28

人の運命は生まれた時から決まっている。
例えば有名人になるべくして生まれた者はそれ相応のオーラを身に纏っているし、お金持ちなら親が金を持っているか自身によほど金運があるに違いない。
そして自分はといえば、誰かの踏み台になるべくして生まれたのだろう。強い者を生かす為だけに弱い者は蹂躙される。それを身をもって証明しているここはまさに弱肉強食の世界だ。実験台に上っていた骸はそう思って生きることを諦めていた。
生きることは苦しい。生きることは辛い。いっそのこと一息に殺してほしいのに、実験台としてのこの身は朽ち果てるまで利用され続けるのだろう。そう思うと吐き気がして、思わず嗚咽が込み上げてくる。いつになればこの生き地獄が終わるのか…それだけを日々考えて過ごしていた。

――右目が痛い。

じくじくと疼いている右目にそっと触れると、未だに治っていない手術痕が皮膚を盛り上がらせている感触がした。まだ細胞が完全にくっついていないから、少しでも爪で引っ掻けばすぐに傷口が開いてしまうだろう。
右目の辺りを上にも下にも縫い付けられているそれは、痛いのか痒いのか微妙な感覚だ。もちろん引っ掻かないように眼帯をつけてあったのだろうが、そんなものは邪魔だと言わんばかりに既に外してしまっている。

そっと右目を開けてみれば、鏡越しに気色悪い色違いの瞳を持った少年がいる。気持ち悪い、血の色だ。
それが自分だと理解する前に思わず拳を叩きつけ、鏡は耳障りな音を立てて粉々に崩れていった。そのせいで傷ついた拳からじわりじわりと血が滲み出てきている。深紅の雫が床に滑り落ちる前にペロリと舐め取った骸は、舌の上に広がる鉄の味に心底嫌気が差した。
自分の存在意義を実験台としてしか認められなかった少年は他人に助けを求めることなど知らない。助けてくれる人なんていないんだから、助けを求めるだけ無駄じゃないのか。そんな気持ちは膨らんでいく一方でいかに自分が孤独かということを思い知る。一人きりの部屋はとても寒くて、思わずぎゅっと身を縮めた。


「時間だ。出ろ」


檻の向こう側から聞こえる無機質な声に振り返ると、そこにはシミ一つない真っ白な白衣を身に纏った数人の男達が骸を見下ろしていた。骸をモルモット同然だと考えている男達のその瞳はどこまでも冷たい。突き放したような視線を向けられて、骸はこれから始まる悪夢に怯えた。またあの苦痛が与えられるのだ。
けれど、それは命令に従わなくても同じこと。絞り出すような小さな声で「…はい」と答えた骸は、ゆっくりと檻の扉を潜った。

ねぇ、誰か助けて。あなた達の中の誰でもいいから、この狂った実験を止めようと声高に叫んで。
それが僕を哀れんだものでも自分の良心が咎めて罪深さに耐えられなかったものでもただの気紛れでも何でもいいから、いつかここから解放してほしい。どんなに時間がかかってもいいから。
ただ一言謝ってくれればそれで辛いことも苦しいことも全部忘れるから、ほんの少しだけ人間の温かさを感じたい。お菓子もおもちゃも、普通の子供が与えられるようなものなんて今更望んでないから、せめて僕の心が闇に落ちてしまう前に掬い上げて。
痛いよ。苦しいよ。それに気持ち悪い。目の前がぐにゃぐにゃ歪んで歩けない。ああ早く白衣に追いつかなきゃいけないのに、いきなり右目がおかしくなって目の前がチカチカする。

いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい



――痛い…!

