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おかしい。
たった今まで来て欲しくない、逃げて欲しいと思ったのに、ソフィアが近くにいてくれると、不思議と何も怖くなかった。心配してくれるのが、心から嬉しかったのだ。
「ハリー・ポッター、僕はここに座って、君の臨終を見物させてもらおう。ゆっくりやってくれ。僕は急ぎはしない。ソフィア、最期の別れの挨拶くらいは許可しよう」
リドルがソフィアを離すと、彼女は崩れ落ちるようにして膝をつき、ハリーの上半身を支えた。バジリスクの返り血や汗で固まったハリーの前髪をはらうと、稲妻形の傷が露になる。傷跡を人差し指でなぞると、ハリーが薄らと笑う。
「ハリー……」
「ソフィア、そんな顔……しないで」
今にも眠ってしまいそうな顔でハリーが言った。
「これで、有名なハリー・ポッターもおしまいだ」
フォークスが真珠のような涙をハリーの傷口に落とす。その頭を撫でながら、ソフィアは遠くの位置に座ったリドルの声を聞いていた。
「たった一人、『秘密の部屋』で、友人にも見捨てられ、愚かにも挑戦した闇の帝王に、ついに敗北して。もうすぐ、『汚れた血』の恋しい母親の元に戻れるよ、ハリー……。君の命を、十二年延ばしただけだった母親に……しかし、ヴォルデモート卿は結局君の息の根を止めた。そうなることは、君もわかっていたはずだ」
「見捨てないわ…!私は絶対、見捨てたりなんてしない!ハリーは決してあなたに負けたんじゃないもの。私だってそうよ。リドル、あなたには絶対屈したりしないわ。ハリーがそうだったように」
ハリーは、上半身を抱き、首を後方へ回してリドルを睨むソフィアをぼんやりと虚ろに見上げた。
こんなに近くにいるのに、意識が遠くなっていく。もう痛みを感じることすらも出来なくなっていく。これが死ぬということなら、あまり悪くないかもしれない。
ソフィアの腕の中で彼女に看取られて、僕は逝くんだ、と。だけど、どうしてもリドルにソフィアを譲れない。
――譲りたくない。
ソフィアだけは、どうしても……だけど、暗闇に覆われていく視界には逆らえない。このまま、真っ暗闇の中に……真っ暗闇? ハリーは、ソフィアの腕の中で秘密の部屋を見回す。
闇に包まれるどころか、『秘密の部屋』もソフィアも、腕に頭を休めたままのフォークスもはっきりと見え始めたのだ。傷口の周りが、ぐるりと真珠のような涙で覆われていた――しかも、その傷さえ消えている。ハリーが傷の消えた腕を見ていると、ソフィアもハリーの腕を凝視していた。
「鳥め、どけ。そいつから離れろ。聞こえないのか。どけ! ソフィアも、もうそろそろいいだろう」
ソフィアは、身じろぎをして預けていた頭を起こすハリーの体を後ろに隠し、リドルに杖を向けられているフォークスを庇おうと更に体制を変えようとした時、鉄砲のようなバーンという音がした。
大きく体を揺らして、思わず目を固く瞑ると体が横に反転する。リドルの冷たく、縛り付けるような腕ではなく、温かくて、優しい、包み込まれる感覚にソフィアは再び目を開く。
目の前にはハリーが。そして、ハリー越しにリドル。ハリーとソフィアの位置が入れ替わっていた。金色と真紅の輪を描いた余韻を残し、フォークスは高く舞い上がっている。
「不死鳥の涙……そうだ……癒しの力……忘れていた……しかし、結果は同じだ。むしろこの方がいい。一対一だ。ハリー・ポッター……二人だけの勝負だ……」
リドルが杖を振り上げると、激しい羽音と共に、フォークスが頭上に舞い戻り、ハリーとソフィアの足元に何かを落とした。それは、リドルの日記だ。ハリーもリドルもソフィアも、ほんの一瞬だけ静止し、日記帳を見つめた。そして、ハリーが静かに呟く。
「リドル……ソフィアは、君のものにはならない」
ハリーは、無心で、躊躇いもなく、腕に突き刺さって引き抜いたバジリスクの牙を掴み、初めからそうするつもりだったかのように、日記帳の真芯に勢いよく突き立てた。
リドルが、耳をつんざくような悲鳴を長々とあげ、身をよじり、悶える。日記帳から、インクが激流のようにほとばしり、ハリーの手を流れ、床を浸す。靴下やスカートの裾が、みるみるとインクを吸い込んで重くなっていくのを感じながら、ソフィアはハリーのすぐ後ろで、消えていくリドルを見上げていた。悲鳴をあげながら、崩れ去るように消滅していくリドルが、最期にソフィアを見て、手を伸ばす。
――イザベラ
悲鳴の中で、穏やかに、誰かの名前を呼んでいるのが確かに聞こえて……最後の欠片が消えた。
ハリーの杖が床に落ちて転がり、静寂が訪れる。インクが日記帳から染み出し、ポタ……ポタ……と落ち続ける音だけが静けさを破っていた。二人は、黒々と床に広がるインク溜まりの中心にいた。足元には、バジリスクの猛毒に貫かれて焼け爛れた穴を残す日記。ハリーは、まるで嵐をやりすごした後のような静けさの中、振り返る。
瞳の奥が、怪しく灯った僅かな光のせいで艶めかしく揺れていた。
次の瞬間、ハリーはソフィアを息が詰まるほど、強く抱きしめた。