24
アラゴグが言っていた――五十年前に殺された女の子は、トイレで発見されたと。もし、女の子がその後、一度もそのトイレを離れたことがないとしたら、すぐに推測は立つ。
ソフィアは「嘆きのマートル」から、祖母の話は聞いたことがあっても、彼女自身の話を聞いたことはなかった。
しかし、教師が完全に生徒の外出を引率する体制の今、特に、最初の犠牲者が出た場所の、すぐ脇の女子トイレに行くのは至難の業だった。先生はトイレに行く時も付き添いが必要だと言ったし、わざわざグリフィンドール塔から離れた、三階の廊下の「故障中」のトイレに行きたいなどと言えば、怪しまれること請け合いだ。そもそも許可が下りないだろう。
マクゴナガル先生が、期末試験が一週間後の六月一日から始まるとの知らせと、スプラウト先生のマンドレイク薬がもうじき完成するとの朗報を持ってきた時、ロンは絶望半分、喜び半分といった実に器用な顔を作った。他の生徒たちも似たような反応だ。ロンは試験にはかなり落胆したようだったが、ハーマイオニーがやっと目を覚ますと思うと、ここしばらく見せたことがなかったような、嬉しそうな顔をした。
「それじゃ、マートルに聞きそびれたこともどうでもよくなった!目を覚ましたら、たぶんハーマイオニーが全部答えを出してくれるよ!でもね、きっとあいつ気が狂うぜ。復習してないんだからな。試験が終わるまで、今のままそっとしておいた方が親切じゃないかな」
その時、ジニー・ウィーズリーがソフィア、ハリー、ロンのところへやって来て、無言のままストンとロンの隣に腰を下ろした。緊張して落ち着かない様子で、膝の上で手をもじもじさせている。
「どうした?ジニー」
ロンがオートミールのお代わりをしながら聞くと、ジニーは黙ったまま、グリフィンドールのテーブルを端から端まで眺め、怯えた表情をしていた。そしてもう一度、ロンから「言っちまえよ」と促されると、やおら口を開いた。
「あたし、言わなければいけないことがあるの」
ジニーは、明らかにハリーとソフィアから目を逸らしながらボソボソ言った。しかしすぐに言葉に詰まり、なんと言っていいのかわからない様子だ。
「いったい何だよ?」
ジニーは口を開いた。が、声が出てこない。ハリーは少し前かがみになって、ロンとジニー、そしてソフィアだけに聞こえるような小声で言った。
「『秘密の部屋』に関することなの?何か見たの?誰かおかしな素振りをしているの?」
その時、折悪しくパーシー・ウィーズリーがげっそり疲れ切った顔で現れた。
「ジニー、食べ終わったのなら、僕がその席に座るよ。腹ペコだ。巡回見廻りが、今終わったばかりなんだ」
ジニーは椅子に電流が走ったかのように飛び上がって、パーシーの方を怯えた目でチラッと見るなり、そそくさと立ち去った。騒ぎが起こるまま静まらない大広間で、一人だけ逃げるように退室するのは彼女のみ。彼女が席から離れた時、同時にソフィアは誰かに肩を小突かれた気がした。振り向いても誰も居ない。パーシーは腰を下ろし、テーブルの真ん中にあったマグカップをがばっと掴んだ。飲みっぷりがロンにそっくりだ。
「パーシー!ジニーが何か大切なことを話そうとしたとこだったのに!」
隣でパーシーに不満をぶつけるロンとハリーを一瞥し、逡巡して席を立つ。騒ぎの渦を抜け、静閑たる廊下へ歩を進めた。ソフィアはパーシーの件と、ジニーが言おうとしたことは違うのではないか、と直感した。ジニーは何を言おうとしていたんだろう?「秘密の部屋」について、彼女が何を知っているというんだろう?
