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 時は容赦なく動きを速め、過ぎ去っていった。第一の課題までの日々が、誰かが時計に細工をして、二倍の速さにしたかのように。どこか複雑な気持ちを抱えて過ごし、第一の課題が行われる週の前の土曜日がやってきた。三年生以上の生徒は、全員ホグズミード行きを許可されている。

 いつもならハーマイオニーたちと一緒にハニーデュークスでお菓子をたくさん買い込んだ後、マダム・パディフットの店でティータイムを楽しむのがお決まりの気晴らし方法だったけれど、ソフィアはホグワーツの敷地内から出るつもりは無い。お互いにぎこちなく微笑みながら彼女たちを見送った後、何もすることが無くて一人きりだったとしたら虚無感にぼうっとするだけの一日になっていただろう。

 しかし、幸いにもソフィアには先約があったので救いだった。以前からルーナと約束していたプリンピー釣りをしに、湖へ来ていたのである。十二月になると湖が凍ってしまうからと元々十一月の間にやろうと計画していて、今日を逃したら冬の到来で湖面は凍ってしまうし、次の週からは対抗試合が始まるので、春まで待たなければいけなかったから、調度よかった。

 「プリンピー、たくさン釣れるといいね」

 湖の岸辺に裸足でしゃがみ込んでいるルーナが、バケツに水を掬い上げて言った。杖を簪替わりに緩く結った髷に目を留めて、ソフィアは釣り針に餌の水カタツムリをつけ終えた二本の釣り竿を置き、ルーナがバケツの水を運ぶのを手伝う。

 「そうね。初めてだから、教えてくれる?」
 「もちろン。プリンピーが二本の足でジャンプするのに合わせて釣り竿を動かすといいンだよ」

 銀色の大きな目を瞬かせてニッコリする彼女に「それはどうやるの?」と聞けば、バケツを置いたルーナが早速水カタツムリのついた釣り糸を湖底に垂らし、リズミカルに動かし始めた。揺らめく湖面に波紋が浮かぶと、ルーナは嬉しそうに耳が肩につくまで頭を左右に振る。それが可愛らしくて、可笑しくて、ソフィアは口元を綻ばせ、彼女と同じように湖に釣り糸を投げ入れた。

 「ルーナは、ホグズミードに行かなくて良かったの?」
 「うン、いいンだ。ホグズミードにはパパと何度か遊びに行ったことがあるもン。それに、ジニーとコリンがお土産をたくさン買って来てくれるって」

 見よう見まねでルーナの真似をして釣り竿をゆっくり上下させながら、ソフィアふと問いかけた。ソフィアが三年生だった時、ホグズミード休日は一番の楽しみだった。玄関ホールにホグズミード行きのお知らせが掲示される度にルームメイト達と喜んだし、次のホグズミード休日が待ち遠しくて仕方がなかった。それも初回となれば、気持ちが弾むのは尚のこと。しかし、ルーナは非常にあっさりした様子で天秤に乗せたホグズミード行きとプリンピー釣りのうち、プリンピー釣りに錘を乗せたようだ。

 「バケツがプリンピーでいっぱいになったら、厨房に持って行こうよ。しもべ妖精にプリンピーのスープを作ってもらうンだ」

 これ以上に楽しいことは無いという笑顔で、早速一匹目のプリンピーを釣り上げたルーナにソフィアは少しだけ安心した。最近のソフィアを見ていたルーナに気を使わせてしまっているのではないかと、心配せざるを得なかった。もしかしたら、気を使っているのを悟られないように振る舞っているだけかもしれないけれど。

 それでも、ルーナが「これがプリンピーだよ」と言いながら見せてくれた優しい面輪に、ソフィアの心は安らいだ。両掌の上でプリンピーが小さな二本足をジタバタ動かしてもがくと、水滴が頬に飛んでくる。反射的に目を閉じて開くと、ルーナがクスクス笑いながら白い瞼に飛んできた水滴を拭いていた。久しく晴れやかな気分に、ソフィアも自然とまた微笑していた。

 「――ソフィアは、ヴィーラだったンだね」
 「え?」

 湖の水で満たされたバケツにプリンピーが約五匹泳ぐ頃、ルーナが静かにそう口にした。ヴィーラではないけれど、ヴィーラの混血であることをまさかルーナから明確に言い当てられるとは微塵にも思っていなかったので、突然のことに吃驚したソフィアは、思いがけず声を上げてしまう。プリンピーのステップに合わせて上下に揺すっていた釣り竿の動きまで止めてルーナを見るが、ルーナは伏し目がちに釣り糸の先を見下ろしている。

