、森のどうぶつのからだよりも、あの北の国でなによりもあたたかいのです。オズ様の目が私を見守るとき、私はかつて腕にだいた雪うさぎの瞳を思い出します」低い鈴の音のような声で彼は言った。「オズ様にはきこえたのでしょう。声のないはずのうさぎの声、雪のなかで息をふるわせるだけの声が……」
 アーサーはゆっくりと目を伏せ、たったひとりでながい物語をかたりついできたのだという顔をしてくちびるのうごきをとめた。まばたきをするごと、大きな月の影がそれとおそろいの銀色のまつげにわずかばかりの虹色の光をさざめかせ、砂粒みたいになるまで砕いた石を散らしたような光をなめらかなほほに落とし、その光景はひどくはかなげでまぶしく、また彼のありさまは堂々としておびえることもなく、動揺したようでもなく、ただ、いつもの、人びとのあわいに立ち願いつづけている、まっすぐの美しい糸がつらぬいているような心がつくりあげたかたちがあるだけに見えた。
 オズ様の手はあたたかいのですよ、とアーサーはなんども読んですり切れた糸かがりの絵本の文字がきっとそこにあるのだというように、彼だけにきこえればいいのだというちいさくやさしい声でもう一度つぶやいた。
 どうしようもなくいとしげなきもちがやってきて、たまらず、知っています、俺も知っていますよ。アーサー。とささやいたが、それが彼にとどいたかどうかはさだかではない、これも夜の薫風にふかれてたよりなく消えてしまいそうなかすかな音でくちびるのまわりの空気をふるわしただけだった。
 どこかで鳥のはばたく音がきこえた。