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「僕は案外、天邪鬼な人間なようでしてね。好きだと言われても何も思いませんが、嫌いだと言われると好きにさせてみたくなるんです」

だから僕のことをとても嫌う君にも興味があるんですよね、と笑った骸の瞳から蛍は目が離せなかった。
それは至近距離で見つめられているからではない。彼の右目に『六』と書かれた文字は、人を支配する何かを感じさせるのだ。魅入ってはいけないのに視線を外すことが出来ない。蛍は背中に冷や汗が伝うのを感じながら、骸に胸元を掴まれていた。

「それに君を傷つけたとしたら彼がどんな反応をするか見たいんですよ。きっと面白いことになりそうだ」
「彼…?」
「雲雀恭弥くんと親しいのでしょう?君が僕に手を出されたと知ったら怒るんでしょうねぇ?」
「やめ…っ!?」

違う、と否定する間もなかった。ぐいっと強く引き寄せられたと思えば、更に近付く『六』の文字が視界に映る。笑みを浮かべた血のような瞳を凝視していると、ふいに唇に触れる暖かい感触に息が止まった。――彼の、唇だ。
思わず瞠目した蛍の瞳には、吸い込まれそうな緋色と藍色しか映っていない。咄嗟に拒もうと動いた手は驚くほど強い力で押さえつけられて、蛍に拒否する術を与えてはくれなかった。絶対的な力の差を思い知らされる。笑う骸がこれほどまでに恐ろしく感じたのは、初めてだった。
他人が触れることがなかったそこは生まれて初めての感触にざわりと総毛立ち、それ以上の侵入を許さないように固く閉ざされている。何が起こったのか理解していない脳が必死に状況を把握しようと働くが、その前に骸が身を引いた。まだ顔は近い。

「クフフ…僕としたことが忘れてました。どうせなら雲雀恭弥の前でした方が効果的ですね」

舌で濡れた唇をなぞる様は女の蛍から見ても艶かしい。けれどそんな骸を見ている余裕もないほど、蛍の頭の中は真っ白で何も考えられなかった。
淡い夢を抱いていたのだ。きっと恋をしたら好きな人と幸せを感じられるキスが出来るのだと、表には出さなくても心のどこかで期待を膨らませていた。
恋する少女のような淡い幻想を持っていた。それがこんな形で壊されるなんて――…。
確かに骸にとってこんな行為は何の意味もないことかもしれない。けれど蛍にとっては既に一生残る傷跡となるのだ。好きでもない男とキスするなんて嫌悪感以外の何も感じない。 震える指で口元に触れれば、まだそこに骸の感触が残っているような気がした。

「雲雀先輩と私は、そんな関係じゃないです…っ」

きっと彼は勘違いしている。雲雀と自分が恋人だと思っているからこんなことをしたんだろう。
けれどそれは蛍が勝手に彼に想いを寄せているだけで、彼とはそのような関係ではないのだ。
こんなの――何の感情も持たない、ただの嫌がらせ。
そう思って割り切ろうとしても動揺するのを隠し切れず、声が掠れてしまう。

「だって、私が……勝手に…」

これが骸の思い描いていた通りのシナリオだったとしたら、到底蛍達が敵う相手ではない。自分の身すら危ういというのに、誰が蛍を助けられるのだろう。結局、襲撃は止まらないのだから。
どんなに願っても誰も助けに来ない。待ってるだけで救われるなら、襲撃された風紀委員も一般生徒も雲雀も誰も傷ついたりしないのだと、蛍は自嘲の笑みを零した。

それにピクリと片眉を吊り上げた骸だったが、大して気にも留めず先端が鋭く尖った武器を拾い上げた。少しでも触れればすぐに血が吹き出てきそうな無機質なそれは蛍に再び恐怖心を植え付けるにはぴったりの代物だ。
その武器を凝視していると、ひやりと冷たい感触が首に触れた。尖った感触は間違いなくその武器のもの。
蛍の首に刃をあてた骸は口元に弧を描いていた。