 「ワールドカップでヴィーラを見たときに気付いたンだ。メラメラメガネを通して見るソフィアと同じだったもン。とっても綺麗だった。だから、どうしてソフィアがメラメラメガネをかけていないとあンなふうに見えないのか、分かったよ。隠していないと、あンた、きっと大変なことになる……知ってる? ヴィーラがそこにただ立っているだけで、みんなおかしくなっちゃうんンだよ。まるで、ラックスパートに悪戯されているみたいにね」

 ルーナが言って釣り竿を湖から引き上げると、水カタツムリは釣り針から姿かたち諸共消えていて太陽の光に鋭利な針がキラリと光る。「餌を食べられちゃった」と肩を竦め、釣り竿を芝生に寝かせたルーナは、幾何学模様の上着のポケットからメラメラメガネを取り出してかけた。炎が燃え上がっているような縁のそれは、何度も見たことがある。メラメラメガネは、ダンブルドアによってソフィアにかけられている『目眩まし』を透視してしまう。ルーナもワールドカップ最終日を観戦しに行っていたとなれば、アイルランドのチームマスコットであるヴィーラをその目で見たということだ。ソフィア本来の姿を知っているルーナが気付いてしまうのも理解出来た。

 「ヴィーラは、瞬き一つでみんなの心を盗ンでいくの。呼吸をしたらその優美さで眩暈がして、動き出したら、そこだけが違う世界みたいにキラキラする。まるで夢の中にいるみたいに。みンな、甘い蜜をたっぷり持っている花に吸い寄せられていくみたいに、虜になる。だから、隠されているンでしょう?」

 メラメラメガネ越しにルーナが見ているソフィアは、まさに「絶世」という言葉が見合う輝くばかりに美しい少女だ。まだあどけなさの残る十四歳の何の力も無い華奢な体から溢れるばかりの清らかさは、美しい生い先をありありと窺わせる。風も吹いていないのに波打つように靡いて見える白銀の髪や、白く透き通った艶めかしいまでに匂い立つ目顔は、まさにヴィーラの血を強く引く証拠だった。

 「ソフィアは、幻想みたい」

 恍惚と呟くルーナに、ソフィアは唇を結んだ。ルーナに現実を超越した容貌だけが理由で隠されている訳ではないことは、誰にも明かしてはいけない。原因は不明だが、病弱だったソフィアの母親であるオリヴィアが「例のあの人」から娘を守るためだけに、母体のなかに生命を全て注ぎ込んで魔法をかけ続けた。全てはソフィアが闇に喰われないように。これら内々のことまで知られていないだけ良いと思いたいが、隠されているということを知られてしまったことが問題だった。

 「ねぇ、ルーナ、このことは誰にも――」
 「言わないよ。だって隠してる意味が無くなっちゃうもン」
 「……ありがとう」

 「ううン」と首を左右に振ってメラメラメガネを外したルーナは、芝生に置いた釣り竿を持ってプリンピー釣りを再開した。ルーナは、きっと誰にも口外しないだろう。彼女は人の変化を敏感に感じ取る察しの良い子だし、傷つけたり、困らせたりする子じゃない。

 隠さなければいけないのは分かっているけれど、ありのままの自分でいられないことに、いつか自分を見失ってしまう時が来てしまうんじゃないかと不安が胸を掠めた。今までこんな風に考えたことなんて無かった。『目眩まし呪文』のかかった自分の姿に、これは仕方のないことなんだと諦めていた。

 いいじゃない、ダンブルドア先生に守ってもらえているんだから。
 『目眩まし呪文』が無かったら、もっと危険な目にあっていたかもしれないんだから。

 ソフィアは、何度も自分に言い聞かせた。「でも」「だけど」と浮かんでくる別の言葉を飲み込んで、押し殺して。もう悩み事なんて抱えたくないのに、考え事がいくつも頭に過ぎっていく。餌の水カタツムリをプリンピーが食べているのか、釣り竿が微かに震えていたけれど、釣り竿が鉛のように重く感じられて、引き上げられなかった。

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