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慚愧と林檎のならべかた

 
 我らを運べよ 馬をたぐりて小鈴を鳴らして
 遠くの明かりに小唄がひびく
 おまえが我らとともにあるなら
 小さな魂 今まさに
 憂鬱こえて 飛びたたんや
 太古の思い出 はるか昔の
 道を偲べ 月のゆく道を
 楽器を鳴らして我らは歩くよ
 月のゆく道 長き道のり
 
 枯れた雪景色がどこまでも広がっていた。古綿をうすく引き伸ばしてしきつめたような雲のひろがる空も、その切れ間に堰き止められながら目の奥まで射しこんでくる太陽の光も、遠くに身をすくめている小さな白い月も、どこもかしこも、ぼうとけむった金色だった。
 生まれたときから、まったくなあなあに続く知己のように見知った眺望の、時折見せるあで姿を、フィガロは興味のない素ぶりで見わたした。彼は青年に移ろうか少年を熟すかの明眸を、無感動に乾かしながら、なんとなく手持ち無沙汰のまま、歩む足を早めた。
 しんとした雪のざわめきの中、フィガロはひとりでいたわけではない。彼の師と弟弟子とが、ともに歩いていた。子供のようなふるまいを好む師は、双子らしくおそろいの防寒具を身につけ、よく似たさまで右足を出し、左足をひっこめ、はなやいだありさまだった。弟弟子といえば、彼こそがこの場でほんものの子供であるのに、彼にことばを教えたことを思わず忘れてしまいそうになるほど、むっつりと寡言なようすで、それなりに聞き分けよくフィガロのあとについて歩いていた。
 この荒涼にすみわたる北の国の、いったいどこで聞きかじったのか、それとも遠い記憶のなかにある音楽だったのか、場違いなほど軽快で賛美的な響きが、目の前を歩いている双子から、空にながく帯のようにのびていく、その旋律の端切れが耳をくすぐった。よく似たふたつの黒い頭が、歌にあわせて右や左に揺れて、転々と残されていく足あとも踊りについて回って、足どりはどこまでも気ままだった。行進というには、誇りが足りず、正しさもなかった。
 北の国の雪はやわらかく、波のように絶えず動きまわり、表層をあらたなものにして、歩く人の羅針盤や星見を無邪気にあざ笑うものだった。彼らは足をとられてしまわないように、歩くそばから足もとを凍らせた。白く曇った吐息は、やがてとうめいにかがやく冷たい氷になって、つま先が雪にふれるとともに、雪の上に六角の結晶をのばして、おのおのの靴裏にもろい使い捨ての足場を組み立てた。断崖の懐に抱かれた水の面(も)を、知らん顔をして波紋を揺るがせながらわたるときのように、雪の下にぽっかりと深い口をあけて餌を焦がれている大地の破断を冷嘲し、彼らの歩みがさまたげられずに進むための道が、雪と大気を結んでつくりつづけられた。そのたびに、キンというするどい清澄な音が、小唄にかさねる鐘のようにかすかに鳴った。
 双子のちいさな足あとは、背の高いフィガロの役には立たなかったので、フィガロは足を踏み出すたびに、あたらしい結晶の足がかりをつくった。その跡を、まだフィガロよりも背の小さかったオズが、箒を抱えながら踏んで歩いた。
 フィガロはうしろに雪をけずるザクザクとした小気味よい音をききながら、肩越しにちらとオズを見返った。
 身たけのちがいから生まれた、ほんの手のひらほど長さの異なる歩きぶりがへだてるがために、オズの歩調は、道行の石を踏んで歩き遊ぶ幼い子供がはねるようだった。箒の穂に重心の平衡をとられて、からだが意図せず左右に振れるのを、柄をゆらしながら何度か引き戻していた。オズがそうしていると、空想に耽けるあどけない子供に見えるかとも感ぜられたが、フィガロにはさしてそうとも思われなかった。
 実のところ、ほんとうは、フィガロはオズのうしろを歩きたかった。そうすれば、フィガロがほんのすこしでも、この子供に恐れをいだいてしまいそうなときに、すぐにでも彼を石にできるはずだった。フィガロが彼に太刀打ちできなくなる日が来るのはそう遠くはないことをわかっていたから、なおフィガロはオズのうしろを歩いていたかった。いかにも、双子におおせつけられた守役のように。
「オズ、転ぶなよ」
 と、フィガロはなんとはなしに、背後に向けて言った。返事のかえってこないたわむれに、フィガロは苦笑した。もしかしたら、オズは案外にも殊勝にうなずいたのかもしれなかったが、彼の歩調では、うなずいたところで、うまれた仕草はなんの意味も持つことができなかったし、そのことをフィガロが見届ける義理もなかった。「転ばない」という平坦な声が背中に投げられたのは、ゆうに双子の歌が二巡もするころで、フィガロも答えなかった。
 山と地平の分かれ目に遠くを横切る森林が、およそ近づいてくる予感もなく、一面に布をかぶせたような光景が、どこまでも絵のように刻まれていた。それを眺めゆくうちに、何度となくくり返したはるかな回想が、つまらない累日のうちに過ぎ去る白昼の挿話になって、フィガロの退屈をからかっていく。
 
 ……双子によって、このおそろしい子供が連れてこられた日に、てっきり、それを三人でわけて食べるのだと思った。窓の外で大きな白い旗がはためいているような吹雪のすさぶ、ひどい雪の日だった。
 フィガロちゃん、と親しげな音ばかりつくるのが得意の聞きなれた声に、燃えさかる暖炉の前で魔導書をひらいていたフィガロは顔をあげた。開いた扉からは外気の白い光が射し、昼間だというのにふしぎにほのかな薄闇のかぶさる室内に、じっとりと浸食した。
