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「この人、誰だと思う?」
「R・J・ルーピン先生。カバンに書いてあるわ」
翌日、ホグワーズ特急に乗った四人。しかし既にどこも満席で、仕方なしに先客が一人いるコンパートメントに入った。ローブをまとった男性は最後尾のコンパートメントの窓にもたれていた。ロンは対面の席に座りながら、男性の白髪交じりのあかるい茶髪をながめて言った。
「強力な呪いをかけられたら一発でまいっちまいそうだな。で、ハリーの話ってなに?」
ハリーは寝ているルーピン先生をちらりと見てから、三人に気まずそうな視線を送ってきた。いいから話して、とハーマイオニーアはうなずいて合図する。
ハリーはMr.ウィーズリーから聞いたシリウス・ブラックについて説明してくれた。
「自分からブラックを追いかけないようにって、アーサーおじさんに言われたんだ。僕って向こう見ずだと思われているのかな」
のんきに話しているのは当の本人であるハリーだけだ。ハーマイオニーは恐ろしさのあまり両手で口を押さえている。愕然としたロンはわずかにふるえていた。ソフィアは白い顔が更に青白くなってきている。ハリーのトランクにあるスニーコスコープが鳴り出して、張りつめた空気は破られた。
「ソフィアは僕のあげたスニーコスコープを持ってこなかったのか?」
スニースコープとは、ロンのお土産だ。ガラス製のミニチュア独楽のような形状をしており、胡散臭いものが近くに存在すると光ってクルクル回り始める。闇魔術検知にも役立つ。
「勿論持ってきたわ。でも…院で鳴ってしまうと怒られるから、一応今は黙らせ呪文をかけてるの」
そこでソフィアはふと気づいた。ハーマイオニーが探るような目でロンを見ている。
(もしかして……ロンはハーマイオニーにエジプトのお土産をあげなかったの?)
ロンはそれに気づかず、ホグズミード村のお菓子の話をはじめた。サインをもらえなかったハリーは目に見えて落ちこんだ。ハーマイオニーはそれをブラックのせいだと思ったらしく、明るく言った。
「ちょっと学校を離れて、ホグズミードを探検するのも素敵じゃない?」
「だろうね。見てきたら僕に教えてくれなきゃ」
「ハリー、訂正して。“僕たち”よ。私も許可証にサインをもらえなかったから…」
「「なんで?」」
ハリーとロンの声がかぶった。
「学校では勉学に励むべし、って…院長先生が許してくれなかったの」
本当は嘘だ。院長先生は、特に愚痴を言うことなく、あっさりとサインをくれた。しかしハリーだけ行けないのは気の毒に思ったソフィアは咄嗟にそう言ってしまった。考えにふけるソフィアの代わりに、ロンがハリーをなぐさめている。
「まあ、でも、兄貴たちなら城の抜け道を全部知っているから……」
「ロン!!ブラックが捕まっていないのに、ハリーは無断で学校の外に出るべきではないわ」
厳しく注意しようとしたハーマイオニーは飼い猫をいれた籠に手をかけた。クルックシャンクスはすぐさま飛びだして、ロンの膝の上に乗った。彼の上着のふくらみを黄色い目玉でにらんでいる。
(本当にどうして…スキャバーズばかり狙うんだろう…)
ソフィアは不思議に思ったが、猫がネズミを追いかけるのは自然の摂理なのかもしれないと解釈しておいた。
―――すると突然、ホグワーツに着くまえに列車がとまった。運転手に状況を聞きにいこうとしたハーマイオニーは、コンパートメントの入口でだれかとぶつかっていた。真っ暗だけど声からジニーだと分かった。ロンが妹にすすめた席はハリーの膝の上だった。
「イテッ!いま僕のすねを蹴ったのはハーマイオニーだろ」
「言いがかりよ。なにも証拠がないのに、私を犯人呼ばわりしないで」
「こんな容赦のない蹴りを入れてくるのは、兄貴たちかキミしかいないよ」
「静かに」
かすれた低い声がさえぎった。騒いだせいでルーピン先生を起こしてしまったようだ。動かないで、と注意をうながしたルーピン先生は手のひらに灯りをかかげた。そのときドアがゆっくりと開いた。ルーピン先生の灯りに照らし出されたのは、長いマントをすっぽりかぶった影法師のような存在だ。
雪の中にでもいるかのような感覚。ガラガラと音をたてながら、ゆっくり、長く息を吸い込んだ。空気以外の何かを、体の奥底にある何かを吸い込もうとしている。何かを吸い込んでいるはずなのに、背筋が凍るような冷たいものが、ソフィアの肌に染み込んで体内に入り込んできた。
そして、その冷たいものは猛烈に体の中の何かをかき集めて、引き摺り出されるような感覚に襲われた。
愛してる、愛してるわ――
優しかった。だけど、心臓が鷲掴みにされるような。駆け出したくて、大声で叫びたくなるような。切ない、苦しい。言葉自体は美しい響きなのに、ゾッとした。
――あなたは、誰?
