25
…気持ち悪い。頭の中がぐるぐる回っていて、胃がむかむかする。
今にも吐き出してしまいそうな気持ち悪さは桜から離れた今でもしつこくこびりついている。起き上がろうにも力が入らず指一つ動かしただけでも激痛が走ったのは、さっき嫌と言うほど骸に痛めつけられたせいだろう。
冷たいコンクリートの感触を肌で感じていた雲雀は、ゆっくりと息を吐き出して目蓋を開けた。
良好になった視界に飛び込んできたのは薄暗い瓦礫の部屋だ。鉄格子が見え隠れするこの部屋は四方をコンクリートの壁に取り囲まれている。唯一扉らしきものがあったが、きっと鍵をかけられているのだろうと推測した。もし逃げられてもいいのならわざわざこんな部屋に移動させるわけはないし、こうして閉じ込められているということはまだ自分に用があるのか――。
呼吸を繰り返す度に、ひゅうひゅうと空気を取り込む音が大きく聞こえる。試しにどこがまだ使えるか順々に力を入れていくと、手足のほとんどは折られているか骨に異常があるらしく、脳を針で突き刺すような痛みを感じた。あとは肋骨も。
内臓や脳も何かしら影響されているのだろう。目覚めたというのに起き上がれないのは未だ桜クラ病の余波が残っているのかと思ったのだが、桜がないのにそれはおかしい。どうやって骸が雲雀の弱点を知って桜を持ってこれたのかは知らないが、この部屋に運び込むほどの本数は持ってないようだ。
辛うじて動かせる目であたりを見回すと、少し離れたところにトンファーが捨て置かれていた。雲雀の武器であるそれを近くに置くとは舐められたものだと雲雀は自嘲の笑みを零した。無様に負けた相手だから武器を与えても問題ないと思ったのか、抜け出しても捕らえる価値のない人間だと思ったのか、それとも万が一ここから抜け出せたとしてももう一度叩き伏せる自信があるのか――どれにせよ馬鹿にされていることは間違いない。
だがしかし、雲雀が起き上がることすら出来ないこともまた事実だ。気絶するほど痛めつけられた体はすぐには回復せず、辛うじて意識を取り戻せたらしい。
こんな屈辱は初めてだ、と知らず知らずのうちに雲雀は唇の端が切れるほど強く噛み締めていた。鉄の味が口の中に広がる。持病の所為とはいえ、こんな完膚なきまでに敗北したのは初めてだった。
大体最初から気に食わなかったんだ、と雲雀は思う。「蛍を僕に下さい」と笑って告げた骸を思い出し、誰がやるもんかと眉を顰めた。あれは誰にも渡さない、自分だけのもの。
人を信じられず馴れ合うことを嫌う雲雀にとって、蛍は唯一心を傾けられる人間なのに、どうしてそれを手放す気になれるだろう。蛍は雲雀を意味もなく怖れたりしない。彼が暴力さえしなければ至って普通に接してくる、自分から離れていくことのない少女なのだ。
だから誰にも譲れない。たとえ蛍本人が雲雀を拒んだとしても手離せるかどうかもわからないのに、突然現れた男にくれてやるなんて言語道断だ。
薄暗い天井を見上げながらそんなことを考えていると、突然小さな靴音が聞こえ始めた。革靴が床をコツコツと鳴らすそれは確実に自分の元へと近付いてきている。
またあの男か――と眉を寄せた雲雀は起き上がろうとしたが、その途端に痛みが全身に走ってやむなくその場に体を横たえた。敵に無様な姿を晒すことは屈辱だと思っていたが、どうすることも出来ない。
きっとあの男ならば自分のこの姿を見れば「情けない姿ですね」と嫌味の一つでも言うだろうが…と思い骸を待ち構えていた雲雀だったが、扉を開けたのはその予想に反して骸ではなかった。金髪で顔の中心に一文字の傷を負った少年が興味深そうに雲雀を見下ろした。黒曜の制服を着ているからあの男の仲間に違いない。何にせよ事態が好転することはなさそうだ。
じっと観察されることを嫌った雲雀は不機嫌そうに眉を寄せて「…何の用?」と呟いた。
「なんだ、まだ死んでねーじゃん。骸さんやっさしー」
「…死にたいの?わざわざ僕の所までくるなんて、いい度胸してるね」
「そんな強がり言ったって怖くもなんともねーびょん!骸さんはお前に手ー出すなって言ってっし。ま、オレだってこんなことにいたくねーからさっさと帰るけんね」
腕一つ満足に動かせない雲雀を面白そうに見下ろした彼は、ゴソゴソとポケットを漁っていたかと思うと、「ほいっ」と雲雀の目の前に紺色のリボンを投げ落とした。
「―――――!」
見覚えのあるそれに思わず雲雀は瞠目し、傷がいくつも刻まれている腕を動かしてしっかりと掴む。どれだけ痛みが走っていようとも今の雲雀は全く気付かないほど気が動転していた。
それはこの持ち主を知っているからだ。いつも同じ色のリボンで髪を纏めている人物を雲雀はよく知っているし、毎日のように見ている。鮮やかな紺色は彼女の茶色い髪によく映えていた。
「蛍、の」
掠れた声で思わず呟く。
見間違えるはずもない。これは蛍のものだと雲雀は確信した。でなければ何の変哲もない髪留めを雲雀の元へ持ってくる必要はない。
これが黒曜生の手から渡されたということは、蛍が敵に捕まったという意味に他ならない。骸が蛍の存在を知っていればこそ出来る、雲雀への大きな嫌がらせだ。