 その扉の先には、スノウとホワイトの二つの影と、それが引きずる襤褸と見紛うようなオズのすがたがあった。もっとも、そのときのフィガロが、オズの名を知るはずもない。しかし、その、名も知らぬ子供をひと目見て、思わず立ち上がったフィガロの爪先に、えも言われぬもの恐ろしさがはしり、洞窟の氷柱を胸にあてられたようにどきりとした、それがオズに対するはじめの印象であり、えにしであり、変えようのない真実だった。
 品のいい人形のようにたたずんでいる双子の足もとで、血を流していたその子供は、双子に切り刻まれた手足からはかすかな烟りと火花を光らせて、今にして思えば、あちこちの骨は折れたり割れたりしていたに違いない。そうでもしなければ、この、おぞけをふるい身をすくませる魔力のかたまりは、床まで届く髪の毛を逆立て、獣のようにうなり、フィガロをにらみあげて、床にへたりこみはしない。
「お二人がやったんですか」
 と、フィガロは震えた手をさすり、背中に隠してたずねた。
「そうじゃ。ひとりで彷徨っていたから、つい、のう」
「もー、大変だったんだから。魔力は強いし、蹴るし、噛むし」
 木漏れ日の午後にティーカップを落としてしまったというような調子で、スノウとホワイトは首をかしげた。
「どうして……」つれてきたんですか、と言いかけて、フィガロはため息をついた。子供を中心においた双子は、いたずらを仕掛けた幼児が、なにかことばを待っているような冷たい期待を、同じかたちの口角にふくんでいた。
 俺がこいつを捌くのか、とフィガロは半ばあきらめながら思い、手のなかに、オーブをとり出した。子供の赤い目が、狩人を目の前にした動物のようにフィガロを凝視した。フィガロはそれを見下ろしながらオーブにじっと魔力をあつめた。オーブはまるい輪廓を深い内海のいろにほのかに光らしはじめた。
「待て、フィガロ」
「待つんじゃ」
 しかし、あわてて立ちはだかりフィガロを制したのは、他でもない彼の師である双子だった。
「こら。すぐそういうことするんだから」
 と、彼らはかわいらしい頬をふくらまし、子供の前に壁をつくるように立った。
 フィガロをなだめる双子の叱る声とは裏腹に、すまなそうに眉を寄せた表情が、ふしぎに腹立たしかったことをおぼえていた。幼い子供たちが、三人でよってたかってフィガロを責め立てている気がしたのではなかった。できのいい教え子の間違えた答えは、自分たちの手ぬかりだというように、双子がフィガロをいたわり微笑んだのが、彼の気に障った。
「どうして?」
 フィガロは師を見もせずに、ふたたびちいさく問うた。
 彼はいっそうこの子供を殺さねばならないと思った。そのすがたは、双子によって、もうほとんど石になりかけそのものだったのに、ほかならぬ双子が、それを庇うわけがわからなかった。フィガロは師からむけられた憐憫のために怒ったのではなかった。このたったひとりの子供によって喪われるだろう、そのいたわり、喪われる関心、喪われる親和、喪われる故郷の面影のために嘆いたのだった。
「スノウ様、ホワイト様。どいてください」
 と、フィガロは投げつけるような口調で言いつのった。
 双子がフィガロを宥めるために、ほんの少し目を離したあいだに、子供はぼうぼうに伸びた枯れ草のような黒い髪のあいだから、さっと手をのばした。その手はあらぬ方向に曲がっていたが、弱い魔法の断片が、フィガロの眼窩を射しつらぬこうと、チカと不朽の光りを見せた。その魔法のほとばしりは、世界がその子供に随行しているようですらあった。
 これを知っている。と、フィガロは思った。
 怖気の正体は、大地の底のもっと深奥にある、だれも見ることのかなわない星の氷が、日常を破り拓いてじかに背を撫であげたような畏れだった。この子供は双子には負けた、だが俺にはまだ負けていない、その破滅的な理屈というのは、フィガロも北の生まれであったから、理解した。
 しかし、フィガロの脳裏には、まばたいたつぎにはあとかたもなく破壊され、崩れ落ちている屋敷のなかに煌々と燃える暖炉の炎をうつしてきらめく石たちの幻影が、ありありと浮かびあがっていた。
「石にします」とフィガロは双子を押しのけ、ほとんど叫ぶような声をあげた。
 いまだ爆発しきらないふたつの魔法のしるしが、対流を起こしてへやにうずを巻いた。それは、凍えるほど寒かった。
 その静かな表情が、双子にいったいどのように映ったのか、彼らはぴったりそろった呪文をとなえることもせず、かといってフィガロをとめ立てするでもなく、子供のほうへさっと顔をむけた。
「オズ!」
 スノウのきびしい声が空砲のようにひびきわたった。とたん、フィガロは凍りついた。それは俺の名前じゃない。ならば誰の名前であるのか、フィガロにはすぐにわかった。
 スノウの声にぴたりと動きをとめたのはフィガロだけではなかった。呼ばれた名に、子供もまた弾かれたようにひきつった。
「名だけは持ってるんじゃ」と、ホワイトはフィガロにこっそりと口寄せて困ったように言った。
 そのことばは、フィガロの胸中に生まれた心算ともいえない、いっそ拙い戦意のちいさな火を、あとかたもなくそっと吹き消してしまった。オーブは猛る星々の燐光をなくして、もとの、細波の寄せる海になった。へやはもとのように薄暗くなって、ふだんのたたずまいを素知らぬ顔で取り戻した。
