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「じゃあ、このザコ二匹は頂くよ」
重症を負って立ち上がることすらままならない獄寺に、雲雀は彼に視線を向けることなく言い放った。「勝手にしやがれ」と気丈に言い返せるくらいだから命に関わるような怪我ではないのだろう。たとえ今すぐに処置を施した方がいいような傷にせよ、雲雀が気にするわけがないのだが。
とにかく、一刻も早くこの二人を倒して蛍を探し出さなければならないのだ。さっき犬が雲雀に蛍が愛用しているゴムを渡してきたということは、蛍が骸の手中に落ちてしまったということ。
骸と接触した時、彼は異常なほどに蛍に興味を示していたことが妙に胸に引っかかる。骸は蛍に何をしようとしているのか、何を求めているのか――雲雀には見当もつかないが、いい予感はしない。ただの平凡な人間である蛍が骸に与えられるものは何もないはずなのだ。何か骸を楽しませられるとしたら、せいぜい猫に遊ばれるねずみのように弄ばれるくらいのもので…。
思わず顔を顰めた雲雀は、肩にとまった小鳥をはらって千種と犬を見据えた。その視線を受けた犬は『ザコ二匹』という言葉に片眉を吊り上げる。
「死に損ないが何寝ぼけてんだ?…柿ピー、こいつはオレがやる」
「…言うと思った」
全身傷だらけの状態で何が出来るものかと馬鹿にしたように犬が笑うと、千種は呆れたようにため息をついた。言い出したら聞かない犬の性格はよく知っているし、そんな彼を制止するのも面倒だ。それならやりたいようにやらせればいいと考えた千種は特に口出しすることもせず、ただ黙ってこくりと頷いた。
徹底的にやっからさ、と言いながら動物の歯型を取り出した犬に、雲雀がピクリと反応する。カシャンと自らの歯にそれをはめ込んだ犬の姿がみるみる変化していったからだ。
左頬にライオンを模したような絵がぼんやりと浮かび上がってきたかと思えば、髪を固定していたピンが飛び散って髪が伸び、手足には人間のものではない毛が生えて爪が伸び、まるで動物の足のように変化していく。『アニマルチャンネル』という特殊能力を持った犬にこそ与えられたその能力は、動物の牙をはめることによって驚異的な身体能力を得ることが出来るというものである。本物の動物さながらの力を発揮すれば肉弾戦で力負けすることはまずない。狼なら嗅覚、猿なら反射神経、ゴリラなら腕力が格段に飛躍する。そして百獣の王のライオンなら――…。
けれど犬の能力について何も知らないはずの雲雀はそれに怖れもしない。戦闘を心から楽しむ彼は、むしろ余裕の笑みを見せて犬を挑発する。
「ワオ、子犬かい?」
それにカッと頭に血が上った犬は、勢いよく地面を蹴った。
「うるへーアヒルめ!!」
一直線に向かってくる犬を避けようとすれば避けられるかもしれないが、彼の手には肉をも軽々と切り裂く爪がある。もし雲雀が避けようとすれば素早く攻撃に反転して爪で襲いかかってくるだろう。そして雲雀はそれを受け止められるトンファーを持っていない。雲雀の隣に置いてあったはずのそれは、獄寺が壁を壊したことにより瓦礫の中に埋まってしまっていたのだ。
――拾い上げている暇はない。ちら、と床に落ちているトンファーに目を向けた雲雀は、犬が向かってきたと同時にそれを蹴り上げて易々とそれを手にする。トンファーはパシンという軽い音と共に彼の手の中に納まった。
久しぶりのその感触に、戦いの感覚が戻っていく。空気を切る鋭い音、ひしひしと感じる敵意、自らの体を巡る何とも言えない高揚感――。ああ、これこそ本来の僕だ、と雲雀は笑った。
トンファーを持った瞬間、そのまま勢いを殺すことなく犬にそれを振り下ろす。ライオンチャンネルを発動した犬は軽々と雲雀の攻撃を避け、肉を切り裂こうとした…のだが、犬の視界に映ったのは、トンファーを振り下ろした反動のまま体を回転させる雲雀の姿だった。
「!?」
それに驚いた刹那、ガッと鈍器で思いっきり殴られたような衝撃が頬に走り、強烈な痛みが与えられる。体を一回転させた雲雀が振り返りざまに犬をトンファーで思いっきり殴りつけたのだ。鼻の骨と奥歯が折れたような鈍い音と共に、大量の血が宙に舞う。
そして怒濤の攻撃が一発で終わるはずもなく、犬が体勢を立て直す前に、更に一閃。一直線に突き出されたその攻撃を防ぎ切れなかった犬は、あまりの衝撃に吹き飛ばされ、勢いよく窓を割って外に投げ出されてしまった。
「犬!」
千種が思わず反射的に叫んでしまっても、雲雀の攻撃で気絶したのか犬の返事は返ってこない。