襲撃犯の手がかりを探る為に黒曜中に蛍を潜入させた結果、当の襲撃犯に蛍の存在を知られてしまった。存在を知られるだけならまだしも骸の前で雲雀が思わず蛍の名前を出してしまい、雲雀との繋がりがあることもバレてしまったのだ。最悪だ、と雲雀は奥歯を噛み締めた。
わざわざ並盛中まで行って風紀委員を全滅させてから彼女を捕らえたのか、それとも彼女が自ら進んでここに来たのか…いや、それよりも蛍は無事であるかどうかの方が重要だ。何の力も持たないただの一般人が骸に敵うはずもない。自分と同様に暴行されているのか、それとも――…。
何故蛍が敵に捕まったかなど雲雀には想像もつかないが、骸が蛍を利用しようとしているのは明らかだ。
今頃クフフと笑っているであろう男を思い出した雲雀は、彼の横っ面を思いっきり殴り飛ばしてやりたいと顔を顰めた。これくらいで自分が動揺するものかと思っていたけれど、実際の心の揺れは思った以上に大きい。
「骸さんからお前へのプレゼントだぴょん」
「…蛍に何かしたの?」
睨み上げれば、黒曜の少年は犬歯を見せながらニヤリと笑う。
「さーね、オレは骸さんの命令に従っただけだから知らねーびょん。でもあの女がお前とかボンゴレのお仲間だったら腕の一本や二本は覚悟しといた方がいいんじゃねーの?骸さん怒っと怖いかんな〜」
「その前に君達を咬み殺してあげるよ」
蛍が何より暴力を受けることを怖れているのを知っている雲雀は、近くにあったトンファーを拾い上げた。
冗談じゃない。他人に自分の所有物を傷つけられるなんてたまったものではないし、それ以上に雲雀が今までどれだけ蛍の恐怖心を取り除くのに苦労したことか。
最近やっと免疫が出てきて恐怖心が薄らいだというのに、それをぶち壊しにされては水の泡だ。雲雀に関係しているからという理由で傷つけられるのなら、尚更蛍は雲雀から離れていくだろう。
本当に彼らが蛍を傷つけていたとしたら、腕の一本や二本覚悟した方がいいのはそちらの方だ。いや、腕だけでは彼の怒りは収まらない。せめて体が動かせたなら今すぐにこの部屋から出て六道骸を倒してやりたいが…。
上手く手に力が入らずトンファーを落とした雲雀は、恨めしそうに犬を睨んだ。
「じゃーねん。そろそろ柿ピーも帰ってくるだろうし、用事済んだからもう行くわ」
「…君のボスに伝えときなよ、僕が必ず借りを倍にして返してやるってね」
「ヒャハハハ!お前みてーなアヒルに骸さんが倒せるわけねーじゃん!」
「…殺すよ」
馬鹿にした笑いを向けられた雲雀はむっとして犬を見ていたが、静かに閉じられた扉からは何の返事も返ってこなかった。
ガチャリと錠が下ろされる音だけが空間に響き渡る。段々小さくなっていく靴音からすると、骸の元へ帰っていったのだろう。
ぎり、と爪を地面に突き立てた雲雀は痛む体に鞭を打って無理矢理体を起こし始めた。蛍が捕らえられているというのなら、もはやここで倒れている場合ではない。六道骸に妙な真似をされる前に蛍を助けなければ…と壁に手をついてようやく座り込んだ。
まだ立ち上がることは出来ないが、こうして壁に背中を預けて少し回復を待っていれば、少しは動けるようになるはずだ。そしてこの部屋から脱出した後、六道骸に前回やられた傷を返してやらなければ気が済まない。
「……………」
座り込みながら手の中にあった蛍のリボンを見つめる。
巻き込むつもりなんてなかったのに、結果的に彼女を危険な目に遭わせてしまった。本当は誰よりも大切に守りたいのに――…。
そこまで考えた雲雀は、誰かを守りたいと思ったことが初めてだということに気付く。
今まで誰かや何かを守りたいなんて思ったことは一度もない。自分以外に大切なものなんて存在しなかったから守る必要なんてなかったのだ。ただ己の闘争心を満たせればそれでよかった。
けれど今は骸から蛍を守りたいと思っている自分がいる。ただ単に自分の所有物に触れられることを嫌っているのかもしれないが、それでもあの男にだけは近付けさせたくない。六道骸はどうすれば一番心が傷つくのかその術を知っているし、蛍を使って雲雀をも思い通りに動かそうとするだろう。厄介な敵だ、と重いため息をつく。
それでも負けっぱなしでこのまま終わるつもりなど毛頭ない雲雀は、もう一度骸と戦う気でいっぱいだった。桜を出されようと同じ相手に二度と負けはしない。
だからそれまで彼女が無事であることを信じている。たとえさっきの少年の言葉通りになっていたとしても、ここから動けない自分は信じるしかない。ただ己の体が早く回復するように休んでいるしか、雲雀に出来ることはないのだ。
誰かを大切な存在にするということは自分の弱点を作るということ。誰かを守ることは自分を守ることよりずっと難しいこと。
蛍を気にかけて守っているより誰かを咬み殺している時の方がよほど楽しいし、楽だと思う。それでも蛍を切り捨てようとは思わないのは何故だろう、と雲雀は不思議に思いながら、紺色のリボンをポケットへそっとしまい込んだ。