「いい子じゃの、フィガロ。オズ」
 と、スノウとホワイトはにっこりと笑った。
 ノスコムニア、とやわらかな声がひびいた。スノウとホワイトの手がフィガロの頭上にふりかかった。はじめて出会った日に、はたしてそんなに親しい間柄か、と思ったほどの、肌にちりちりと溶けていく深い愛情のような温情と悲しみが、支配の父のような大きさの手をもってフィガロの頭をゆっくりと撫でた。
 なんで、という途方にくれたような押し殺した声は、だれにも届くことはなかった。
 ――オズという名の子供からいったんは引き離されたフィガロは、改めてあれを石にしようと双子に相談をもちかけた。が、それがけっして聞き入れられないことがわかると、いたたまれぬ気持ちと、今にして思えば起こるべくして起こったフィガロの性情というものが、細かい亀裂のように心のいちめんにひろがった。
 魔法使いの急所をよく心得ていたフィガロは、癒すのも得意だった。オズの千切れそうな手や足、煙の吹き出していた皮膚などを繕ってからは、彼はもうオズと二度と争わなかった。それが、狂気に近いほどの調子の良さと思われるかとも考えたが、双子にそのようなむきは見られなかった。
 やがては、ことばだけでなく双子がめんどうくさがった文字も彼が根気よくオズに教えるようになった。それで、ここが北の国だということをいやというほど思い出し、黒い岩肌のような心や、透明な氷の原生林、早朝の小川の光り、空と地をつなぐ火……そういったものが年弱の子供を充しているのを見いだすにつれ、フィガロはその子供の名を呼ぶようになり、名があるなんて思ってもいなかったことは、しだいに忘れていった。
 
 双子の歌う綿毛の吐息がフィガロの足元を先導し、雪の上を光りながらふらふらとさまよった。それが彼らの気まぐれなおせっかいであることをわかっていたが、フィガロは思いのほか律儀に彼らの師にさからい、それを無視した。
 オズは変わらずフィガロの足あとを、氷のわれるちいさな音を立てて一足飛びに歩いていた。かつてには、生い育ちきらずとも、すでに結実の熟む香りと烈々とのどを刺す魔力を熾しながら、死に切らぬ野猫のようにフィガロをするどく見つめていたオズである。けれども、オズは彼自身が持っているであろう意志を、ことばにあらわにもせず、それとも、まったく景色でもながめているような瞳に存外なにも考えていないのか、それが当然だとでもいうようにぴったりとフィガロのあとについてくる様子は、ただの狼の子どものようでもあって、けっきょく、フィガロもなにも言わなかった。
 そうして、うたかたみたいな気まぐれだらけでできている道のりを、しばらく四つの人影が歩きつづけたが、こういうときには、かならずといっていいほど、朝が昼に変わるころの淡淡しい空模様のようなのんべんだらりとした、じれったいいらだちがやってきた。
 フィガロは、大きなため息をつこうとしてはこらえるのを、手のひらをゆるく閉じたり開いたりすることでくり返していた。広い雪原の景色がいっこうに変わらない、あんまりに当然のことが神経をじりじりとしめつけてやまなかった。このとき、フィガロの髪は短く結えるほどの長さがあったが、それよりも長いオズの髪が、彼の背丈ほどの箒が揺れるとにあわせて青い空にほうぼうはねている気配がした。つまり、彼らの足どりはどれもさして陰鬱なものではなく、遅い朝の市場をぶらつくみたいに気怠げで、間延びしていた。
「もうやめにしましょうよ」
 と、ついにフィガロは立ち止まった。
「なあに、フィガロちゃん」
「癇癪かな? フィガロちゃん」
「ちがいます」と、フィガロは半身をさげて、棒ぐいのようにたたずんでいるオズを指した。「歩く意味がどこにあるんです? それも、こんな列になって、的みたいに。オズを見てくださいよ。ずっと箒をにぎりしめてる。あいつの無言を一心にうけてる俺の身にもなってください」
 ふり向いた双子は、はろばろの山を見とおしてうるわしい顔を見あわせた。
「それもそうだね」
「そうだね。我ら忘れていた。うっかり」
 うそをつけ、とフィガロは内心で悪たれた。
「ただ、我らにも計画があっての」と、スノウは雪を蹴り上げた。
「計画?」
「我ら、人間たちの『お願い』とやらにおおかた見当はついてるのじゃ」
 と、唄を口ずさんでいたときのような調子で、ホワイトが言った。
「それなら、俺たちは必要ないですね。帰ります。いこう、オズ」
 フィガロはすかさずきびすを返そうとした。
 人間のたのみをわざわざ聞き届けに、街に向かうというのまでは、その内容を知っていなければ問題はなかった。でも、もう知っているのであれば、この晴天とも曇りともつかない憂鬱な日に、靴を履き人間のような防寒着を着こんで、ばかなアヒルのように歩きつづけなくともよかったのに。
「待て待て!」
 と、スノウはいつかの日のような声をあげた。
 おどけたひびきに、フィガロがしぶしぶ見返すと、腰に手をあてて、怒っているみたいな仕草をしたスノウの、威のある細んだ瞳にかちあった。ついにフィガロは、大仰に肩を落として大息をついた。
「知らない計画って、俺いやなんです」
「生意気じゃの」と、スノウは感じいい笑顔で言った。「じゃが、今回はおぬしらを叩きのめすことはできん。ちゃんと伝えるから安心せい」
 なによりです。とフィガロは口のなかだけで諾した。