「まぁそれはまた後にしましょう。主役が揃っていなければ、せっかくの出し物も興醒めですからね。――その代わりと言っては何ですが、契約でもしてもらいましょうか」
「契約…?」
「すぐに済みます」
「っ!」

首元にチクリとした小さな痛みが走った蛍は、思わず息を飲んで背筋を強張らせた。致命傷になるわけもないほどの痛みだが、針で皮膚を刺したような感触は身の危険を感じさせる。
骸が笑って身を引けば、彼が手にしているアイスピックのような武器の先端に、赤い液体が付着していた。それは間違いなく蛍の血だ。震える指で刺された部分に触れてみれば、ぬるりとした嫌な感触が纏わりついて蛍の指先を赤く汚した。

「あ……!?」
「これ以上君を傷つける気はありませんから安心して下さい」

己の血で呆然とする蛍を楽しげに見下ろした骸は、何事もなかったかのようにストンとソファーに腰を落ち着けた。自分の思い通りの展開になって満足したのであろう。彼の言葉通り、蛍にこれ以上触れてくる様子は一切ない。
蛍は武器についていた蛍の血をペロリと舐めている彼を眺めて、ほっと安堵の息を漏らした。契約というからには何かされたのだろうが、蛍には一切理解不能だ。
何か異変が起こる様子もないし、今は気にしなくてもいいだろう。
だが、血で汚れた指を見た蛍は微かに目を見開いた。
切りつけられたという恐怖だけが残っているそれは蛍が消そうとした過去を引き出していたのだ。
じっとりと冷や汗が額に滲み出るのを感じて、次々と思い浮かんでくるそれに耐えるかのように唇を強く噛み締めた。

「……………?君は…」

蛍の頬に冷や汗が伝うのを目にした骸が訝しげに声をかけてきたが、軽いパニック症状になっている蛍の耳には届かない。

悪意ある笑い声、自分に向けられたいくつもの視線、呪いの言葉のような罵声。
私はこの痛みを知っている。忘れるはずもない。忘れたくても忘れられない。
そう、あれは…あれは――…!

「―――!」

突然ガタンという物音が響き渡り、蛍はびくっと体を強張らせた。今自分が何を思い出そうとしていたのかを理解して、冷や汗をかいた手の平をぎゅっと握り締める。痛みは苦い過去を思い出させようとするから嫌いだ。
あの物音がしなければどうなっていたか…と息を吐き出すと、じっと蛍の様子を見つめていた骸はふと顔を上げて蛍の後ろに視線を向けた。

「ああ、千種ですか?」
「っ!?」

骸が声をかけたのと同時に振り返ってみれば、破壊されたせいで大きく開け放たれた部屋の入り口から黒曜生がふらふらとおぼつかない足つきで入ってきていた。制服がボロボロに破けているのはおろか、火傷している傷口からは血が止め処なく溢れている。
あまりの大怪我に蛍は思わず顔を顰めたが、それと同時にこんな重症を負っているにも関わらずまだ歩けることに驚いた。普通の人間ならば起き上がろうとするだけで激痛が走るだろうに、彼はそれに耐えながらここまで歩いてきたというのか。どこで傷を負ったのか知らないが、黒曜センターの入り口からこの建物までだってかなりの距離があるというのに。
千種と呼ばれた少年は、今にも止まってしまいそうな足取りで蛍の横を通り過ぎたかと思えば、ついに力尽きたのか、どさっとその場に倒れてしまった。