まさか犬が完膚なきまでに倒されるとは思ってもいなかった千種は息を詰まらせた。骸があれだけ痛めつけたというのにここまで動けるなんて、この男は不死身なのか。自分と同じように実験台にされたわけではない、普通の人間のはずなのに――…。
ざり、と革靴が地面を擦った音に反応した千種が振り返ると、足元をふらつかせながら、それでも戦おうとする雲雀がトンファーを構えていた。
「次は君を…咬み殺す」
雲雀の方が重症を負っているというのに、この禍々しい重厚感は何なのだ。まるで獣に食い殺される寸前のような感覚に襲われた千種は、頬につぅ…っと冷や汗が流れるのを感じていた。
***
「ビアンキ!ビアンキ、しっかりして!!」
フゥ太に刺されたビアンキは腹部から大量の血を流して気絶していた。必死にツナが話しかけるが、意識を取り戻す様子は見られず、固く目蓋を閉じている。
このままだと命に関わるかもしれないと考えたツナはビアンキの意識を留めようと体を揺さぶろうとしたが、その瞬間リボーンにバシンと平手をくらう。
「バカ、下手に動かすな。俺がビアンキを手当てするから、その間にお前はフゥ太をどうにかしろ」
「どうにかしろって…!そうだ、フゥ太何やってんだよ!ビアンキがわかんないのか!?」
いきなり誰かを刺すなんて、普段のフゥ太からはとても予想がつかない行動だった。だからこそビアンキも易々と攻撃を受けてしまったのだろう。仮にもマフィア界で毒サソリの異名を知られているビアンキがそう不覚を取るはずがなく、フゥ太は彼女が油断した一瞬の隙をついたのだ。
それでもツナはフゥ太がビアンキを刺したことをまだ信じられなかった。いつも『ツナ兄』と自分を慕い、周りをちょこちょことくっついてくる無垢な少年が、どうしてこんな残酷な真似が出来るだろう。悪いマフィアにはいくら積まれても情報は売らない、と頑として理不尽な暴力を嫌う意志を貫いているのに――…。
ツナの制止を丸ごと無視したフゥ太は武器を持って切りかかってきたが、寸での所でそれを避ける。けれど本気でツナを傷つけようとしている彼の攻撃をいつまで避けられるかわからない。機械のように休みなく続く攻撃の手は一向に弱まる気配がなく、ツナの息を上がらせてばかりだ。このままじゃオレもビアンキみたいに…!と奥歯を噛み締めたツナはフゥ太から武器を取り上げようと手を伸ばすが、それを拒否したフゥ太はツナと距離を取るために攻撃を止める。
息を整えながら、それでも油断することなくフゥ太の様子をうかがっていたツナは、様子がおかしいことにはっとする。やや青褪めた顔はまるで人形のように無表情で、どんよりと曇った瞳には光が灯っていない。…蛍のように。
まさか、と瞠目したツナの考えは間違っていなかったらしい。ビアンキの傷の応急処置を済ませたリボーンは、フゥ太の異変に気付いていたようだった。
「マインドコントロールされてるみたいだな」
「そんな…!」
ツナの声が届かないのは、フゥ太がマインドコントロールされているからに他ならない。ツナの姿を認識していないまま切りかかってくるフゥ太はまさに操り人形だ。虚ろな瞳で刃を繰り出し、標的を突き刺すまで動きが止まらない。
骸がその様子を見てさも愉快そうにクフフフと余裕の笑みを零している。彼をマインドコントロールして操っているのは六道骸だということは明らかなのだが、それを解く方法もまた骸しか知らないから、ツナがいくらマインドコントロールを解こうとしてもやり方がわからないのだ。必死に呼びかけてもフゥ太の心には届かず、虚しく部屋に木霊するだけ。
この状況をどうにかできる手段はないのかと思ったその時、どこからか伸びてきた鞭が思いっきり首に巻きついて呼吸が止まった。きつく首を締められたせいで反動で後ろに倒れてしまい、ますます息が出来なくなる。
「―――――っっ!!」
「前にディーノに貰った鞭を持ってきてやったぞ」
「っ、普通に持ってこいよ!首締められたらいくらなんでも死ぬから!」
華麗な鞭捌きでツナの首を締めてくれたリボーンはそんな批難の嵐をさらりと無視し、がんばれよ、と鞭をポンと手に置いた。
がんばれよ、なんて言う方は気楽かもしれないが、いきなり鞭を手渡されたツナにとっては何の気休めにもならない。生まれてこの方武器らしい武器なんて持ったこともなければ使ったこともないのに、この鞭でどうしろというのか。もし使ったとしても使いこなせるはずもなく、武器が手に入ったからといって何の手助けにもならないのに。
