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「…草壁先輩」

知らず知らずのうちに零れた彼女の言葉は酷く震えていた。突然目の前に現れた少年は何者なのか蛍には検討もつかないが、黒曜中の制服を着ていることと不敵な笑みを浮かべていることが、蛍の不安を増幅させた。
まさかこの少年が襲撃犯ではないのか、という考えが一瞬頭によぎる。
息を潜めた蛍の前に草壁が一歩進み出ると、その黒曜生に鋭い視線を送った。
ぎゅっと拳に力を入れ、いつでも戦闘準備は整っている。ただならぬ状況に置かれていることは、その場にいる風紀委員三人の誰もが肌で感じていた。

「お前は何者だ?」
「何者って聞かれても素直に答えるわけないびょーん!」

気楽に笑っているその黒曜生とは対照的に、草壁の頬には汗が伝っていた。口でははぐらかしているが、間違いなくこの男が襲撃犯だと草壁は確信を持っている。
でなければ黒曜生が自分に何の用事があるというのだ。
それに喧嘩慣れしている草壁だからこそ知り得ることが出来るのだが、この男は相当強い。
こうして目の前で対峙しているだけでも何か禍々しいものを感じるのだ。圧倒的な強さを誇る雲雀とはまた少し違う、底知れぬ恐怖に襲われている。
他の二人がいる手前決して口には出来ないが、自分がこの男に勝つことが出来るのか、正直自信がない。
それどころか無事に蛍をこの場から逃げさせられるかどうかも怪しいのだ。この黒曜生がどういう攻撃をしてくるか予想もつかないが、下手をすれば蛍も巻き込まれてしまう。それだけは何としても阻止しなければならない。
草壁は密かに左右を見渡して脱出経路を探る。障害物が少ないここでは逃げるのには向いてなく、それならば人のたくさんいる病院へ引き返した方がよほど安全だ。
そう判断した草壁はついてきていた風紀委員に視線を送る。
草壁の意図を汲んで頷き返した風紀委員は密かに蛍の後ろに回り、逃げる準備を始めた。彼は風紀の中でも一位二位を争うくらいの足を持っている。
一度走り出してしまえば蛍の足についてこれる者はそうそういない。
…これで後は自分がうまくやればいい。
安堵のため息を零した草壁はついさっきまで雲雀といた時のことを思い出していた。

『何があっても蛍だけは――…』

普段言葉少ない彼がポツリと零したその言葉を、守ってやりたいと草壁は思った。
雲雀と出会ってから今まで、彼が執着した初めてのもの、それが彼女なのだ。
他の誰かから見たら雲雀が蛍をこき使っているようにしか見えないだろうが、それが彼なりの愛情表現なのだと知っている。
そんなところだけ不器用な雲雀の手助けをしてやりたいと思った。
いつも陰から雲雀を支えることしかしてない自分に出来ることがあれば、彼の望みを聞いてやりたかったのだ。
委員長の命令だ、沢田だけは守らなければ。
そう決意した草壁は目の前の少年を挑発するようにニヤリと笑った。

「じゃあ言い方でも変えるか?――襲撃犯、俺を襲いにでも来たのか?」
「!」

他人を寄せつけない強さを持つ彼を、いつも親しげに駆け寄ってくる彼女を、この手で守りたいと切に願った。

「―――――!?」

いきなりぐいっと腕を引かれて蛍の世界が変わる。
痛いくらいに捕まれたその腕の先を見てみれば、風紀委員が自分を引っ張って病院の方へ駆け出していた。
慌てて後ろを振り返れば、黒曜生と共にその場に留まる草壁の後姿が目に映る。一人で彼を迎え撃つ気なのだ、とわかった途端に蛍の頬に冷や汗が伝った。
――無茶だ。今まで数ある実力者達が散々な目にあっているというのに彼一人が無事で済むとは思わなかった。
確かに草壁は風紀の副委員長を勤めるに相応しい実力を持っている。でも。

「ま、待って下さい!草壁先輩が…!!」

後ろを振り返ることなくひたすら走り続ける風紀委員に制止の声をかけたが、彼は蛍を見ることなく彼女の腕を掴んでいる手に力を込めた。

「いいんです。副委員長は俺達に逃げろと事前に言ってましたから」
「っ!?」
「いえ、正しくは『あなたを守れ』ですかね」

その言葉に蛍は思わず目を見開いて前を走る彼の背中を見つめた。
けれど前だけを見据えてひたすら走る彼とは決して視線が合うことはない。

「どうして――」

そう言いかけて、蛍は唇を噛み締めた。
どうして自分だけを守るのか。さして重要な地位にいるわけでもない一介の風紀委員を何故副委員長である草壁が守るのか、蛍にはわからなかった。
彼の方がよっぽど守られる立場にいるのに、どうして彼は自分の身を犠牲にするのだろう。
戦えない蛍は確かに足手まといだからその場にいられると迷惑かもしれない。だからこそ放っておけばいいのに、わざわざ草壁はその場に残った。
蛍や風紀委員を逃がすのなら、自分も一緒に逃げればいいのに。
段々小さくなる草壁の姿を見ていた蛍を叱咤するかのように、引っ張る力はますます強くなっていく。
苦しげに呻いた風紀委員は、病院の玄関が見えてきたと告げてからやっと蛍の方へ振り返った。

「委員長です。委員長が、何があってもあなただけは守れと副委員長に」
「雲雀先輩が…!?」
「…あなたを巻き込みたくなかったんでしょう。
だから俺達はあなたを守る義務がある。あなたは逃げ切らなきゃダメなんです」
「――はい」
「…副委員長を信じましょう」

はい、と蛍が頷くと、風紀委員の彼はほっとしたように頷き返して前へ向き直った。しかし―――

「青春映画みたいなとこわりぃんだけど、その女は利用価値があるって言われてるから貰ってくぴょん」

どうして此処に、草壁先輩は、という疑問と恐怖が入り混じった中振り返った先に見えたのは口角を上げた黒曜生の表情だった。
そしてそれを最後に蛍の意識は唐突に奪われていったのであった。

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