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たった一人になってしまったソフィアは、そのまま大広間を出て、玄関ホールに抜けた。
このまま寮に帰ってしまおうかと考えたが、正面の扉が開けっ放しになっていることに気が付いた。城のすぐ前の芝生が魔法で洞窟のようになり、中に豆電球ならぬ妖精の光が満ちていた――何百と言う生きた妖精が、魔法で作られたバラの園に座ったり、サンタクロースとトナカイのような形をした石造の上をヒラヒラ飛び回ったりしている。
その綺麗な光に誘われるように、ソフィアの足は正面の石段を下りた。冷たい空気全てがバラの情熱的な香りに包まれていて、呼吸をするたびにバラの香りが鼻腔を満たす。真っ白な雪の上に、目の覚めるような真っ赤なバラが一輪だけ枝を付けたまま落ちていて、ソフィア棘に注意しながらそっと拾った。鼻先に押し当て、目を閉じてバラの香りをかぎ、はぁ、と息を吐く。吐き出した白い息でさえバラの香しい匂いにさらわれていく。
目を開くと、バラの園に飛び回る妖精が数羽ソフィアの周りを飛び交い、光が瞬き、煌めいた。星のように小さな光に照らし出されるソフィアは、まるで彼方に浮かぶ月のように輝かしく、ひたすら美しかった。
掌を宙に差し出すと、一羽の妖精が華奢な白い手指に戯れるように揺蕩い、やがて導くように灌木の茂みに囲まれた空間からいくつも延びるくねくねとした散歩道の一つへ飛んでいき、ソフィアも後について行った。両手で銀色のドレスの裾を持ち、やや早足で、バラに囲まれた小道を駆け抜ける。凍てつくような静けさの中、ソフィアが雪を踏む音と噴水のような水音だけが聞こえていた。そして、小道が開けた先にソフィアを待っていた光景は――――。
夜のしじまに、銀世界が広がっている。息一つ零せば、それすらも凍てついてしまうような夜だった。誰の足跡もない、さらさらと細かい雪を踏む。骨まで染み込んでくる冷気とかじかんでいく指に構うことはしなかったたった一つの妖精の光に導かれるまま小道を行き、木々を通り過ぎ、開けた先にあった情景に瞠目し、首筋が粟立つのを感じた。
広大な湖が一面に凍り付き、氷面に豪華な星に彩られた夜空を映し出している。湖を取り囲む木々の枝にぶら下がる氷柱はどれも鈍く光り、草木は雪をかぶり、どこを見渡してもプラチナの世界。
人知では計り知れない幻想的で神秘的な世界に誘われ、雲ひとつない月の姿のたしかな冬の空の下、ソフィアは氷の床の中央に立った。城から微かに漏れ聞こえる音楽のメロディラインに沿って、野生のふくろうがどこかで鳴いている。
夜闇に覆われた木々の向こうから、輝くような真っ白な体を持った一角獣が一頭現れ、じっとソフィアを見ていた。しばらくすると、一角獣は彼女に見惚れているかのように四本の足を折り畳み、木々に体を預けて傍観する体制を取った。
ソフィア以外に、人は誰もいない。肌を刺すような冬の空気に一人その身を置き、ただ空を見上げた。葡萄色の瞳は濃紺の宵と月を映し出し、混ざり合い、彼女の双眼を夜空色に染め上げる。どこまでも果てしなく美しく、この空間だけ時が刻むのを止めてしまったかのようだった。
――その時。
誰かがギュ、ギュ、と雪を踏む音がした。振り返ると、そこにはドラコがいた。
***
彼女を追いかけていたその途中でバラの園からいくつも延びる小道の一つが目に留まった。真っ白な雪の上に、道しるべのように延々と続いていく一人分の足跡。足跡の大きさ的に、女子学生のものだろう。たった一人で、この寒空にどこへ向かう場所があるのかと不可解に思い、ドラコは足跡を辿ることにした。小道を行き、木々の間を通り過ぎ、白い息を吐き出しながら小さな足跡の上に足跡を重ねて歩き続けていると、数メートル先の開けた場所に少女のシルエットが見えた。
広大な氷張りの湖へ出た途端、ドラコは氷漬けにされたように足を止める。目の前に広がる光景に瞠目し、動けなくなってしまった。瞬きも、呼吸すらも忘れて魅入る以外、他に何か出来ると言う人がいるなら教えて欲しい。何が出来るというのだろうか。ただ魅入る以外に何が。
満点の星々と、月と、氷上のヴィーラと。
その片隅の神々しい一角獣でさえ、夢のようなその光景を見ていたいといいたげに腰を下ろしているというのに。
ソフィアか? 否、もしかしたら彼女では無いのかもしれないと思った。しかし少女は銀色のドレスを着て、クラウンブレイドに編んだ白銀。紛れもなくソフィアだった。月明かりの下、夜空を映す銀盤に立つソフィアは恐ろしいほど麗しく、月から降りてきたような神々しさを放ち、それこそ月の住人なのかと錯覚させた。
月よ星よと美しさそのものに愛されたソフィアは、白銀の世界にぼうっと浮かび上がりながら、『目眩まし』の解かれた美貌をはっきりと存在を主張していたが、あまりにも儚い。眺めている内に、降り注ぐ月光にさらわれてしまうのではないかと思うほど、儚かった。
ドラコは、夜空を見上げるソフィアの背を視界に捉えたまま白雪を踏んだ。ギュ、と新雪が軋む音が静寂に大きく響いた。そして、彼女がゆっくりと振り返った。