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「トロールよ!!」
ハーマイオニーが叫び、ソフィアの腕を力の限り引っ張った。先程彼女が篭っていたトイレの個室に二人で入り、中から鍵をかける。ハーマイオニーは、便器の脇にソフィアとしゃがみ込み、彼女の頭を庇うように抱く。個室の壁が、端から次々に崩壊していく轟音がし、その破片が二人に降りかかるまでそう時間はかからなかった。
棍棒が頭上すれすれを横切り、ハーマイオニーが恐怖のあまりに甲高い悲鳴を上げた。彼女の腕の中から顔を上げ、トロールを見上げる。降りかかる破片を手で庇いながらハーマイオニーの手を握って立ち上がる。逃げようと手を引くが、足腰が震えるハーマイオニーが縮み上がって動けないでいた。
トロールは洗面台を次々に叩き割りその陶器の破片が辺りに飛び散る。徐々に距離を詰めてくるトロールに、泣き腫らした真っ赤な瞼をしたハーマイオニーも、恐ろしさに顔を歪めている。
単細胞のトロールだから、まだきっと手立てはあるはず。けれど頭の中は真っ白で、思考が上手く働かなかった。トロールがゆっくりと棍棒を天井へ持ち上げた。ハーマイオニーが声にならない声を上げ、ソフィアの体に腕を巻きつけて首筋に顔を埋めた。
ダメだ、逃げられない――水浸しの床に膝から崩れ、ハーマイオニーを抱きしめて瞼を固く瞑った時だった。
「ハーマイオニー! ソフィア!」
力強く呼ばれた名前の後に、金属が弾け飛ぶような音がした。爪先に何かが当たってソフィアが目を開けると、トロールの足の隙間から、女子トイレの入口の方にハリーの姿が見えた。ハリーが壊された蛇口を投げ、「こっちだ!」と叫び、ロンがトロールの周りを大きく旋回して「やーい、ウスノロ!」と粉々にされた個室扉のドアノブをトロールに投げつける。それはトロールの肩に命中したが、その分厚い皮膚には虫が止まっただけの感覚に過ぎず、トロールに通用する一撃では無かった。しかし、ロンの渾身の叫び声は、トロールの意識をソフィアとハーマイオニーから逸らせるのには十分だった。
「今だ! こっちに走るんだ!」
トロールの醜い鼻面がロンへ向けられた時、ハリーがこちらに手を伸ばしてきた。それを見たソフィアは左手でハーマイオニーの手を取り、右手をハリーの方へ伸ばして駆けだそうとするが、ハーマイオニーは足が竦んで走るどころか立ち上がることすら出来なかった。
「ハーマイオニー! 立って!」
ソフィアが懸命にハーマイオニーの手を引き上げるが、彼女の靴は水浸しの床を滑り、小さな飛沫を挙げるだけだった。そこへハリーがトロールの背後へ回り込み、二人のそばへ駆けて来ると、ハーマイオニーの腕を思い切り掴んだ。そうしている間にも、トロールは再び壁際の隅にくすぶっている三人の方へ振り返った。
「逃げろ、ハーマイオニー! おい、お前! ハーマイオニーから離れろ!」
ロンが渾身の力を込めて投げた破片がトロールのこめかみ辺りに当たり、激昂したトロールは、唸り声をあげて逃げ場のないロンの方へ向かった。一瞬動きを止めたハリーが、躍起になってハーマイオニーの腕を引っ張った。ハリーの表情に明らかな焦りが浮かんでいる。ロンが危ないけれど、彼女たちも外へ逃がしたい。どちらを優先するべきなのか、ハリーも危険な状況に錯乱させられているのだ。
「ハリー、今はロンを助けないと…!」
ソフィアは、歯を食いしばり、腕が抜けそうなほどハーマイオニーを引っ張るハリーの手の甲に掌を重ねて言った。ソフィアは、ピッタリと壁に背中を縫い付けたままのハーマイオニーを背中に隠し、杖をポケットから抜き取って構えるが、ハリーは首を左右に振ってソフィアの手を杖ごとポケットに仕舞わせられた。