 蒼茫とわたる雲間が飛び、鈍色の海に溶けていく太陽がからだを見せると、雪のなかに林立する細身のからだがよっつあきらかになる。快活なふたつは横に並び、もうふたつはやや前後して、舞台をながめる人のようにぼうと立っている。
「さて、その『お願い』の材料はこの近くの森でとれる。そこで、箒をにぎりしめてるオズちゃんに質問タイム!」
「質問ターイム!」
 かしましく、愛くるしくその場でくるっと回ってみせた二人は、フィガロのうしろで立ち尽くしているオズを教師のように指差した。
「どうして我らは箒に乗らずに歩いているのでしょうか」
「…………」
 フィガロはオズの漫然として動かない硬い顔を見たが、おそらく彼は彼なりに、覚えたばかりのことばを拾ったり棄てたり組み合わせたりしながら、なにかしらの羅列をつくろうとしていることは、たしからしかった。けれども、そのことばは重く、よく目に見えるものではなかった。
 じれた双子はしかたのなさそうにフィガロに向いた。
「じゃあフィガロちゃん」
「うーん。あまり魔力を使いたくない、からですか」
「近い近い。さすがは我らの弟子じゃ」
 フィガロはあいまいに笑った。
「きっと人間は、我らにつくってもらいたいものがあるんじゃ」
「我らと、おぬしらの強い魔力でうっかり材料を台無しにしたくないのじゃ。めんどうだしね」
「じゃあ、別に人間たちのところにわざわざ行かなくてもいいのに」
「うーん。我らもたまにはね、大人のかっこうで遊んでみたいんじゃ」
「ふんぞりかえりたいだけじゃないですか。老人の遊びだ」
 と、フィガロはかすかにからだをゆすって、口の端を上げた。
「ちがうもん」
「ちがうもんね。あと、まだ全然ぴちぴちだから。老人とかじゃないから」
「はいはい」
 双子はすねたように頬をふくらませ、同じ方向にふいと顔をそむけた。それは弟子をからかってはしゃいでいるというよりも、ふたりで瓜二つの遊びをしていることが楽しくてしかたがないといったぐあいだった。
 ざれあう師を尻目に、街の看板を目指してフィガロはふたたび歩き出した。もう、だれが先導でだれがしんがりであるかを気にかけるのも、わりに合わないと思った。あたりを睥睨するようにひとりで足を早めたフィガロに、ほとんどつんのめるようにして歩きながら唯一ついてきたオズは、「魚の話か」と小声でたずねた。
 
 午後のこと、さびれた村のような街についた四人は、すぐになだれるようにして出てきた人間によって、丁重というでもないが会釈と言うには心許なく物怖じした礼儀をうけながら、ひとつの屋敷に案内された。フィガロは無遠慮に周りを見回した。折れた車軸や黒く腐った垂木が、乱雑に息をひそめてひどく陰惨なさまだった。長い手間を切につぐなおうとする人間たちの、不自然に折り曲がった背が、さまざまな実をならべたように、頭をフィガロたちの眼下に陳列している。
 人間たちが言うことには、こうだった。およそ魔法使いの庇護がなければ生きていけない北の国に棲む人間たちは、すべての人びとがこの国でいちばん寒い冬の時期を過ごすために、他者のことを気にかけることはできなかった。王家や領主でさえも。彼らは、魔法使いから身をかくすように切り取った小さな土地とそこにいる数少ない家族のことしか守ることができなかった。そして、土地神のように魔法使いを祀っている街のなかには、いくつか、口減らしのために若いものを追いやるところも少なくはなかった。
 そこで追い出された人間を拾うところがあると知りながら閉じられた門扉のあてに、目をつけられたのがこの街であると、いちばんの大きな屋敷に住んでいる老爺が、フィガロたちの足もとに這い出て言った。
「北にながれついた弱い人間のために、魔除のランタンを作ってほしいのです」
 いかにもあわれっぽく卑屈でびくびくした目をよそおいスノウとホワイトにすがった人間たちを、双子はままごとを楽しむように慰んでいた。切れ切れに耳に入る会話の端で双子が見返りを宣告しているのを聞きながら、
「ああ……オギリのトカゲかあ。めんどうだな」
 とフィガロはひとりごちた。面倒だといったスノウのことばがよみがえる。ランタンに必要になる材料のひとつが思い出された。それで、彼らは自分とオズをひきつれてきたのだと、暗澹たる思いがフィガロの荷を重くした。オズはだまっていた。聞いているのか、いないのか、わからなかった。
 まだ日の高い帰り道に、双子はこう言った。
「材料をあつめるのは、フィガロ、オズ、おぬしらの役目じゃ」
 双子のことばはオズにもはっきりと聞き取れたらしい。住民の家を出たあと、ほとんど話し声のしない街のはずれで、遠巻きに双子とフィガロを見ていたオズは、双子が箒を取り出して帰宅のよそおいを始めたのに気がついて、わずかに首を伸ばしていた。
「知ってました」とフィガロはこたえた。そして、こうつづけた。「やりますよ。あいつへのいい教育にもなりますしね」
「ふうん。めずらしくいい子じゃの、フィガロ」
「いやだな、俺はいつもいい子にしてるじゃないですか」
「オズと喧嘩をせぬようにな」
「しませんって。一対一でそんなことしたら俺が死んじゃいます」
 双子は一瞬黙りこんだ。しかしすぐに仮面をつけかえたように、いつもの慈愛めいたおだやかな笑みを浮かべて、すうと鳥の飛ぶように森の反対へいなくなってしまった。