***
一度見失った影はなかなか見つからなかった。そんなに離れていなかった筈なのに、ジニーの姿はどこにもない。いつも通っているはずの廊下も長く感じ、他者の気配もなかった。
「ジニー…どこ…?」
思わず飛び出してしまったがあてもない。音すらもしない空間に、ソフィアは先程の光景が見間違いだったのかもしれないと思ってきた。厳重警戒中のホグワーツに自ら一人になろうとする生徒がいるだろうか?――気のせいか。教師不同行がバレたらマクゴナガルにどれほど怒られるだろう?早いうちに戻ろうと踵を返した、その足が止まった。
「……!」
ヒクッと喉が震えた。居ない、はずだ。少なくとも気配はなかった。静かすぎるこの廊下ならば足音も息遣いですら気取られる。それが今の今まで一切なかったのだ。ゴーストですら、衣擦れのような朝霞の音をさせ移動する。今まで彼に感じたことのない気配だ。猜疑心にまみれた一種恐怖に近いものが身に染みつく。
「……だ、れ?」
出すつもりもなかった声。口が勝手に動いたようだった。彼は穏やかに笑む口元に今は落ち着かない感情ばかり溢れる。本能的に逃げた方がいい、そう思うも足に力が入らない。竦んでしゃがみたくなった。しかしここで動きを封じられれば後が恐ろしくなることも必須。プレッシャーが、ソフィアを包み圧倒した。何もされてない、ただ相対しているだけなのに――
「やあ、初めまして…かな」
彼は軽やかな声で、日常の挨拶のように言葉を紡いだ。黒髪、長身、緑色のネクタイ、穏やかな表情。
「やっと会えたね、ソフィア」
“ソノヒト”はソフィアの名前を知っていた。けれど、ソフィア自身は彼のことを知らない…同級生ではなさそうだ。口を結び沈黙を通す少女に、少年は不思議そうに首を傾げた。ひょうきんな様子はあからさまでわざとらしい。暫く彼女を見つめ、思い付いたように「あぁ」と声を漏らした。
「生身で会うのは、初めてだっけ?」
――生身?意味の分からない言葉を紡ぐ彼はやはり何処か怖い。この時ソフィアは漸く気付いた。ここは最初の事件が起こった現場だ。「嘆きのマートル」が潜む女子トイレ近くの、あの。
ソフィアは逃げたかった。恐怖ではない、否そうなのかもしれない感情がグルグルと体内を廻る。思考も感覚もすべてが自分のものでない錯覚を抱いた。逃げなくては。反射でも本能でもないナニかがそう告げた。この場に留まってはいけない、一刻も早く、遠くへ、離れなくては。それは命令か洗脳か。
目前に立つ少年は害のない笑みで彼女を見下ろしていた。害を、亡くした笑み。わかっている筈なのに反応を拒んでしまう。どうすべきか、なんて馬鹿げた問いだった。
「誰かを、探してるみたいだったね」
「……はい…」
辛うじて出た声は酷く掠れていた。砂漠に置き去りにされたが如く喉が渇いた。張り付きそうなソレが僅かに震える。不安緊張寂寥焦燥――……今までには感じなかった気配。見た経験のない彼の様子は酷く穏やかで。
「――誰を、追いかけていたの?」
問い掛ける声に喉を掴まれた気分になった。呼吸するにも苦労が絶えない――ソフィアは僅かに顔をしかめた。筋肉が痛いくらいに固まってしまったようだった。自分は今どんな表情をしているのだろう?それすらもわからない。
「と…友達…。大広間から、出た気が…して…」
「あの赤毛の女の子?」
「…そう――」
言いかけて言葉に詰まった。どうして、彼は知っているのだろうか?葡萄色の目を見開き相手を見つめたが彼の表情は変わらない。優しい、微笑み。その表面に刻まれた言葉の意味をソフィアは知らない。
「さっき凄い勢いでここを走っていたよ」
どうして、
「相当焦ってた」
どうして、そう言える?
「本当は話そうと思っていたのに、邪魔が入ってさ」
どうして、詳細を知っている?
「限界だったんだ」
どうして――自分のことのように語るの?
ソフィアは口を動かすも、言葉を発することもできなかった。何を告げていいのか、わからない。聞きたいことが沢山ある。しかし、そのどれも今ここでは聞くに値しないものだった。今ここで問うべきこと。
「もう時間もないしね」
「どうして……」
その続きは言えなかった。しかし彼は表情を愉快なものに変え、ソフィアを見下ろす。
「君は頭の回転が早くて助かるよ」
「――ッ」
突然、表情だけでなく声音までも変えた彼にソフィアは驚いて肩を震わせた。離れていた筈の距離も今はない。
見下ろす彼はとても近かった。愉快げに上げられた口端がソフィアの視界に入っている。
「連れて行ってあげるよ、彼女の所まで」
そう言って彼はソフィアに手を差し伸べた。少年と青年の間に立つ者の年齢の男子らしくスラリと伸びた手だった。骨ばった、しかし荒れの少ないもの。
「知って、いる…の…?」
「勿論」
嘘ではない。そう直感した。しかし信用はできないでいる。ソフィアは暫し躊躇した。この手を取れば、ジニーには間違いなく会えるだろう――でもその後は?厳重警戒域のホグワーツで生徒のみの単独行動は危険しか招かない。ましてや目の前の人物についてもソフィアは知らないでいるのだ。
「行かないの?」
彼の声が彼女に揺さぶりをかけた。こうしている間にもジニーは危険な目に遭っているかもしれない。先程の彼女は、明らかに何かを恐れ、危機が近いのを知っていた風だった。
「……手遅れになるかもよ?」
「!」
示唆――これは警報だ。ソフィアはまっすぐ彼を見つめた。無意識にゴクリと息を呑み、そして目の前の手をとった。彼はいっそう笑みを深いものにする。重なった手を握りソフィアを先導しだした。
「こっちだよ」
触れた手は酷く冷たかった。見た目はそうでもないのに、実際は痛いくらい握りしめられ、彼の見えない所でソフィアは眉を寄せる。伸ばされた手を取ってしまった。それは―――狼に捕らえられた赤ずきんのようだった。