10

 校庭や城の中に湿った冷たい空気を撒き散らしながら、十月がやってきた。急に風邪が流行しだして、校医のマダム・ポンフリー特製の「元気爆発薬」によって、廊下には耳から煙をもくもく出した生徒をよく見かけるようになった。
 ジニー・ウィーズリーはこのところずっと具合が悪そうだったので、パーシーに無理やりこの薬を飲まされていた。銃弾のような大きな雨粒が、何日も続けて城の窓を打っているにも関わらず、ハリーのクィディッチ練習は中止になるどころか、キャプテンのウッドがスリザリン・チームのニンバス2001には何としてでも打ち勝とうと、かなり躍起になっているそうだ。
 そして、可哀想なことにハリーはいまだにロックハートの罰則を受け続けているらしい。ロンはあの一晩限りで終わったが、調子に乗ったロックハートがまた来週も来るようにとハリーに言いつけたのだ。これはもうロンが当たりくじを引いたとしか言えなかった。
 どんなにフィルチが嫌いでも、ロックハートと授業以外で毎週必ず二人きりになるなんて、フィルチの罰則がどれほど良いものであったか思い知らされたロンは、絶望するハリーを精いっぱい慰めた。
 ハリーはせっかくの週末が台無しだと、毎日のように愚痴をこぼした。午前のクィディッチ練習も、雨や風やニンバス2001の脅威のせいで、去年ほど楽しくは感じられず、それが終わってヘトヘトになった後は、あのカッコつけロックハートの相手を延々としなければならない。ロンとソフィアの同情は計り知れなかった。

 「ハリーのやつ、風邪じゃないけど『元気爆発薬』が必要だよ。いや、薬でも無理かもしれないぞ」

 ハリーがいない間にロンが言った。

 「そういえば、ジニーはまだ元気がないな。マダム・ポンフリーの薬が効かなかったのかな?」

 ロンの言った通り、ジニーはパーシーに薬を飲まされた後もまだ元気がなかった。いつも何か思いつめたように一人でいることが多い。ソフィアが近づいて声をかけても、どこか素っ気なくて、笑顔は作り物だった。ロンからは「ほっとけよ。すぐに治るさ」と言われたけれど、ジニーはもう随分長い間あの状態だった。

 今年もハロウィーンの時期が近づくと、大広間はいつものように生きたコウモリで飾られ、ハグリッドが『肥らせ呪文』で育てた巨大なかぼちゃがくり抜かれて、中に大人三人が十分座れるくらい大きな提灯になった。ダンブルドア校長がハロウィーン・パーティの余興用に「骸骨舞踏団」を予約したとの噂も流れ、ソフィアは期待に胸が躍った。何しろ去年のハロウィーンはトロールとの対決で大怪我をし、一ヵ月近くも医務室生活が続いたのだ。今思うと、何だかとても懐かしい思い出のようだ。
 ソフィアのわくわくが感染したのか、ハリーはようやく少しだけ元気を取り戻したようだった。ロックハートの罰則が、今週でようやく終わるらしい。まる一ヵ月間もよく耐え凌いだものだ。最後の罰則は、ロックハートの勝手な都合により、今日ハリーは少し早めに談話室を出て行った。

 「…ねえ、ハリー、ちょっと遅くないかしら?」

 ハロウィーン前でみんなが浮かれている大広間で夕食を食べている時、ハーマイオニーがぽつりと言った。野菜を片っ端から避けて食べていたロンも顔を上げて、そういえば、と時計を探すように宙へ視線を漂わせた。夕食までには帰ってくるだろうと思っていた三人は、何度もちらちらと大広間の入口を見たが、一向にハリーが来る気配はなかった。

 「ロックハート先生もいらっしゃらないし。食べ終わったら様子を見に行かない?」
 「ああ、いいよ」

 ロンはぺろりとチキンの皮を引きちぎった。ソフィアはかぼちゃジュースを飲み干しながら、ふとグリフィンドールのテーブルを見回した。すると、ハリーと同様に、ジニーの姿もないことに気がついた。ひょっとしたらまだ具合が悪くて寮で寝ているのかもしれない。
 ソフィアは最近のジニーがとても心配だった。あれは何か、重大な悩みを抱えているのかもしれない。ウィーズリーおばさんとの約束を別にしても、ソフィアは何かジニーの役に立ってやれたらと常に考えていた。

 三人が食べ終わるまで、やはりハリーは帰ってこなかった。ソフィアたちは三階のロックハートの研究室まで、ハリーを迎えに行くことにした。早くしなければ、夕食の時間が終わってしまう。ソフィアは先頭を切って歩いていた。その時、廊下の曲がり角からハリーが忽然と現れた。その表情は緊迫し、落ち着かない様子で首をあちこちに巡らせていた。

 「今の聞いた?」

 出し抜けにそう聞かれ、ソフィアは首を傾げた。

 「…今のって?」
 「声だよ!」
 「どの声?」

 ハーマイオニーも眉をひそめながら辺りを見回した。ハリーはソフィアたちを通り過ぎ、まるで見えない何かを探すようにあちこちに視線を走らせていた。背後から遠慮がちにロンが声をかけると、ハリーは顔を強張らせ、シッと言った。