 思わず軽く請け負ってしまってから後悔するというのは少なくなかった。フィガロはオズのもとへ行き、ひとごとのように景色をながめているオズに向かって、
「俺たちはランタンの材料をあつめるんだ」
 と、言い聞かせるようにわずかに身をかがめて指をたてた。
「……材料」
「そ。材料っていうのは、オギリのトカゲ。うろこは雨除けに、骨はそのままランタンの骨組みになる。それを今からつかまえる」
「バジリスクか」
「そんなたいそうなものじゃないさ。もっと小さくて弱くて、ただのトカゲに近い魔法生物」
 そのことばに、オズはじっとフィガロの背をこえて、街の裏門の向こう側に広がる巨大な森を見通した。それはさして非難がましいというわけでもなかったが、フィガロは笑ってこう言った。
「そんな顔するなよ。言いたいことはわかる。言わないだろうから俺がかわりに言ってやるけど、『面倒だなあ』だろ」
「いい加減なことを言うな」
「でも思ってるだろ」
「…………」
「オズ。沈黙は、うんとかはいとか言っているのと同じことになるぞ」と、フィガロはかまわず歩き出しながら言った。「まあ、でもおまえなら下手にしゃべらないほうが威厳があっていいのかもね……」
 
 葉の落ちつくした木をいだく黒い森のうちへ踏みこむと、ふしぎに、ゆかしい懐古のような偏愛のような気持ちにおそわれる。
 けものみちへの入り口のかなた、道すらなくなり、深い雪にひざまでうずもれながら歩かねばならないところまで、フィガロの足は、立ちどまることなくすでに来たことのある土地を歩くような調子で行った。途中に手ごろな太さの枝を見つけてからは、それを拾い、目に見えぬ道をかきわけながらすすんだ。歩くほどに、風にさわぐ森は、耳のうちがわで遠い雷鳴のようにひびきわたった。
 目当ての場所が見えはじめた。木々のざわめきにひとつ穴をうがったようなその場所は、五人ほどの人が寝そべっても足りるほどの地面が空いていた。そこにたどりつくと、フィガロはおもむろにかがみこみ、雪のなかへ腕をさしこんだ。
「なにをしている」とオズが訊いた。
「言っただろ。材料を探してるんだよ」
 フィガロは、狭い戸棚のすきまに落としてしまったペンを手探りで拾うときのように、思慮深い考えを巡らせているみたいな視線を宙にさまよわせ、黒土に到達した指でうろこの手ざわりを探した。見つからなければ、腕を引き抜き、また数歩はなれたところへ歩き、それをくり返した。
 ややあって、おろかだ、と妙に流暢なののしりが幼い声音で発されるのを聞き、フィガロはふり返った。雪の地面にはいつくばって指先を土くれに汚したフィガロを見下ろしている、オズの血みたいに赤い瞳と目があった。
「そんなもの、魔法ですぐに見つかる」
 と、彼はつまらなそうに、あるいはつまらないという感情さえ持ち得ていないのかもしれない、真っ白な表情で言いつのった。
 たしかに、まぬけな様相ではある、とふだんより近くにある地面に、フィガロは微苦笑した。いまだフィガロを見下ろしているオズを見上げて、不当とも思われぬ物言いに、すかさず言い返してもよかった。
 けれども、それよりもずっとつよく、すぐにフィガロの胸のうちにわいてきたのは、ほんとうのことを教えずに魔法を使ったオズが、はたして、そのしんとした表情を変えるのかどうか、ためしてみたいという、いささか毒気のある好奇心だった。めずらしいことに、フィガロのうしろを巣をしたう小鳥のようについてきたオズが、いつもそうしているように狩りを学ぶ狼の目をして、じっとフィガロをながめているだけでなく、すこし強気な子供の小さな野心をたずさえた声で彼の意思を告げたことが、おもしろかった。
 それに、今までは言葉もなく、そばにいたフィガロの腕が焼けるのも気にしないで、胸までの黒髪が、そとそよ風に吹かれたのだというくらいの気安さで、とうとつに力を行使していた彼が、たからかに意思を宣言するようになったという成果は、まったくフィガロの手柄でもあったので、そういったさまざまのことが、フィガロをいい気分にさせた。
「いいよ、やってみろ」
 と、フィガロは上機嫌をとりつくろって、聞き分けのいい兄のようにおだやかに言い、立ち上がった。そして淑女の介添え人が馬車にみちびくように、見よう見まねでゆうゆうと手のひらを広げて、雪の地面を指し示した。
「どうぞ」
「…………」
 オズはフィガロに一瞥をくれると、じっと地面に目を落とした。
 いくばくか、短く刻むほどの時を数えた。あたりはいよいよ底なしの無音につつまれて、雪のひとつひとつが凍る音さえ聞きとれそうに静まり返った。フィガロは動かずに待った。空に根ざした骸骨のような木々さえ沈黙するなかで、目の前にいるオズの横顔だけが、雪のうちに似つかない生々しさで浮かび上がる。
 玄黙の瞳からこぼれる心裡が仰せつけることばもまた、きっと雄弁ではないのだった。だからこそ、その意志は王命のとどろきをもった。伏したまぶたの赤いまなこのうちで、瞳がふいにキュッと細まった、ように見えた。
 すると気怠げに寝そべっていた雪たちは、自分たちが何に従い、どのようにするべきかを、にわかに思い出したように、いっせいに噴煙をあげた。どお、と雪崩が決壊するような重い音が、足の裏から頭の先を抜けていって、視界が真っ白に閉ざされた。霧か煙かもわかぬ乳白色にのまれた景色のむこうで、黒い髪が縷縷となびいたのが見えた。