「!」
「おや、当たりが出ましたね」

蛍ですら一目で重症だとわかるのに、仲間であるはずの骸は彼に駆け寄ることもせずその場から動かない。
笑みさえ浮かべている彼は血も涙もないのだろうか。
カツンと革靴の音がしたかと思うと、もう一方の扉からさっきまでこの場から離れていた黒曜生が「千種きましたー?」と顔を出す。顔の中心に一文字の傷を持ち、金髪にヘアピンをさしている少年だ。蛍の記憶が正しければ、確か骸に犬と呼ばれていた彼は雲雀の元へ行っていたはずである。
ちょうど戻ってきた犬は千種の姿を見ると声を上げて彼の元へと足を運んだ。

「っひゃー、だっせー!血まみれ黒コゲじゃん。レアだよレア…」

千種の傍にしゃがんで傷だらけの彼を観察していたかと思えば、犬はいきなり火傷を負っている千種の腕を掴み上げて噛みつこうと口を開く。
彼らがますますわからない、と蛍は驚きながら思った。火傷をまるで焼肉のように認識して自分の仲間に噛みつこうとするなんて、狂っているとしか言いようがない。食べようとしているのが本気なのか冗談なのか判断出来ないせいもあるだろうが、少なくとも犬は本気で千種に噛みつこうとしているのだということは蛍にもわかる。
どうしよう、と蛍は焦った。傷口に塩を擦り込むようなことは止めさせたいが、仮にも相手は自分達の敵だから勝手に仲間割れした方がいいに決まっている。それに大火傷を負っている彼は、きっと山本と獄寺を襲いに行った襲撃犯なのだ。こちらは彼らに何人も重症を負わされているんだし、気に留める必要なんてどこにもない。…でも、傷口を噛まれたらいくらなんでもきっと痛い。
犬の歯が千種の焼け爛れた腕に食い込もうとしたその時、骸が鋭く言い放つ。

「噛むな、犬!」

骸の制止にピタリと止まった犬は、まるで忠実に主人の言いつけを守る犬のようだ。特に反論することもせず命令に素直に従った。
よかったのか、惜しかったのか。蛍が複雑な心境でほっと息をつくのと同時に、骸は更に口を開いた。

「気を失っているだけです。ボンゴレについて何も掴まず千種が手ぶらで帰ってくるはずがない。目を覚ますまで待ちましょう」
「…へーい。骸さんがそーゆーなら噛まないれす」
「いい子ですね」

目を覚ますまで待つと言ったのはいいが、いくら経っても二人が千種を動かす様子は見られず、ただ冷たいコンクリートの床の上に寝転がしているだけだ。こうしている間にも千種の全身から血が流れ続けているというのに気にする様子さえ見られない。仲間が死んでもいいのだろうか、と蛍は顔を伏せた。
雲雀だって大概他人を気遣わない性格だが、彼らはその上をいく。手当てもせずに放置している姿をじっと見ていた蛍はぎゅっと唇を噛み締めた。

「彼、放っておいたままでいいんですか。血を止めるなり病院へ行くなりしないと、このままだと死んじゃうんじゃないんですか。…あなた達が手当てしないというのなら…私がします。もし包帯があるなら貸して下さい」
「…どういうつもりです?」

その言葉に不審を抱いた骸が笑みを消したのはわかったが、蛍は構わず手を伸ばして救急箱を催促した。
早く血を止めないと血が足りなくなる。幸か不幸か、喧嘩に明け暮れていた雲雀の傍にいた蛍は、傷の手当てくらいならそれなりに出来るようになっていた。雲雀に意味もなく殴られた一般生徒の手当てをする為だ。
敵を助ける行為は、きっと襲撃された人達への裏切り行為だろう。けれど一瞬でも過去を思い出した蛍は、傷ついた人間を放っておくことなど出来なかった。
蛍の言葉にきょとんとしていた犬は「バッカじゃねーの」と鼻で笑う。

「そんぐらいのケガで柿ピーが死ぬわけねーびょん!『そう作られた』かんな!」
「え…?」

『作られた』という不自然な単語に眉を顰めていると、静かにそれを聞いていた骸が「言いすぎですよ、犬」と釘を刺す。そしてそれ以上の追求を許さないかのように蛍へと視線を向けた。それは今までのように愉悦を含むものではなかったから、知らず知らずのうちに緊張が走る。