 「ロックハートの部屋で聞こえて、今もまだ聞こえてる。前にも聞いたことがあったんだけど、気のせいだと思ってて――ちょっと黙ってて……ほら、聞こえる!」

 ハリーが急き込んで言った。ただ事ではないハリーの様子に、ソフィア、ロン、ハーマイオニーは彼を見つめ、その場に立ち尽くした。ソフィアもハリーと同じ方向、暗い天井をじっと見上げた。が、何も聞こえない。
 ハリーは何もない石の天井を見上げながら、恐怖と興奮の入り混じった声で「こっちだ」と叫び、廊下の奥へ駆け出して行った。ソフィア、ロン、ハーマイオニーも急いでハリーを追いかけた。

 「ハリー、いったい僕たち何を……」
 「シーッ!」

 耐えきれずに再び尋ねたロンの言葉をハリーは制し、壁を手で伝いながら必死に耳を澄ませているようだった。その時、ハリーが悲鳴のような声で叫んだ。

 「誰かを殺すつもりなんだ!」

 ソフィアたちの当惑した顔を無視して、ハリーは三階を隈なく飛び回った。ソフィア、ロン、ハーマイオニーは息せき切ってついて回り、角を曲がり、最後の、誰もいない廊下に出た時やっとハリーが動くのをやめた。

 「ハリー、いったいこれはどういうことだい?僕にはなんにも聞こえなかった……」

 ロンが額の汗を拭いながら聞いた時、隣のハーマイオニーがハッと息を呑んで廊下の隅を指差した。

 「見て!」

 全員が一斉に同じ方向を見た。壁に何かが光っていた。四人は暗がりに目を凝らしながら、そっと近づいた。窓と窓の間の壁に、高さ三十センチほどの文字が塗りつけられ、松明の光によって鈍い光を放っていた。

秘密の部屋は開かれたり
継承者の敵よ、気をつけよ

「なんだろう…下にぶらさがっているのは?」

 ロンの震えた声の示すものを見た瞬間、ソフィアの肩が大きく揺れて「ひっ」と短い悲鳴が漏れた。ソフィアが危うく滑りそうになったところを、ハリーが受け止めた。床には大きな水溜まりができていた。
 四人は文字の下にゆらゆら揺れている暗い影に目を凝らし、一瞬にして、のけぞるように飛び退いた。水溜まりの水が跳ね上がってローブの裾を濡らした。フィルチの飼い猫、ミセス・ノリスだ。

 松明の腕木に尻尾を絡ませてぶら下がっている。板のように硬直し、目はカッと見開いたままだった。ソフィアは爪が食い込むほどハリーの肩を掴んで震えた。

 すると遠くから、夕食を終えた生徒たちが、四人が立っている廊下の両側から、階段を上ってくる何百という足音とさざめきが聞こえてきた。次の瞬間、生徒たちが廊下にワッと現れた。前の方にいた生徒がぶら下がった猫を見つけた途端、おしゃべりも、さざめきも、ガヤガヤも突然消えた。沈黙が生徒たちの群れに広がり、おぞましい光景を前の方で見ようと押し合った。やおら、静けさを破って叫ぶ者がいた。

 「継承者の敵よ、気をつけよ!次はお前たちの番だぞ、『穢れた血』め!」

 人垣を押しのけて最前列に進み出たドラコ・マルフォイは、冷たい目を光らせ、青白い頬には赤みがさし、ぶら下がったままピクリともしない猫を見てニヤッと笑った。マルフォイの大声に引き寄せられたアーガス・フィルチの出現に、ハリー、ロン、ハーマイオニー、ソフィアは息を呑んだ。
 ミセス・ノリスを見た途端、フィルチの顔が恐怖に染まり、たじろいで後ずさった。瞬時にフィルチがハリーたちを怒りと混乱で狂ったような目で睨みつけてきた時、現場にダンブルドアが到着した。
 あのままではハリーはフィルチに殺されてしまうのではないかと肝を冷やしたソフィアは心底ほっとした。ダンブルドアは、ミセス・ノリスを松明の腕木からはずすと、フィルチと四人を呼び寄せ、やって来たロックハートの勧めで彼の研究室に一時移動することになった。
  ソフィアは少しだけ振り返って、後ろからマクゴナガルとセブルスもついて来るのを見た。ロックハートの部屋に入ると、ダンブルドアは、ミセス・ノリスを机の上に置き、隈なく調べ始めた。まだ怒りと悲しみに震えるフィルチの激しいしゃっくりが、部屋の中にひくひくと響いていた。

 ダンブルドアが、つい先日剥製になったばかりのようなミセス・ノリスを長い指でそっと突っついたり刺激している側で、マクゴナガル先生も同じように身を屈めて猫を見つめ、その後ろでセブルスが漠然と待機し、ロックハートとなると、みんなの周りをうろうろしながら、あれやこれやと意見を述べ立てていた。
 ハーマイオニーのぐったりした様相と同様に、ロンの顔からも血の毛が引いていた。ソフィアはひたすらハリーの隣で、ダンブルドアの結論を一緒に待った。すると、ようやくダンブルドアが体を起こし優しく言った。