鼓膜を引き裂くような叫び声を耳にした蛍は、どこか切り離されたような感覚でそこに座っていた。真っ白な部屋には窓一つない。目の前には見たこともないような実験道具が陳列されていて、まるで小綺麗な檻のようだ。中央には手術台のようなものがあるからどこかの病院なのかもしれない。自分がどうしてここにいるのかも考えつかなかった蛍は、だるい体を動かすことも出来ずにただその光景を眺めていた。
一人の男の子が連れ込まれたかと思うと、大量のチューブを介して機械に繋げられる。何かの実験をしているのだろうか。痛々しい光景に顔を顰めるが、どうしてか、声を張り上げてやめてと言うことが出来ない。指先一つ動かすことも出来ない。蛍に出来るのはそれを見ていることだけだった。
数人の医者らしき男達が手術でその男の子を弄んでいくにつれて、部屋中に耳を塞ぎたくなるような叫び声が響き渡る。

いたい。
やめて。
たすけて。

自然と蛍の頬に熱い雫が弧を描いて服をじわりと濡らしていく。
ここはどこだろう。私は、どこの地獄に落とされてしまったのだろう。助けて、誰かあの子を助けて。

少年が痛みを叫んでいると、不思議なことに彼の気持ちが蛍の脳に入り込んでくるようだった。息が詰まりそうなほど重苦しいそれは、闇に心を蝕まれた人間しか持っていないもの。じわり、じわりと、蛍の心をもゆっくりと侵食していく。

「たすけて…」

それは蛍の声を借りた少年の叫びだった。

右目が痛い。自分に危害を加えられているわけでもないのに、それと同じくらいの痛みが蛍を襲っている。少年と蛍の神経が一つになったわけでもないのに、少年が右目を弄られた途端に蛍の右目に激痛が走る。
まるで血が溢れ出したかのような感覚に襲われるが、蛍の頬を濡らしているのは水分と塩分の混じり合ったものであって、決して血液ではない。ここの世界では、蛍が少年自身なのだ。彼が傷つけば傷つく程に蛍も傷つく。彼が苦しむと比例して蛍も苦しくなる。少年の悪夢を実際に体験しているようなもので、逃れる術は蛍にはない。

この世界を形容しているのは、狂気と、血と、血と――…


「いたい…!あああああ…っ!!」


右目をぬるりと流れていくのは真っ赤な血だ。生々しい肉を裂く音とむせかえるような生臭い香りが、脳をゆっくりと蝕んでいく。
叫びすぎて掠れた少年の声が助けを求めている。男達はそれを無表情で見つめている。
蛍がどんなに拒んでも目の前の惨劇は止まらない。目を閉じても脳裏にフィルターが焼きついたようにグロテスクな映像が流れていく。悪夢だと思った。

きっとこれは骸の過去なのだろう。張り付いた笑顔の裏に隠されていたものは辛くて辛くて、苦しいもの。何故彼が蛍にこんなものを見せるのか真意はわからないが、少年時代の骸を見てしまった蛍は、彼がどんなに世界を憎み恨んでいるのかを知ってしまった。まるで自分のことのように思ってしまうのは、今彼と精神が繋がっているからなのかもしれない。
知りたくなかった。『六道骸』という人間を知らなければ、ただの敵として彼を見ていられたのに。

心が闇に沈んでいく。少年の憎悪や恨みや絶望…そんな負の感情が蛍を満たしていく。もう眠りたいと、眠ってしまった方がどんなに楽か、と逃げたくなる。助けを求めることは…諦めた。

世界が暗くて――何も見えない。

***

「クフフフ」

怯えたようにその場から立ち去って行ったツナの後姿を見送っていた骸は、思わず笑みを漏らした。
あれがマフィアの中でも絶対的な権力を持つボンゴレファミリーの次期ボスだというのだから、マフィアの底もたかが知れている。骸の白々しい演技にも気付かない一般人となんら変わらぬ少年ではないか。
いや、むしろ彼より強い男などそこら中にいるだろう。あの弱々しさが自分のように演技したものだとしたらかなりの強敵だが、それはないと断言出来る。嘘をつき慣れた骸だからこそ、ツナの怯え様が演技ではないとわかるのだ。…とすると、やはり謎めいた赤ん坊が何かしらの力を持っているに違いない。
ガサリと木の葉を揺らして背後に現れた千種に、骸は笑みを向けた。

