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マンションの階段を駆け上がる。
本当はエレベーターがあるのだが今はちょうど上の階層に向かってしまっていたので、それすら待っていられず、ひたすら上を目指した。

そういえば自分は彼女と出会ってから、よく走るようになった。
階段を登りながらふと思う。
あのバレンタインの日、店の閉店時間に遅れそうになって。
初めてのデートの日、ナンパされそうになっていた彼女を見て。
同居し始めた日、うちへと帰る道を行く彼女を見つけて。

仕事柄体力は多少必要なので、それなりに鍛えている方だ。
それでもやっぱり走るのはつらいときもあるし、階段を駆け上がるのなんて余計大変だった。

でも、それでも、足を止めようとは思えなかった。
あの子の笑顔を見たいから、その笑顔を守りたいから。


「高嶺さん…っ!」

玄関を抜けリビングの扉を勢いよく開ける。
思わず叫ぶようにその名を呼ぶと、彼女が驚いたようにこちらを振り返った。

大きく見開いた灰色の瞳からは僅かに涙が流れているのが見えた。

「さ、いとうさん…?え、どうして…ここ…、だって今日…」

突然のことに状況が読み込めないらしく、しどろもどろに言葉を紡ぐ百合。
そして斎藤さんは弾ませていた息を少しづつ整えていき、ようやく落ち着いてきたところで、百合に近づいていったと思うと彼女の身体をぐっと力強く自分の方へ引き寄せた。

彼女の細く華奢な身体は、斎藤さんのなかにすっぽりと収まった。
百合の方は何が起きているのかさらに分からなくなり、ただ何も言えず、されるがままだ。

暫くその状態が続き、お互いの鼓動が聞こえそうなほどの静寂さだった。

「ごめん…」

やがて斎藤さんの方から言葉を発した。
百合は耳元で彼の声が聞こえるのを感じる。

「一人にさせてごめん…、キミに甘えて、全然気づいてやれなかった」

一人でいて寂しくなかったといえば嘘になる。
明日から斎藤さんはいなくて、今日の夕ご飯は二人で一緒に食べて、明日の朝はちゃんと見送ろうって。
でも朝出かけていった彼を見た時、今日もう会えなかったとしたら、明日はちゃんと会えるのかなって不安だった。
そうしたらもうあと何日会えなくなるんだろうって。

寂しくて、不安で、怖くなって……涙が出ていた。

「……私、ちゃんと…ここで待ってます…お留守番してます…お掃除もきちんとします……良い子にしてます…
だから、」

いつも大事なときに来てくれるあなたを思うと、胸が苦しいんです。

「今日だけ……傍に居て、ください」

あなたが帰ってきてくれたことが、心から嬉しいんです。

「うん…俺も、傍にいるよ」

僅かな時間を二人で分かち合えたらどれほど幸福だろう。

***

翌日、朝早くから斎藤さんは家を出る。
大きなギターケースを背に傍らにはキャリーケースを引っさげて。

「じゃあ、行って来ます」
「はい、いってらっしゃい」

今までと同じように見送り、見送られるふたり。
また直ぐに会えるし電話もするし、ちゃんと繋がってるから。
きっと自分たちは自分が思ってる以上に信じ合えてる。

「…高嶺さん、俺、ツアーが全部終わったら…君に伝えたいことがあるんだ」
「…はい」
「だから、それまで待っててくれると嬉しいな」
「はい、待ってます。斎藤さんのこと…待ってますから」

そう言う百合。昨日のような不安とは無縁のような穏やかな表情をしていた。
それを見た斎藤さんも笑顔を見せて、玄関を出て行った。

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