早くやらねーとお前がやられるぞ、というリボーンの言い分は正しい。こうしている間もフゥ太は攻撃をしようと隙を狙っているのだ。再び彼が切りかかってくるのは時間の問題だろう。
けれど、それでも相手はフゥ太なのだ。攻撃なんて――出来るはずがない。
「クフフフ…。さあ、どうします?ボンゴレ十代目」
信頼し合っている仲間同士で傷つけ合うのが余程面白いと感じているのか、目の前で繰り広げられる喜劇を楽しむかのように骸が笑っている。フゥ太と同じような曇った瞳で虚空を見つめ続けている蛍の手を握りながら、ツナがどんな手でこの状況から逃れるかをわくわくしながら観察しているのだ。まるで一種の暇潰しのように。
それにツナはどうしようもない憤りを感じた。
元はといえばこいつがフゥ太を操っているせいで――!
ぎゅっと手に持った鞭を握り締めたツナは、フゥ太を振り切るようにして勢いよく走り出す。
フゥ太を攻撃することはどうしても出来ない。ツナにとって弟のような存在の彼を傷つけることは出来ない。――それならば、元を断てばいいのだ。フゥ太と蛍を操っている六道骸を直接攻撃すれば、もしかしたらマインドコントロールが解けるかもしれない。
突然ツナが自分に向かって攻撃しようとしてきたことに、骸は、ほう、と目を細めた。やれるものならやってみればいい。隣に座っている蛍を巻き込んでもいいのなら。もしくは、蛍に傷一つつけることなく骸だけを攻撃出来るという自信を持っているのなら。
少しの動揺も見せない骸は攻撃を避けようとする様子もなく、ただツナの行動をじっと見つめている。ボンゴレ十代目としての器量を確かめるというよりも、過程を楽しめるのならツナの攻撃が成功しようが失敗しようがどちらでもいいのだ。…そう、たとえツナの手元が狂って鞭が蛍に当たったとしても。
もちろんツナにその不安がなかったわけではない。もしかしたら骸が蛍を盾にするかもしれないという疑念も湧いたが、それでもやるしかないのだ。フゥ太と蛍を助ける為に。
「やあ!!」
「!」
ビュッと勢いよく振り下ろされた鞭の先は一直線に骸に向かって伸びていき――どういうわけか逆戻りしてツナの右目に直撃し、足首を何重にも巻いて止まった。
ある意味素晴らしい鞭捌きは、部下がいない時のディーノを彷彿とさせる。やれやれ…と密かにリボーンはため息をついた。
「いてーっ!」
両足を固定されたせいで身動きが取れずバランスを崩して地面に倒れたツナは、顔面を床に強打して思わず鼻を押さえる。いや、それより鞭があたった右目に激痛が走っている。
さすがダメツナ…とあまりの痛さに顔を顰めていると、ツナの運動神経のなさを目の当たりにした骸はとうとう堪え切れなかったのか、クハハハハと盛大に笑い出した。
「君にはいつも驚かされますね。ほらほら、後ろ…危ないですよ」
「え…?」
痛みを堪えつつ骸の言葉に振り返ると、ツナの両足を縛っていた鞭がフゥ太にまで絡んで二人の自由を奪っていた。幸いにも、地面に倒れ込んだ衝撃でフゥ太の手から武器が離れている。
更に武器を遠ざけようとしたツナだったが、それ以上にフゥ太が必死に手を伸ばし、どうにかして再び手に入れようと躍起になっていた。骸に操られているその姿にツナは思わず拳を握る。ツナを攻撃するようにマインドコントロールされたフゥ太は一心不乱に武器を取ろうとしたが、寸での所で武器を弾き飛ばしてそれを阻止する。
もうやめてくれと言いかけたツナは、フゥ太の目を見て、開きかけた口を閉ざした。
それでも手を伸ばそうとするフゥ太の瞳は、何も映し出していないかのように濁ったままだ。焦点が合っていない虚ろな瞳。――まるでさっき戦っていた時のランチアみたいだ。
『目を覚ます度に、身に覚えのない屍の前に何度もオレは立っていた』
ツナに敗北を認めたランチアは自らの生い立ちをぽつりぽつりと話したが、まさに今のフゥ太が彼と同じような状態になっている。骸に操られていたランチアは何度も意にそぐわない殺しをさせられ、記憶を操作されていたのだ。
もしフゥ太がランチアと同じような目に遭っていたならば、骸に操られていた時の罪悪感でツナの元へ帰ることを拒否したのではないだろうか。ランチアと同じように、何もかもに絶望して。
その時、鞭を解ききったフゥ太がガッと武器を掴んでツナを突き刺そうと腕を振り上げた。咄嗟に攻撃を避けようとしても体が動かない。ただ息を殺してフゥ太を見つめていたツナは、彼の瞳を見た瞬間、ズキリと心臓に鋭い刃が突き刺さるような感覚に陥った。
――助けて、避けて、ツナ兄…!