激しい空気の律動に意識が泳がされて、体の一部が体内から投げ出され、底の見えない谷へ落ちていくような気がした。体から切り離されたものは、大切なものだった。大切だった何かを、ソフィアはどこかへ置いてきてしまった――。
自問に返ってくるはずの自答が、ソフィアの中にはもう無い。カクン、とソフィアの体が崩折れた。
「シリウス・ブラックをマントの下にかくまっている者は誰もいない。去れ」
厳しい口調で告げたルーピン先生は杖を振って銀色の物体を出した。それに恐れをなしたように、不気味な影法師はすべるようにして消えた。
***
瞼の上に冷たい何かが落ちてくる感覚に、ソフィアは薄らと目を開く。白い布のようなものが視界に迫ってきていて、前髪を払いのけられて露になった額にのせられた。それは冷たくて心地よかった。体内に熱がこもっていると分かるのに、寒気がして体が震えている。人差し指で、瞼の上に落ちてきた何かに触れた――水だった。
ゆっくりと焦点を合わせていくと、酷く心配そうにマダム・ポンフリーがソフィアの顔を覗き込んでいる。そろそろ通常に回転するはずの脳みそが、事後処理をするのを拒む。目を覚まして最初にソフィアが思ったことは、「頭が痛い」だった。ふわり、と独特な薬品の匂いが鼻をかすめ、首を動かすとベッドサイドにゴブレットが置いてあった。
「今朝から体調が優れなかったようですね? 酷い高熱です。スネイプ先生が煎じてくださった解熱薬を飲みなさい」
細かく刻んだヨモギをたっぷり煎じた水薬が並々と注がれたゴブレットを口へと運ぶ。苦味の強い味に、喉が解熱薬を通すのを阻んだ。しかし、ここで口を離してしまえば、次に薬を飲むのが億劫になる。ソフィアは、ゴクッと喉を大きく上下させて一気に飲み下した。喉を通り、スムーズに液薬が流れるように顔を天井へ向けると、食道を降りていく。口の中に草味の余韻を残し、最後の一口を流し込むと、かすかに残った薬の味がやがて消えた。
「新学期早々、医務室送りとは情けない。関節を抜き取られ、ゴム人形のように伸びて抱えられる姿は、酷く滑稽でしたな。ミス・エムリス」
唇を微かに開いて低音で話しかけてきたのは、スネイプだった。ソフィアが眠っていたベッドのすぐ脇に立っていたらしい。カツカツと忙しなく医務室を歩き回るマダム・ポンフリーが、医療棚の戸をいくつも開けていく音を遠くで聞きながら、スネイプの暗い瞳を見上げる。こちらとて新学期早々、寮監に毒を吐かれるとはホグワーツ特急に揺られている間、予想だにしていなかった。
片眉をクイと額へ押し動かしている姿が、自寮の生徒が災難に見舞われたというので、渋々様態を見に来ただけだと言いたげだった。医務室の一番目立つところにかけられている時計の針は、就寝時間を指している。憎まれ口を叩きながらも、スネイプはソフィアが目を覚ますまでそばにいてくれたのだ。しかし、あくまでも単なる職務を果たしたまでだと、彼には自覚がない。
「無理もありませんよ、スネイプ先生。あんな野蛮な連中に出くわしたのですからね。さぁ、解熱剤を飲んだらチョコレートを食べなさい。ディメンターに襲われた時は、これが一番です。熱が下がるまでは絶対安静ですよ!」
銀紙に包まれたチョコレートをひとかけら。一口でそれを咀嚼すると、劣悪だった気分が落ち着く。スリザリンの寝室で親友たちと一緒に眠りたいなぁ、と思っていると、急激に眠気が襲われた。睡眠こそが最大の休息だと、解熱剤に催眠豆の汁でも入れられていたのだろう。虚ろになっていく目で最後にスネイプを見上げて、ソフィアの意識はプツリと途切れた。
「精々、初回の魔法薬学までには回復していることを願いたいものですな。欠席の暁には、たっぷり課題をくれてやろう」
至極意地悪く口端をクイと持ち上げたスネイプが、ソフィアの瞼の裏に焼き付いた。