 フィガロは首をかたむけて、頬をかすめていく小石をよけた。地面は星が衝突したみたいに熱く燃え、たちこめる雪の粉が細い水になってぐったりとふり注いだ。しばらくして、横禍のあとのありさまをさらして、そこらがもとの静けさにおさまると、白いシーツをひきむかれて黒土をむきだした地面に残されたいくつもの浅いくぼみが、悲しげにフィガロを見上げた。月の表面に似ていると思った。
「手加減ありがと」
「フィガロ」
「皮肉だよ」
「……きいていない。とれた」
 と、オズはいつのまにかにぎっていた手をフィガロに向けて、ゆっくりとほどいてみせた。
 そこには、彼らの靴ほどのおおきさの生きものがうなだれていた。オギリのトカゲだ。それはオズの手のなかで、深い夜の洞窟のような漆黒の鱗に大小の星のような斑文をいくつも光らせて、瑠璃の色や虹の色にまたたいた。
「双子のところへ帰る」
 と、オズはすべてことを終えたという風に、きびすを返そうとした。フィガロはうっすらと笑ったまま動かなかった。
 とつぜん、硝子の割れるような甲高く耳障りな音が、空を細くつらぬいた。その不吉な鐘はオズの手のうちで鳴らされた。オズはハッとして、にぎりしめたものに目をやった。それはやがて垂れ下がっている尾からぼろぼろと崩れはじめて、みるみるうちに光をうしない、黒く焼け焦げた燃えかすのようになったいくつかの鱗は、空に飛んで消えてしまった。
 トカゲだったものの残骸が上りあがっていくのを、オズはとっさに目で追った。フィガロの口端に、いたずらっぽいここちが言いようもなくこみあげてきた。
「見ろ」と、フィガロは明るい声を上げた。「崩れてしまった」
「どういうことだ」
 と、オズはきびしい声音で目をそばめた。
「すこしでも自分より強い魔力を感知すると、みずから瓦解する」
「みずから?」
「わからないか? 自分で命を断つんだよ。そして、その今際の悲鳴が、俺たちには聞こえない音で地中をかけめぐる。すると、その仲間はそれを聞いて必死に逃げて生きのびる」
 自分の手の中で黒く炭のようになった生きものが、まだかすかな生命をのこして氷が溶けるような緩慢さでやってくる死を見つめているのをみとめたオズは、信じられないという顔をした。フィガロは微笑したまま、今にも完全に瓦解しそうなトカゲのなれのはてを指差した。
「こうなると材料にはなれない。見てわかるとおり色が損なわれるし、肝心の骨のなかみは塩みたいになって使いものにならない」
 マナ石にすらなれない、とは言わなかった。そうしているうちに、トカゲのかたちをした残りものは、完全に崩れて砂粒のように手のひらからこぼれて消えた。
「こんな生きものが、北の国でよく生きている」
 と、オズはひどく億劫そうに首を振った。
「ここだからだろう。生き残ろうとする弱いものを見くびっちゃいけない」
「おまえが言うのか」
「俺だからこそだろ」
 フィガロは胸に手を当てて微笑んだ。
 オズはかすかにうつむき、たった今うしなったものの色やかたちを思い出すように何度か手をにぎったりほどいたりして、不服そうな顔をそむけた。
「……どうすればいい」
「俺たちみたいなのは、こうするんだよ。おいで」
 フィガロはたった今意味をなくしてただの静かな雪原となった狩り場を捨て、しぶしぶといったようでもないがなんの感情もないオズの足音をつれて、森のさらに奥へと歩いた。
 まばらだった黒い木々が、だんだんと織りこまれたぶ厚い緞帳のようになり、金色の光が、薄くただよう雲のようにして細く木々のあいまを縫いやっとたどりつくほどになると、あたりは重く暗くなっていき、背の高い樹木を見上げたずっと先に、深い穴の底からのぞいたようなちいさな空がぽつんと見えるだけになった。
「ええっと、どのへんかな」
 フィガロは探し物をするように、しばらく視線を地面にさまよわせていたが、すぐにやわらかい雪の層を見つけて、ひざをついた。そして、雪のなかにゆっくりと深く腕を沈ませた。
 雪が身を食む感触が背筋に冷たい汗を流すのをこらえて、そのうちに指先が硬い樹皮のような手ざわりに当たると、フィガロはさっと腕をひきぬいた。
「どう、オズ」
 フィガロは立ち上がって手を掲げ、うれしげに弟弟子をふり返った。さっきまで空白だった手のなかにはちいさな生きものがひとつあった。トカゲのもがく手足は上手に組まれたフィガロの指にひっかかって、抜け出せないようだった。オズはなにもいわなかった。ただ目のなかに、きらきらと音をたてて夜空にかがやく虹の石のようなトカゲの鱗の七色だけを映していた。
 フィガロは髪を結えている紐から器用に一本だけ髪の毛をつまみあげて、ためらいなくぷっつりと切った。オズは無表情でそれを見ていたが、フィガロが手招くとフィガロの肩に身を寄せて彼の手のなかをのぞきこんだ。子供がめずらしい生きものを見つけたときのようだった。ほら、とトカゲをオズのほうに持ちあげると彼は戸惑うようにわずかにのけぞった。フィガロはそれを見て、やさしく指の檻で囲んでいるトカゲの背を人差し指でひっかくように撫でた。トカゲのまるく黒い瞳がなにかを見定めるようにフィガロを見あげていた。
「魔力は」
 後ろ手を組んだオズが短くたずねた。
「うん、おさえている。おまえも、あまり派手に魔力を垂れ流すなよ」
「わかった」
 と、オズはこくりとうなずいた。
 頼むよ、と不安が口の中だけでささやかれた。
