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 大広間を通り過ぎ、一目散に走って辿り着いた場所は女子トイレ。体当たりするように扉を開けトイレの中に入る。見るとトイレの個室のうち、一つだけ扉が閉まっているのがあった。耳を澄ませると蚊の鳴くような声が聞こえてくる。
 
 「パーバティ……もういいわ。先に大広間に行っていて……」

 聞き覚えのある声だったが、それはとてもか細く弱々しかった。蛇口を捻って水を止めた後、絶え間なくしゃくりをあげ続け、時折鼻を啜る音だけが女子トイレに響いている。その音だけを頼りに、ソフィアは壁伝いに人の気配を探していく。
 
 「…私はパーバティじゃないよ…。ハーマイオニー」

 一つ一つの扉に耳を押し当てながらそっと囁いたソフィアの声は、彼女自身が驚くほど優しく響いた。泣いているハーマイオニーの名前を呼んだ時、一番奥の個室からヒュッと息を呑んだ音がして、静かになった。呼吸すら殺しているのか、女子トイレは静寂に包まれたが、ハーマイオニーは声だけでここにいるのがソフィアだと理解したようだ。

 「泣いているの?」

 一番奥の個室の、扉一枚を隔てた向こう側にハーマイオニーがいる。ソフィアの問いかけに彼女は答えなかったが、堪えきれない嗚咽が零れていた。彼女の震えた吐息は声にならない痛みを切に訴えているようで、ソフィアの胸がどうしようもないほど締め付けられた。

 「…ハーマイオニー…今日…ロンが言っていたことだけど――「わ、分かってるわ!あの人の言いたいことくらい、私だってちゃんと分かってるのよ!」

 ソフィアの言葉を遮り、ハーマイオニーがヒステリックに叫んだ。彼女がどうにかして気丈な声を絞りだそうとしているのが、手に取るように分かる。

 「皆私に飽き飽きしてる…私みたいなおせっかいの知ったかぶりには誰だって我慢できないのよ!あなただって、本当はそう思ってるんでしょう!」

 その言葉にソフィアは目を見開いた。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったからだ。

 「そ、そんなことない…。私…、ハーマイオニーの優しさは…ちゃんと知ってるよ」

 汽車でハーマイオニーがソフィアに見せてくれたのは間違いなく“彼女の優しさ”だ。そしてソフィアは彼女の“努力”も分かっていた。

 「…私もマグルの世界で育ったから…ハーマイオニーの気持ち、よく分かるよ」
 「な、何を知ってるって言うの…っ」
 「…本当は不安だったんだよね…?ハーマイオニー、ホグワーズ特急で言っていたもの…。マグル出身だから自信がない…って、皆と話が合わなかったらどうしようって…。そう…思っていたんじゃないかな…」

 いつの間にか、個室からすすり泣きの音がしなくなっていた。ソフィアの声だけが響いている。

 「だから…あんなに努力していたんでしょう…?ハーマイオニーは、お節介の知ったかぶりなんかじゃなく…頑張り屋で努力家の女の子だよ」

 これはソフィアだからこそ言えることだった。他の誰もあの時、ハーマイオニーがふと漏らした本音を聞いていないのだから。

 「ハーマイオニーは凄いよ……私なんかより、ずっと。私は不安と心配で一杯だったけれど…、あなたみたいに努力はできなかったから…ずっと逃げていただけだから…。だから…ハーマイオニーは凄い…」

 数秒の間、その場の時が止まったかのように静かになった。すると今度は個室から声が聞こえてきた。

 「…私、嬉しかったの。汽車であなたに会ったとき…。皆はこれっぽっちも耳を傾けてくれなかったの。ママやパパにも、興奮すると早口になるクセがあるから気をつけてねって散々言われたあとだったのに、私ったら、それをやってしまったのよ。でも貴方はちゃんと聞いてくれたわ。それが、本当に嬉しくって…女の子の初めての友達だって思ったの」