 「アーガス、猫は死んでおらんよ」

 フィルチが声を詰まらせながら、指の隙間からおずおずとミセス・ノリスを覗き見た。

 「死んでない?それじゃ、どうしてこんなに───こんなに固まって、冷たくなって?」
 「石になっただけじゃ」

 部屋の隅で、ロックハートが「やっぱり!私もそう思いました!」と言ったが、誰も何も言わなかった。しかし、どうして石になってしまったのか、ダンブルドアもわからないと言った。フィルチはまだらに赤くなった顔でハリーを睨みつけ、「あいつです!」と指差した。

 「二年生がこんなことをできるはずがない」

 ダンブルドアははっきりとした口調で答えた。けれどもフィルチは納得がいかない様子で食い下がり、吐き出すように犯人をハリーだと決めつけた。ついにハリーも黙ってはいられず、反論するように主張した。

 「僕、ミセス・ノリスに指一本触れていません」
 「校長、一言よろしいですかな」

 その時、ずいと前へ出てきたセブルスに部屋の視線が集まった。

 「ポッターもその仲間も、単に間が悪くその場に居合わせただけかもしれませんな」

 自分はそうは思わないとばかりに、セブルスの口元には確かに冷笑が浮かんでいた。
 
 「とはいえ、一連の疑わしい状況が存在します。だいたい連中はなぜ三階の廊下にいたのか?それに我輩は夕食の席で、ポッターの姿を見た覚えがない」
 「それは私のせいです、スネイプ先生。」

 待ってましたとばかりに発言を許されたロックハートの声は、表情こそ真面目ぶっていたが、この場には不釣り合いに少し弾んでいるようだった。セブルスの顔に一瞬、舌打ちをしたそうな色が走った。

 「彼にファンレターの返事書きを手伝ってもらっていた。そうだね?ハリー」

 ハリーは面食らいながらも、そうですと小さく頷いた。セブルスがロックハートから再びハリーたちの方に視線を戻した。

 「それでは、君たちは?」

 ロンの肩がすこぶる竦み上がるのが視界の端に見えた。緊張を抑え込みながらも、毅然として答えたのはハーマイオニーだった。

「私たち、ハリーが遅いので迎えに行ったんです。そしたらハリーは――」

 ハーマイオニーは言葉を切らせて、窺うようにハリーを一瞥した。その不自然な目線に、セブルスが目敏くぴくりと反応した。すかさず返事を返したのはハリーだった。

 「僕、お腹が空いていなかったので食べたくないって言って…それで、みんなで寮に戻ろうとしたら、ミセス・ノリスが……」

 ハリーは一切疑われないようにキッパリと言い切った。彼にしか聞こえない姿のない声を追って行ったと答えれば、怪しまれることは目に見えている。

 「疑わしきは罰せずじゃよ、セブルス」

 セブルスはひどく憤慨し、フィルチもまたわんわん泣き喚いて納得がいかないと金切り声を上げた。

 「アーガス、君の猫は治してあげられますぞ」

 ダンブルドアの穏やかな声が、ソフィアやハリーたちを落ち着かせていく。

 「スプラウト先生が、最近やっとマンドレイクを手に入れられてな。十分に成長したら、すぐにもミセス・ノリスを蘇生させる薬を作らせましょうぞ」

 再びロックハートがべらべらと喋り始めたが、誰ももう聞いていなかった。セブルスが今度こそ影で不快そうにロックハートの後頭部を睨んでいた。ダンブルドアが四人に優しく、「帰ってよろしい」と告げて、ソフィアたちはできる限り急いでその場を去った。四人は無言のままロックハートの部屋の上の階まで上り、誰もいない教室に入ると、そっとドアを閉めた。

 「あの声のこと、僕、みんなに話した方がよかったと思う?」

 暗がりでハリーの不安そうな目が、三人を目を凝らして見つめていた。即座に「いや、」と否定したのはロンだった。

 「誰にも聞こえない声が聞こえるのは、魔法界でも狂気の始まりだって思われてる」
 「……僕のことを信じてくれるよね?」

 ハリーは更に不安そうにロン、ハーマイオニー、そしてソフィアを見た。ロンは急いで言った。

 「もちろん、信じてるさ。だけど――君も、薄気味悪いって思うだろ……」
 「『秘密の部屋は開かれたり』……これ、どういう意味かしら?」

 ハーマイオニーが不気味そうに呟くと、ロンが「あっ」と思い出した声を上げた。

 「誰かがそんな話をしてくれたことがある───ビルだったかもしれない。ホグワーツの秘密の部屋のことだ」

 四人は顔を見合わせて沈黙した。ソフィアがやっと「談話室に戻ろう?」と言ったことで、四人はまた忍び足で教室を出て行った。

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