骸に操られているはずのフゥ太の瞳がそう訴えているような気がしたのだ。
「お前は悪くないぞ」
「!」
思わず口をついて出たツナの言葉に、フゥ太は目を見開いて動きを止めた。それに骸はわずかに眉を寄せる。
何もかもがダメな自分にフゥ太が助けられるなんて思っちゃいない。けれどフゥ太が苦しんでいるのなら少しでも楽にしてやりたかったし、戻ってきてほしかった。たとえ自分を刺そうとしていてもフゥ太はフゥ太であり、かけがえのない仲間だ。だからせめて心だけでも軽くしてあげたい。
フゥ太の瞳をじっと見つめていたツナは悪夢から彼が解き放たれることを願って、言い放つ。
「全然お前は悪くないんだ。みんなフゥ太の味方だぞ。――安心して帰ってこいよ」
「―――――!!」
ツナの言葉にフゥ太の表情が大きく歪む。まるで頭を割られてしまったかのような激痛が脳を揺さぶり、彼自身の意志が骸の支配下から解き放たれていく。フゥ太の意志を押さえ込んでいた力が段々と薄らいでいくのを感じ取った骸は、マインドコントロールを解く唯一の方法を当てたツナにじっと視線を向けていた。
マインドコントロールは、かけられた側の『一番望むこと』を言い当てることによって無効化される。だから今回はフゥ太の一番望むこと、己の罪が許されることを願っていた彼はツナの呼びかけに反応したのだ。
まさかツナにそれを言い当てられるとは予想していなかった骸は素直に感心し、彼への認識を改めた。どうやら何の取り柄もない非力な少年というわけではないらしい。
――その時、隣で沈黙を守っていた蛍の目蓋がピクリと反応する。ツナの言葉に感化されたかは知らないが、蛍の目蓋がゆるゆると持ち上げられてゆっくりと景色を映し出していく。眼球が動き、唇がわずかに震える。…覚醒の兆しだ。
ほんの少しでも蛍の意識が戻ることを怖れた骸は蛍の顎を掴んでぐいっと己に引き寄せ、色違いの双眸で彼女の瞳を見つめた。
「まだダメですよ」
「―――――」
「僕自身を見つめてくれるまで、ダメです」
そう、まだ彼女の意識を取り戻すには早いのだ。彼女を捕らえた時間も質量も、彼女を完全に手中に収めるには全然足りない。蛍を手に入れる為には、ゆっくりゆっくり砂糖を焦がさず煮詰めるように、時間と労力をつぎ込まないとならないのだ。そうしなければ出来上がるのはただの精神異常者か廃人だけ。多少心は壊れてもいいが、彼女自体の意志がない人形なら必要ない。
骸と目が合った瞬間目を見開いた蛍だったが、すぐにゆるゆると目蓋を落としていく。再び意識を闇に落として虚ろな瞳をした蛍の両手を優しく包み込んだ骸は、ほっと息をついた。たとえボンゴレだろうと誰だろうと邪魔はさせない。蛍を自分から取り上げるような真似は許さない。
骸が蛍を見下ろしていると、「フゥ太!?」と必死に呼びかけるツナの声が部屋中に響き渡り、ちらりとそちらへ視線を向ける。するとマインドコントロールを解かれたフゥ太が鼻血を出して気絶していて、ツナが彼の意識を取り戻そうと必死に呼びかけているところだった。