「敵である千種の傷を手当てするなんて、随分と素晴らしい博愛精神をお持ちのようですね?それと引き換えに手錠を外させようという算段ですか。それともただの変わり者か…。少なくとも君に不覚を取るような僕達ではないですから、逃げようとしても無駄ですよ」
「別に取引しようとしてるわけじゃありません…!あなた達がどうなろうと私には関係ありませんし、いっそ清々します…!ただ…!」
「ただ?」

骸に聞き返されて、ぐっと言葉が詰まる。本音を言ってもきっと彼らには通用しないだろう。手錠を外す口実だと思われてもおかしくない。
けれど…と、蛍は傷一つない腕が一瞬だけ痛くなったような気がして、ぎゅっと握り締めた。

「ただ、傷つけられる痛みを少しは知ってるから…」

自分と彼らは違うと思っていても目の前にいるのだから目を逸らすことも出来ないし、放っておくことも出来ない。いっそのこと存在を丸ごと無視出来れば楽なのに、目を閉じても耳を塞いでも、空気中に漂う鉄の匂いがそれを許してくれない。
決して自分は博愛精神に富んだ優しい人間ではなく、敵に同情したわけでもない。目の前に横たわる彼が――傷だらけになっていた自分に見えるのだ。

「…千種はいくら傷つけても痛みを感じない人間ですが、それでも君は治療するというんですか?」
「え…」
「そう『作られ』ましたからね。多少の傷では死にません」

唐突に骸が言い放った言葉を一瞬蛍は理解出来なかった。いくら傷つけても痛みを感じないとは痛覚が麻痺しているということだろうか。そう作られたとは何のことだろうか。
そう考えているのを汲み取ったかのように、骸は視線を落とした。
――もしかしたら彼らは自分よりずっと深い人生を歩んできたんじゃないだろうか、とふと思ったが、彼らに同情してはいけないと思い直して骸を見上げた。

「もし痛みを感じないとしても、きっとどこかで痛いって叫んでます。言うのを我慢してるかもしれないし、誰かが手当てしてくれるのを待ってるのかもしれません。もしそうなら…私はその気持ち、少しはわかってるつもりだから…放っておけません」
「―――――」

微かに瞠目した骸は、ふと昔のことを思い出していた。
繰り返される実験、痛み出す瞳、狂っていく自分自身。助けてと言えなかったのは、我慢していたのだろうか。世界を憎みながら、本当は誰かの救いの手を待っていたのだろうか。この少女が言う通りだとしたら、その辛さをわかってくれるのだろうか――…。

「…救急箱がどこかにあったはずですから持ってきます」
「骸さま…!?」

犬の呼びかけにも答えずに別室へと歩いていった骸は、壁に背中をつけて息を吐き出した。ここまでくれば自分以外に聞こえることはないだろう。冷たく無機質な感触は、一瞬熱くなった意識を冷やしてくれる。
あのままあの部屋にいれば、いつもの冷静な自分でいられなくなってしまうような気がした。きっと何もかも彼女に曝け出してしまうような気がした。抑えつけていた感情が一気に溢れ出したとしたら自分でも何を言い出すのかわからないし、第一、千種や犬以外に全てを吐露する気もないから、気分が落ち着くまで彼女の傍を離れたのだ。
蛍があれほどまで千種にこだわっていたのは、どうやら彼女の過去に関係しているようだ。雲雀に少し関わっているだけのただの少女かと思っていたのだが、どうやらその認識は改めないとならないらしい。幼い頃の自分が欲しかった言葉を、彼女は今になって与えてくるのだから。

もっと早く彼女に出会っていれば何か変わったんでしょうかね、と呟いた骸の言葉は今にも消えてしまいそうなほど掠れていた。
それでも――もう立ち止まることは出来ない。

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