「やはりあの赤ん坊、アルコバレーノ」
「そのようですね」

千種が自分と同じ読みをしていたことに素直に喜びを感じてクスクスと笑う。それは先程ツナに向けたような作り笑いではなく、子供が何か悪巧みを思いついたかのように無邪気で、どこか嘲笑めいた邪悪なものだった。

「そして赤ん坊は戦列には加わらないが、何か手の内を隠している…。ボンゴレ十代目に手をかけるのは、それを解明してからにしましょう」
「…嬉しそうですね」

滅多に見ない心からの笑みを見た千種は思わず呟いた。
いつも笑みを絶やさない骸だが、本当に嬉しそうに笑うところなど数回しか見たことがない。いつも笑いながら他人を卑下し、蔑み、見下している。他人を受け入れたことなど一度もない。…そしてそれは自分にも言えることなのだけど。

そう指摘された骸は「実際に対面してみて呆気に取られているんですよ」と、チラリとツナが去って行った方角へと視線を向ける。

「神の采配と謳われ、人を見抜く力に優れているボンゴレ九代目が後継者に選んだのは、僕の予想を遥かに越えて弱く小さな男だった。何なんだろうね、彼は…」

口ではそう言いながらも嬉しそうに笑う骸を、千種は沈黙しながら見つめていた。
彼の真意は自分などにはわからないし、もし聞いたとしてもきっと理解出来ないものなのだろう。けれど、それでいい。沢田綱吉をどうするのかもボンゴレファミリーをどうするのかも全ては彼が決めることであって、千種が口出しすべきことではない。自分達は骸の手足となって彼の為に働けば、それでいいのだから。

「まあどちらにせよ、あのアルコバレーノの手の内はすぐに見れますよ。彼らの手には負えないからでしょうね。――あちらの六道骸は」

今頃ボンゴレの仲間を苦しめているであろう男を思い浮かべた骸は、彼の強さを十分に理解していた。たとえボンゴレ達がM.Mやバーズや双子達を倒しても、彼には遠く及ばない。彼を知っているマフィアでさえ彼の力を恐れているというのに、まだ真のマフィアも知らぬ彼らがあの『六道骸』に勝てるはずがない。闇の世界で何回も絶体絶命の危機を乗り越えてきたあの男は強いと自信を持って言える。だからこそ自分の手駒には最適だったのだ。

そして、あわよくばピンチに陥ったボンゴレがあのアルコバレーノの力を頼れば――…。

千種、と口を開いた骸は「もしも万が一、彼が…ランチアが負けるようでしたら、後始末を頼みますよ」と、まるで子供におつかいを頼むかのようにさらりと告げた。もし彼が負けたら殺せ、と。いつもの笑みを絶やすことなく。
千種の首が縦に動いたのを見て満足そうに微笑んだ骸は、虚ろな目をして隣に立っている少年を見下ろした。

「さて、では先輩の戦いぶりをじっくり見学出来るように帰りましょうか。千種、フゥ太くん」
「はい、骸様」
「……………」

フゥ太は何も答えない。一瞬だけマインドコントロールを解いた少年は、再び骸の傀儡へと戻ってしまった。

「そろそろ僕が帰らないと蛍も不安がるでしょうからね」
「…骸様、どうしてそこまで」

彼がここまで一人の人間に執着するのを初めて見た千種は不思議でたまらなかった。どう見てもあの蛍という少女はどこにでもいる一般人であり、自分達とは相容れないであろう人種だ。今まで骸の周りに寄ってきた女性は数多くいるが、彼の興味を引くような人間は一人もいなかったから、偽りの笑顔で無難に誘いを断ってきたか、手酷く扱って捨てたかのどちらかだ。もしかしたら下心が丸見えの彼女達を心底醜いとすら思っていたのかもしれない。
けれど、あの少女は違う。確かに最初はただの駒の一つとして認識していたのに、今では鳥篭に閉じ込めるかのような執着心を彼女に持っているのだ。愛しているからこそ壊したいと願うほどに。
今まで見てきた女性達より外見がいいわけではなく、骸の興味をそそるほど強いわけでもない。むしろ弱くて何も出来ないただの一般人にどうしてそこまで惹かれるのか、千種には理解出来なかった。