「ダメだよ、ソフィア。血が出てるじゃないか。これ以上きみに怪我はさせられないよ。僕が何とかするから、二人は早くここから逃げるんだ」
逃げ惑っている時、頬を掠めた破片で傷つけてしまったのだろう。血が滲むソフィアの頬をローブの裾でそっと拭ったハリーは、ソフィアが「一人じゃ危険だよ」と制止する間もなく、ロンと距離を詰めつつあるトロールの背中に飛びついた。
トロールの太い首に回し、弛んだ顎の皮を掴んだ。足をでこぼこした背中の皮膚に引っ掛けたとき、利き腕に握っていた杖がトロールの鼻に突き刺さる。ハリーの重さには気が付かなかったが、鼻腔を刺激する異物にはさすがに気付いたのだろう。トロールは、身を捩ったが、その拍子に杖が余計に鼻の奥を突きあげたのだ。痛みに声をあげたトロールが棍棒をめちゃくちゃに振り回すと、渾身の力でトロールにしがみつくハリーの体が今にも振り落とされそうに激しく揺さぶられている。
「ハリー!」
振り回されているハリーの革靴が片足だけ脱げた。水溜りを跳ね返した靴を慌てて拾い上げ、棍棒で強烈な一撃を食らわせられてしまうのではないかとソフィアは不安でたまらなくなった。背後のハーマイオニーは、恐ろしさのあまり耳を抑えて縮みあがっている。そんな中、ロンがなりふり構わず杖を構えて振った。
彼が叫んだ呪文は、浮遊呪文だった。
「ウィンガーディアム・レビオーサ!」
突然、トロールの手中の棍棒がするりと飛び上がり、宙へ高く上がって行った。そして空中でゆっくり一回転してから、トロールの脳天目がけて真っ逆さまに落ちた。トロールは脳震盪を起こし、視点が定まらないのか目を虚ろに動かした後、その場にうつぶせで倒れ込んだ。倒れた衝撃がソフィアたちの内臓をも揺さぶった。
ソフィアは、立ち上がろうと足に力を込めているハーマイオニーに肩をかし、床に伸びきったトロールを見下ろしているハリーとロンのそばへ近寄った。ハリーは、ロンを労って彼の背中を叩いたが、ロンは自分のやったことが信じられないと杖を振り上げたまま立ち尽くしている。そこへ、ハーマイオニーが喘ぎ喘ぎにやっと声を振り絞った。
「これ……死んだの?」
「いや、ノックアウトされただけだと思う」
ハリーが屈み込み、トロールの鼻から杖を引っ張り出した。灰色の糊の塊のようなものが糸を引いてべっとり杖先に絡みついており、誰もが嫌悪感を露わにして顔を歪めたが、ハリー本人が一番最悪な気分だろう。
「ウエー、トロールの鼻くそだ」
「それ、洗ったほうがいいんじゃない?…でも蛇口は全部壊されてしまったようね」
ハリーは苦笑して肩をすくめてトロールのズボンで拭き取り、ソフィアが足元に置いてくれた靴に足を入れた。爪先で床を叩いて靴を履く音に合わせるかのように、廊下にバタバタと幾つもの足音を響かせながら、荒々しく女子トイレの扉が開かれた。杖を構えて飛び込んできたのはマクゴナガル、スネイプ、クィレルの三人だ。
クィレルはトロールを一目見たとたん弱々しい声を上げて胸を押さえて座り込んだ。スネイプは、ハーマイオニーの肩を支えるソフィアをちらりと見てトロールを覗き込み、杖先で瞼を捲った。その様を見ていたソフィアの目には、彼がこめかみに青筋を走らせ、眉字を寄せてハリーを睨んだような気がした。そしてマクゴナガルは、蒼白な唇を戦慄かせ、静かにそこから怒りを吐き出した。
「いったい全体あなた方はどういうつもりなんですか。殺されないのは運が良かった。寮にいるべきあなた方がどうしてここにいるんですか?」
