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海王にズタボロにやられたその夕方、ヒカルと佐為が家にやってきた。
いつもなら即刻碁盤に向かうのだが、今日はお茶を片手にぼんやりくつろぐばかり。巴はともかく、ヒカルのモチベーションがやたらと低いせいだ。あんだけ完膚なきまでに叩きのめされ、その上思いっきり見下されたのだから無理もない。

「塔矢さ、囲碁部はもう辞めるんだって」

巴の言葉にヒカルはちっとも驚いていなかった。

「知ってる」
「え、知ってるの?」
「休憩時間に海王の大将達がアイツのこと話しててさぁ…塔矢がオレと打ちたくて囲碁部に入ったってのは巴から聞いてたけど…囲碁部であいつ虐められてたんだってさ。それでもオレと打ちたくて部を続けてたって言ってた」
《三将にだって頭を下げてなったんでしょうね。あの子なら当然大将でしょうから》

佐為がうらめしそうに言った。ヒカルのことをジトッと睨んでいる。

《塔矢のその熱意を汲んで、ヒカルは私に打ってもいいって言ってくれたのに…結局途中から自分で打っちゃって》
「最初は佐為が打っていたの?」
《そうです。ヒカルが途中で邪魔をしたんです…》

「でも、今日じゃなくたっていつかはこうなってただろうね。ヒカルはこれから佐為に頼らずやっていくんでしょう」
「んーそうだな。塔矢のさ…あの真剣な眼を、佐為じゃなくてオレに向けさせてえって思うけど…今のままじゃなあ」
「しっかりしなよヒカル。弱気になってる間に塔矢に差つけられるよ」
「わかってるよそんなの」

ヒカルはごろん、と寝転がり出した。佐為がそんなヒカルを呆れて見ている。

《ヒカル、行儀が悪いですよ、ヒカルったら!》
「……そうやってゴロゴロしてるうちに塔矢はプロになっちゃうよ…それに、私だって」
「はぁ?何言ってんだよ、塔矢がプロになるのなんてまだまだ先の話だろ!」
「なれるよプロは、子どもでも」

ヒカルはちっとも聞いてなかった。だらしなく寝そべっては「それよかたまにはゲームでもしようぜ」などと言っている。

「もうちょっと時間がかかるか…」

巴の小さな独り言はその場にいる二人には聞こえなかった。

▽▲▽

プロ試験の予選初日、棋院の玄関口で塔矢とバッタリ会った。向こうはやはり「信じられない」という顔をしている。

「おはよう塔矢」
「おはよう…本当に受けるの?」
「そう。信じてなかった?」
「そういうわけじゃないんだけど」

まだ何か言いたそうな塔矢には背を向けて、さっさと荷物を置きに行く。
予選は今日から5日間。1日につき一局、3勝した者から抜けて来月の本選に進むことができる。まずは3勝しないことにはお話にならない。きっと塔矢は楽々3勝で抜けていくんだろう。
時間が近づくと休憩所にいた数名が一斉に移動を始めた。巴もその流れに乗って、手合場へと入る。

「時間になりました。受験者のみなさんは座って」

棋院の職員の言葉で、受験生はみんな壁側に座った。

「では組み合わせの抽選を行いますので、呼ばれた人から出てきてください」




「……負けました」
「ありがとうございました」


自分より少し年下だろうか、院生の少年がペコリと頭を下げた。アキラもそれにならった後、すぐに碁石を片付けて戦績をつけにいった――――試験中は勝者が戦績をつけると決まっている。
自分のところに中押し勝ちの印を、対戦相手のところに黒星の印をそれぞれつけた後、アキラの眼は”高嶺”の字を追った。戦績は…まだついていない。対局中なのだろう。

彼女がプロ試験を受けると聞いた時は驚いた。まさか父親と同じ道を辿ろうとしているなんて。
塔矢の頭の中に、四年前に突然亡くなったプロ棋士の面影が思い浮かぶ。
あの葬儀以降、彼女は確かに自分に言ったのだ。

もう囲碁はやらない

あの時、塔矢は何も返せなかった。真っ黒い瞳は何も映っていないように、ポツリと呟いた少女。
父親が亡くなる少し前までは、同い年で自分と対等に打てる唯一の存在だった少女。
しかし、今どうしてか彼女は再びプロを目指している。

どうして高嶺さんはプロになりたいなんて思ったのだろう……進藤と、何か関係があるのだろうか。
進藤。彼の事を思うと胸がムカムカする――――必死で追いかけて追いかけて、やっと捕まえたと思ったのに。全力で挑んだ末路が、あんなにも惨めなものになるなんて。高嶺さんは何故、進藤なんかを追って葉瀬に?何故…彼を?

「ありがとうございました」

断続的に響く碁石の音、対局時計を押す音。さまざまな雑音が響く中で、アキラはたしかにその声を拾う。高嶺の声だ。
そして高嶺がゆっくりと立ち上がり、こちらへと歩んできた。勝ったのだ。
机に置かれている戦績表に判を押した彼女はアキラへと声をかける。

「おつかれ。勝った?」
「あ…うん」
「やっぱり、塔矢は強いもの」
「きみだって……本当はずっと囲碁を続けてたの?」
「そうじゃないよ」
「じゃあなんでまた急に、」
「また明日頑張ろうね」

それだけ言うと高嶺はすぐさま去って行った。引きとめようと伸ばした腕は何もつかめない…また逃げられた。どうして彼女はいつも有無を言わせず去ってしまうんだ。どうして彼女は。

「僕にはわからない…高嶺さんのことも、進藤のことも」

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