 実のところ、だれも口にはしなかったが、この状況はあまりにおそろしい情景だった。この子供は俺を指先ひとつも使わずに殺すことができるのに、まったく、今の俺ときたら、裸にした人間をレモラの巣の前に置き去りにするよりも、ずっと無防備なんじゃないか。
 しかし、とうのオズといえば、まつ毛のすこしも動かさないで、ときに羽のようなまばたきをするだけで、フィガロの言いつけを守っておとなしくしていた。彼がそうしていると、あたりが急に静まりかえるようだった。森じゅうがフィガロの頭の先から足の先までをじっと審判しているようにさえ思われた。フィガロは顔をあげて木々を見回し、ちょっと笑って、ふたたび手の中のトカゲに目を落とした。
「こいつの色は生きているあいだだけなんだ。だから、死を感じさせちゃいけないんだ」
 と、フィガロは雪のやまない日にそっとリリアンのらせんを指にかける人のようにして、つまんだままでいた髪の毛を、まず人差し指と親指にまき、次にトカゲの首にまいた。
 そして、深く息を吸い、ゆっくりと指を引き絞った。とうめいな糸のような髪が、トカゲの首をおもむろにだきしめた。
 ゆっくり。ゆっくり。ゆっくり。ゆっくり。
「フィガロ、汗が」
「ああ」
 トカゲの黒い目がさかんにまばたきをする、その音だけがひびきわたる静かな時間だった。
 やがて、ちっぽけな黒い目が、地面の奥底で氷がかたまるように動かなくなっていった。そうして、知らぬ間に、トカゲのからだはだんだんとよくできた精巧なセラミック彫刻のようになって、ほんのすこし軽くなった。死んだ。
「死んだよ」
 思いもしないうちにつめていた息が肺をふくらまし、フィガロは肩を一度大きく上下した。ひざから力が抜けた足が、フィガロをやわらかい雪の上に誘った。
 彼はすわりこんで肩をすくめた。手のなかには生きている時とさほどかわらない、むしろ魂のなくしたことによっていっそう作りもののつまびらかなうつくしさがまさっているトカゲの死骸が光っていた。オズはフィガロのそばに近寄ってきて、かたわらにうずくまり、それをのぞきこんだ。
「質が悪いマナ石よりずっとうまそうな色だろう」
 と、フィガロは目くばせした。
「そうでもない」
「あれ、まずそう?」
「ちがう。これは食べられない」
 フィガロはふっふと吹き出した。
 情味のない取り澄ました顔つきが、不審そうにフィガロをちらりと見る。
「やってみなよ、オズ」
 と、トカゲの形骸を魔法のさげ袋にしまいこみながら、フィガロは言った。オズはうなずいて、フィガロを真似て地にひざをつき、雪に手を差し出した。
 その面ざしはふしぎな様相で、目にかかった髪だとか、まるで興味のなさげに伏し目がちに澄んでいる瞳だとかに、どこか救いの手をのべているような静けさがあった。魔法をつかわないオズの手が、間をおかず、雪に濡れ指を泥に汚しながら夜闇の光をいとも簡単にするりと彼の支配の世界にひきずり出した。
 オズが立ち上がると、黒くゆるやかな髪が、彼を追ってひらひらとたなびいた。フィガロはひざの雪をはらってオズのとなりに立った。
 双子が拾ってきたときには、オズの髪は、もっと藁のように乾いて荒れて長かった。それを見かねたか、あるいは彼らの得意の、人形遊びの心地でもしたのか、おそらく後者だろうとフィガロは思っていたが、双子によってきれいに切りそろえられた日から、持ち主には見向きもされずに伸びつづけた黒い髪が、白い地に向けてしだれて静止している。
 その黒い髪のなかから一本だけがえらばれる。彼の手によってえらばれたその一本が、彼のちいさな殺戮に加担する。フィガロに似せたため息が、その意味を理解されないまま発された。ひとすじの黒い線がトカゲの首を飾って岩間に光る黒曜の石みたいにまたたくと、オズの目のなかで虹色の鱗がオーロラのように揺らめきはじめた。
 北の、すべてに平等で、あまねくきびしい残酷な風が、ふいに、ふたりのあいだをつよく割りひらいた。フィガロは風がほほを切り裂いてゆくにまかせたが、その吹き荒ぶ冷たさをいやがったむきだしの手が、一時しのぎの温もりを求めて、かたわらにいたオズの肩を寄せた。オズのからだが、フィガロの腕の重みに揺れた。しかし、オズ自身はなにも言わなかった。沈黙というよりは、無心の海にぬりつぶしたこころが、なにも答えぬといった風情だった。
 オズのほんとうのところの沈思というのは、そういうたぐいのものだった。さざなみ立たない海が存在しないように、オズの内心は、だれも知ることのない真っ黒の大理石に映る鏡像が目の前にあらわれでているだけではないかと、今までに何度思ったかはしれない、このときもまた、この奇妙な心持ちは、うすい影を落としながらフィガロの胸をよぎっていった。
 ――しかし、肩を組み、すこしだけ背を丸めて、息を凝らすようにそれっぽっちのトカゲを見つめる彼らは、なにか趣のあるおもしろいものを見つけてそれをふたりだけの内緒とするような、深い配慮のふくまれない友人同士のように、思われただろうか。
 しばらくして、静かだったトカゲののどが、ざりざりと縄をこすりあわせるような、かすかにささくれた音を鳴らした。
「オズ……」
 憂き目をさとったトカゲの末期のなげきが漏れ出たのだと思い、フィガロは思わずオズを横目でぬすみ見たが、オズの瞳は深く、なにものにも喩えがたく、いまだ赤い。そのことは変わらなかった。