怪訝な千種の顔を見た骸は、彼の心情などとうに見透かしているのだろう。千種の頬に貼られた絆創膏を見てふと笑みを消した。

「君の傷を手当てしたのはあの子です」
「……………!」
「今まで僕達は色んな人間を見てきましたね。良い人間も悪い人間も。…そして裏の世界の住人の中でもはみ出し者の僕らは、いつも悪いレッテルを貼られて戦ってきましたね。良い人間には人殺し、悪い人間には裏切り者だ、と」
「…骸様は悪くないです」
「ありがとう。千種も間違ったことは何もしてませんよ。犬もです」

苦しそうに言葉を吐き出した千種を見てにこりと笑う。
そう、自分達は何も間違ったことなどしていない。『悪いこと』の基準が周りと違うだけで、自分達は自己防衛の為に力を振るっているに過ぎないのだ。自分達を捕らえていた看守を殺したのはこのまま大人しくしていたら殺されるのがわかっていたからで、追っ手を殺したのは捕まったら殺されるからで、マフィアに復讐するのは自分達に憎しみを植え付けた根源を絶つ為だ。
それが間違っていると言うのなら、死ねと言われていることと同じ。ならば初めから自分達は実験台として死ぬべきだったのか…。
そんな骸の苦しみを知らない蛍が言った言葉は、骸の心を大きく揺さ振った。

『そうだとしても、きっとどこかで痛いって叫んでます。
言うのを我慢してるかもしれないし、誰かが手当てしてくれるのを待ってるのかもしれません。
もしそうなら…私はその気持ち、少しはわかってるつもりだから…放って置けません』

その言葉を聞いた骸の心は、とてもとても軽くなった。
この少女なら自分を理解してくれる。救ってくれる。自分の痛みのようにすぐに気付いて癒してくれる。自分は存在していいのだと言ってくれる――…。今は骸を憎んでいるとしても、いつかはきっと受け入れてくれる。

「彼女は善意の塊のような『良い』人間ですから僕達のしたことを許さないでしょう。けれど、こうして千種を手当てする。闇を知っているくせに闇に落ちない強さを持っていて、優しくて、誰かを完全に厭うことが出来ないくらい弱いから。僕達とは正反対の善良な人間だ。一体今までどれほど騙されてきたんでしょうかねぇ。信じられないかもしれませんが、悪い人間である僕達を放っておけないんですよ。彼女は誰よりも傷つけられることの痛みを知っている」
「…自分の保身の為ではないんですか?」
「性分でしょうね。損な性分ですよ。呆れるくらい甘くて」

だからこそそれに縋りたいと思ってしまったんですけどね、と小さく呟いた。
今まで自分達を傷つける人間は数多くいたが、手当てしてくれた人間など一人もいない。自分達の身を案じてくれた人間など…。

「偽善者は大嫌いです。けれど、どうしてでしょうね。彼女だけは…」

要するに、彼はやっと見つけたのだ。自分を全て曝け出しても安心出来る、心を傾けられるたった一人の人間を。
それは信頼という絆を持った千種と犬とは違う、愛情という名の絆だ。

黒曜センターへと帰っていく骸の背中を眺めて千種は思う。誰よりも繊細で、誰よりも深い闇に取り込まれたこの少年を、彼女が助けてあげられる存在であってほしいと。世界を恨むことしか知らない彼の心を温めてあげてほしいと、そう願う。
かつて自分達を地獄のような檻から出してくれた少年の心は、未だ過去に縛りつけられたままなのだから。

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