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囲碁大会当日、珍しく巴は遅刻していた。
速足で会場へと向かう。去年と同じで開催場所は海王中学――――入るのは受験以来だ。指定の教室からはパチパチと既に音が聞こえてくる。そしてそっと中を覗いた瞬間、よく知った声が響いた。

「ふざけるなっ!!」

塔矢だった。対局相手は―――ヒカルだ。佐為が打っている気配はない。
塔矢は座席から立ち上がり、凄い剣幕でヒカルのことを見下ろしていた。

塔矢の叫び声のせいで教室中の手が止まっていた。みんなピキッと氷のように固まって塔矢のことを見ている。

「塔矢!最後まで打ちなさい!」

海王の顧問と思わしき男が立ったままの塔矢を諌めた。
しばらく迷った後、塔矢は「くそ!」と悪態をつきながら着席。バチン!やけくその塔矢の一手が響く。それを合図に他の選手もまた打ち始めた。教室の空気は凍ったままだ。パチ、弱気なヒカルの一手。バチン!怒った塔矢の一手。

「…ま…負けました」

少しして、ヒカルが投了した。塔矢はすぐさま席を立とうとしたがまたも顧問に注意され、かなり渋々「ありがとうございました」とだけ言った。ヒカルとは視線すら合わさない。
失望した――――傍から見ているだけで塔矢の気持ちが伝わってくる。彼は今、ヒカル自身とヒカルを追いかけた自分に深く失望している。

「…君に……以前の君に…垣間……神の一手を見たとさえ思ったのに…」

最後にそれだけ吐き捨てると塔矢は教室を立ち去っていく。追うかどうかほんのすこし迷ったが、結局巴はヒカルの方へと近づいた。
葉瀬中はたった今、3−0の敗けを宣言されたところだった。

「ヒカル、お疲れ様」
「巴、俺……」

座ったままヒカルはちらっと巴を見上げ、すぐにまたうつ向いた。そんなヒカルの横では筒井がボロボロと泣いている。なんとも中学生らしい、青臭い光景。本気で挑んで、負けて悔しくって泣いて…。

敗退校も会場に残ることができるがヒカル達は早々に帰っていった。巴は会場に残って決勝戦を見つめていた。

海王囲碁部のことは去年も「ここだけレベルが違う」と感心したものだが、その一員である塔矢はさらに別格の強さを誇っていた。先程の件で意気消沈しているはずなのに、塔矢の打つ碁はどこまでも鋭い。昔、塔矢と打ったことのある巴には、知らない間に彼がどれほど成長したかが痛いほど伝わってきた。

結局、囲碁大会は男女とも海王の優勝で幕を閉じた。簡素な表彰式が終わり、選手が各々帰り支度をしているところを狙って塔矢に近づく。彼はすぐに巴に気づいた。

「高嶺さん」

周囲のこの諦めきった空気。塔矢の元気の無さ。とても優勝おめでとう、とは言いたくなくて、巴は「おつかれさま」という無難な一言を告げた。

「ありがとう。……そうだ、これ」

そう言って差し出されたのは桃色のハンカチ。巴はそれを受け取って曖昧な笑みをこぼす。

「ああ、うん」
「……高嶺さんは、前に言ってたよね。進藤は僕が思っているほど強くないと」

あれだけ派手に負かせておいてもやっぱり納得できないのだろう、塔矢は悩ましげに目を伏せていた。
ヒカルの――佐為のあの圧倒的な強さを諦めきれないのかもしれない。

「僕が追っていた進藤は幻だったんだろうか?」
「……」
「僕を2度負かした。去年のこの大会で海王に勝った。あの時の進藤はどこへ行ってしまったんだろう」

地面に伏せていた瞳がゆっくりと私に向けられる。どうか教えてくれ、という塔矢の叫びが聞こえてきたような気がした。

「……ヒカルはさ、塔矢を追いかけ始めたばかりなんだ」
「僕を?」
「うん。私に言えるのは、それだけ」

ゆらゆら、頼りなく揺れる塔矢の瞳。自分はすべてを知っているけれど、塔矢には納得のいく嘘も真実も伝えることができない。だってそれを言うのは自分じゃなくてヒカル自身であるべきだ。ヒカルが秘密にしようとしているのに自分が勝手にアレコレ言うのはおかしい。

「高嶺さん」

数秒の思い沈黙の後、塔矢が言った。

「僕、今年のプロ試験受けるよ」
「……え?」
「部活は辞める。元々この大会が終わったら退部する約束だったんだ」

暗い顔の塔矢に、これを告げるのは良くないのかもしれない。でもどうせ当日には分かることだし、言うなら今だ、と思った。その時は。

「じゃあわざわざ約束なんてしなくても塔矢とはそのうち打てそうね」
「え?」
「プロ試験の本選は総渡り戦だから、絶対に当たる」
「……? 何の話?」
「私も受けるんだよ塔矢。プロ試験、私も受験するの」

まさか、冗談だよね?その言葉を飲み込むのに塔矢はかなり苦労したに違いない。表情が奇妙な具合に歪んでいた。
やっぱり本気にはしてもらえないか、そりゃそうだ。一度は囲碁から目を背けた彼女が、まさか自分から囲碁の世界に入ろうとするなんて。

「でも、高嶺さん」
「でもじゃないよ。私、本気だから」

呆気にとられている塔矢にくるっと背を向けて、巴は退場。
予選開始まで残り一ヶ月、私は私をどこまで鍛え上げることができるだろう。

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