「どうしようも出来ませんでした。偶然ここにいて、トロールと鉢合わせるなんて思わなくて……そこに、彼らが助けに来てくれました」
はじめに口を開いたのはソフィアだった。普段のソフィアと違い、物怖じせず、はっきりとした口調で告げる姿にマクゴナガルは鼻息を荒くして眼光を鋭くする。事実に変わりは無かったことから、ソフィアは教師陣から向けられる疑いの眼差しを手の甲で振り払うかのように、緊迫感から噴き出していた汗で首に張り付いた髪をはらう。
怪我が無いなら、グリフィンドール塔に帰ったほうが良いでしょう。
生徒たちがさっき中断したパーティーの続きを寮でやっています」
マクゴナガルの言葉を聞き終わるとハーマイオニーは帰って行った。
そして次にマクゴナガル先生は、ハリーとロンとソフィアの方に向き直る。
「そうですか…。先ほども言いましたが、あなた達は運が良かったのです。成長した野生のトロールに立ち向かえる一年生なんてそうざらには居ません。怪我が無いなら、グリフィンドール塔に帰ったほうが良いでしょう。生徒たちがさっき中断したパーティーの続きを寮でやっています」」
三人は急いで廊下に出て、二つ上の階に上がるまで何も話さなかった。そうしてトロール事件以来、ハーマイオニー・グレンジャーは三人の友達になった。共通の経験をすることで互いを好きになる、そんな特別な経験が有るもの。十二フィートもある野生のトロールをノックアウトしたという経験がまさしくそれ。
***
ハリーのデビュー戦の前日のこと、四人は休み時間に凍りつくような中庭に出ていた。ハーマイオニーが魔法で鮮やかなブルーの火を出してくれたので、背中に火を当てて暖まっていると、片脚を引きずったスネイプが此方に向かって歩いてきた。四人は火がスネイプに見られないように、ピッタリくっついた。
「ポッター、そこに持っているのはなにかね?」
ハリーはハーマイオニーから借りたクィディッチの本を差し出した。
「図書館の本は郊外に持ち出してはならん。よこしなさい。グリフィンドール5点減点」
スネイプが声の届かない所まで離れるのを待って、「規則をでっち上げたんだ」とハリー。
「…だけど、あの脚はどうしたんだろう…?」
「知るもんか、でもものすごく痛いといいよな」
恐らく魔法薬学の教授ということは、自分が調合した薬を塗ってはいると思うが。それでも足を引きずっている。思った以上に傷は深いのだろう。しかしその日の夜、本を返してもらうと言って出て行ったハリーは約10分ほどで帰ってきた。戻ってきたハリーにロンが声をかけたが、ハリーはそれどころではないようだ。
「スネイプだったんだ!ハロウィーンの日、トロールを入れたのは、あいつだったんだ。三頭犬の裏をかこうとしたんだ。あの犬が守っているものを狙っている。職員室にいったら、中にはスネイプとフィルチがいて、フィルチがスネイプの手当てをしていたんだ。スネイプの片方の脚はズタズタになって血だらけだった。それに、あいつが言ったんだ『3つの頭を同時に注意するなんてできるか?』って」
ろくに息もつかずにハリーは一気に喋った。
「ちがう。そんなはずないわ。確かに意地悪だけど、ダンブルドアが守っているものを盗もうとする人じゃないわ。」
ハーマイオニーは目を見開いて言う。しかし、そんな彼女に対してロンが手厳しく言った。
「僕はハリーと同じ考えだな。スネイプならやりかねないよ。ソフィアはどう思う?」
ロンの言葉にハリーとハーマイオニーもソフィアを見つめた。
「現時点では何とも…。でも…確かに、スネイプ教授の行動は怪しいかも」