 ゆっくりと所々しゃっくりを繰り返して鼻声で少しずつハーマイオニーは言葉を綴る。一方でソフィアは、ハーマイオニーの言葉に驚く。自分の耳を疑う程に。

「友達……私たち…友達…」

ぽつり、ぽつりと呟くソフィア。

 「笑わないで聞いてよ。…私って友達が一人もいなかったのよ。こんな性格だから、マグルの子にも受け入れてもらえなかったわ…。だからホグワーツに入学する日をずっと楽しみにしていたし、友達という存在にとても憧れていたの。この気持ち…あなたにわかるかしら…?」

 所々しゃくり上げながらも必死に伝えようとするハーマイオニー。そしてそれを聞いてソフィアも彼女と同じ身の上を話した。

 「…分かる…すごく分かるよ。私もハリーやロン、ハーマイオニーに会うまで…友達なんて…今までできたことなかったから…。だから…お互いにとって…初めてできた女の子の友達だね」

 嬉しくて、嬉しくて、喉の奥が締め付けられるような感覚に、ハーマイオニーは「ああ」と喘いだ。どうしようもなく、ソフィアの顔が見たくなってしまった。泣き腫らしてみっともなくなってしまった顔なんて、誰にも見せたく無かったのに。それに、きっとソフィアの顔を見たらまた泣いてしまう。それでも、指は勝手に鍵を開けた。

 ギィ……と軋みながらゆっくり開かれた先には、汽車で出会った時のままの今にも消えてしまいそうなくらい儚い彼女がいた。

 顔を見合わせれば、こんなにも簡単なことだった。二人共、お互いがとても大切だと思い合っているのが、痛いほど伝わって来る。薄く微笑みを湛えたソフィアに、ハーマイオニーは飛び込んだ。ハーマイオニーが力を込めた分だけ、ソフィアも思い切り抱きしめた。けれど、どれだけ抱きしめても足りない。応えてくれるソフィアに、心臓を鷲掴みにされた心地がして、くしゃりと顔を歪めた時、泣き腫らして真っ赤になった瞼を縁取る睫毛に残っていた涙の粒が煌めいた。そして、やはりハーマイオニーは泣いてしまった。

 もう何かを話す必要は無かった。ただ隙間を埋めるようにぴったりと体を寄せて抱き合えば、互いの鼓動が会話をするのだから。

「ソフィア、ありがとう……」

 腕を絡ませたまま、体を少し離したハーマイオニーが泣きながらやっと笑ってくれた。ソフィアは首を振り、彼女の頬に残る涙の筋をそっと人差し指で辿る。すると、「あんなに大泣きしちゃって、恥ずかしいわ」と肩を竦めたハーマイオニーがクスクス笑うので、ソフィアもつられて静かに笑った。子犬がじゃれつくような小さな笑い声がしばらく女子トイレに響いていたが、二人は唐突に異変を感じた。

 「変だわ。泣き過ぎて鼻が詰まっているはずなのに、おかしな匂いがする。これ、何の匂いかしら?」

 眉間に皺を寄せて、匂いを嗅ぐハーマイオニーの言う通り、どこからか雪崩れ込んで来るかのようにトイレに悪臭が漂い始めた。そして匂いの後から遅れてやってきたのは、何かを引き摺る音と、低いブァーブァーという唸り声。得体の知れない何かが近付いて来ていると分かると、二人は表情を強張らせて身を寄せ合ったまま出入り口へ近付いて行った。しかし、数歩も進まない内に、急に二人の視界に影が差した。

 影の正体はあまりにも巨体すぎて、小さな女の子がその全貌を把握するまでには舐めるように視線を滑らせなければならなかった。まず目に入ったのは、コブだらけの巨大な足。皮膚は墓石のような鈍い灰色で、汚れた腰巻の上にでっぷりとした腹が乗っかっている。全長は約四メートルほどだろうか。岩のような体とは不釣り合いな小さな頭がソフィアとハーマイオニーを見下ろしていて、彼女達が顔を上げた瞬間、その怪物は引きずっていた棍棒を振りかぶった。

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