 フィガロはふたたびトカゲに目を落とした。トカゲは今なお無知であった。オズはフィガロよりも、ずっとゆっくりトカゲの首を締めているのだった。五つ数えたのちにオズの指の場所が変わっているのを見て、ようやく、彼の指が動いていることに気づくようなありさまだった。固唾を飲む音さえはばかられるばかりの、身の張り裂けそうな、今にも心臓の繊維が切れてしまいそうな緊張があった。
 まばたきのひとつもしないオズの黒いまつ毛の上で、銀色の結晶が眠るように溶けた。いつの間にか、湿った重い雪が降り落ちてきていた。時間がまったく止まってしまったようだった。トカゲの絶命までの気の遠くなるような長い時間は、彼らの持つ途方もない時間のなかのたった一瞬のことであるのに、彼らをただそれきりの時間しか持たないもののようにいっぱいに満たしていた。二人だけがだれも知らぬ白い箱のなかに閉じこめられているようだった。今なら、トカゲの悲鳴がきこえる気がした。
 森じゅうが聴き耳をたてていた。命がなくなるのを今か今かと待っていた。遠い神秘の湖の上で割れた石のなきがらが、毛羽立つように脳裏につよくかがやいた。
 ぷっつりと繊維が切れる音がした。ちがう、オズの髪が切れる音だった。フィガロは我に返った。見れば、とうにトカゲは冷たくなっていた。夜の宝石が埋めこまれたトカゲのからだは、凍った星のようにキラキラ光った。
 オズは指に巻いた細い髪が切れたわずかな反動に揺れたまま、無言で手の中のトカゲを見下ろしている。こいつはきっと、こんなにも静かに命をうばったことはないんだろう。落ち着いているようにも茫然としているようにも見えるオズの目に、まっすぐと見入ることはできなかった。
 森はざわめきだして、風がふたたび吹き始めた。そのときフィガロは、まったくの空洞から生み出される果てしなく荒廃したあたたかな良心が、芽生えつつも劫風のようにあたりをさらい、大きな手をひろげて、北に向かってひと駆けするように思った。
「オズ、泣くな。泣くなよ」
 ささやき声がオズの肩を抱える手にいっそう力をこめた。
「泣いていない」
 オズは泣いてなどいなかった。なら、いったい誰が泣いていたのか、それはわからずじまいだった。
 
 そのときにできたランタンは、師の小さな一対の手を親と思いなして、地底湖の石の年輪のいちばん旧いところのような深い濃淡をたたえた水泡をのみこんだ水晶の骨組みを、うちから光る焔にほのやかにかがやかした。師の目をぬすんで指でちょっとつつけば、ガラスのかけらを継ぎ目なくつないだおごそかなステンドグラスの細工が、万華鏡のようにくるくると廻った。
 フィガロはそれをほしいと思った。が、晴れた朝はやく、起きてみると、双子の工房にはすでに魔力と道具の残骸があるだけで、あの美しいともし火がもどってくることは二度となかった。
 
 
 《前半 終》



 《以下後半断片》
 
 フィガロが、思いもかけぬ友というものを自覚したのは、たった二日前のことだった。
 フィガロはトカゲの黒い目を、しばらくは忘れていなかったが、その記憶も、雪の咲く白い森に煤けた塔のように立っていた幼い闇の思い出を揺籃にして、久遠にほどけてなくなっていく時間とともにうすらいでいった。
 やがてふたりの若い魔法使いは成長し、偉丈夫の青年となったころ、オズはさもそうするのが自然であるかのように、双子とフィガロのもとをはなれて去った。雛の巣立ちというにはあまりに静かで、辟易を理由にした別れというには、緩慢だった。そのことにフィガロは些少の退屈を感じはしたが、年月の流れたのちに、オズが北の城に居をうつしたことをきいて、どうせ彼もひとりでいるのだと知れば、それが姑息な安堵だと思いながらも、どこかこころ安けな気持になって、彼もまた師である双子の土地を遠くはなれた。
 


 爆発的な雷鳴がひびいた。おびえた叫びをあげつづけている村人をうるさく思いながら、フィガロは音のなった方角をさっと見た。
 指がふるえているのに気がついた。見れば、そうではなかった。手が揺れて、腕がおのずからざわめいていた。フィガロは下唇を噛んで笑った。彼のからだは昂奮しきっていた。彼は片手で腕を引き寄せて抱きしめ、思わずあとずさった。瞳が、遠い山の端が一線の緋にかがやいたのを見た。するどいまなざしに射すくめられたようにかすかに身がすくんだ。
 オズだ!


  
「オズ、戦争のやり方を知ってるか」
「知る必要はない。これは争いではない」
「そうだね、争いじゃない。でも学ぶべきことはある」と、フィガロは親しげにオズの肩に手をかけ、勝地を眺めるように言った。「城が見えるか。人間の、王の城だよ。あれをまずつぶすんだ。簡単だろ」
「なぜ」
「すると、人間たちはもう俺たちに反対しない。反抗しない。抗わない。声をあげない。そこを均すんだよ。そのほうが手っ取り早い」
「手っ取り早いと何かいいことがあるのか」
「おまえの望む平穏とやらがすぐに訪れるよ。自然のするように気まぐれな速さでもいいけどさ、そうすると人間たちはむしろ団結しておまえに歯向かってくる。恐れを士気に変えることができる奴らが、兵隊をあつめて軍をつくってやってくる。もちろんおまえの敵じゃないよ。でも、めんどうだ」
「……望みなどはない」
「そう? なら俺が望んでることにしていいよ」
 

 
 悲鳴が聞こえるか、オズ。
 何を言っている?フィガロ。私たちにはきこえないと言ったのはおまえだろう……