父は家では常に盤と向き合っている人だった。
部屋の扉の隙間からいつも父の後ろ姿を見ていたが、あの人が盤と向き合っていない日を見たことはなかった。
様子を覗く私に気づくと、手招きして私を迎え入れてくれた。

そうして教わった囲碁はずっと私の中で生きていた。
―――あの人がいなくなるまでは。

▽▲▽

「高嶺、一緒に帰ろうぜ!」
「なんだよ、今日は俺と帰るんだぜ!」
「そんな約束してないだろー!俺が先に声かけたんだから!」

学校が終わり、いざ帰宅、という時にクラスの男子たちによる内乱が始まった。

「今日は桃花ちゃんたちと帰るから」

面倒なことはさっさと回避と、巴はすたこらさっさと女子たちの輪へと入り帰路を辿って行った。

「田中は巴一筋だしさー、難しいと思うな」
「やっぱり?あ、でもさでもさ、最近は3組の塔矢君もかっこいいなって」
「塔矢って…ああ、よく一人でいる子?あの子って授業終わったらいつもすぐ帰るよね。なんか冷たくない?」
「そこがいいんじゃん、他の男子みたいにバカっぽくなくて!」

女子たちの会話は大概「最近の流行りは何か」、「気になる男子について」、「先生の悪口」の三つで占められている。所謂ガールズトークというやつだ。
しかし巴にはそういった会話にはあまり興味がなく聞き流すだけ。
ただ先ほど話題に上がっていた少年の名前は憶えがある。今は全く接点もないので、わざわざ会話の引き合いに出すこともないが。
しかし久しぶりに彼の名前を聞いたからか。まさか近々再び会うことになるとは思いもしなかった。



塔矢アキラという少年は、良くも悪くも囲碁にひたむきであった。

「放課後裏山に行こうって言ったの今日だっけ?誰が行くの?」
「丸山と小西とお前と俺じゃね?他にも誰か誘う?」
「あ、あそこにいるの塔矢だぜ…たまにはあいつ誘ってみる?」
「馬鹿。あのスカシが来るわけねーだろ」
「そりゃそーだ。じゃ、橋本誘おう!」

悪意の無い、けれど小さなトゲのある言葉を吐き散らしながら、少年二人は駆けて行く。一方、全ての過程を聞いていたアキラ本人はといえば、少年達の台詞を脳内で繰り返していた。
――あのスカシが来るわけねーだろ、そりゃそーだ。

「……行かないよ」

ポツリ、と呟いて視線を落とせば、汚れ一つない上靴が見えた。廊下で走ったこともなければ、同級生とふざけて踏み合ったことも無いアキラの上靴は、新品のようにピカピカだ。上靴だけではくランドセルだって、碁会所以外で放課後に寄り道をしないせいか、綺麗だ。

それでいいと思っていた。
自分は、それでいい。夕方裏山に行くなんて危険だし、家族も心配するし、何よりそういうことをする時間があるなら一局でも多く碁が打ちたい――――塔矢アキラはそんな少年だった。
碁を打つのは楽しい。もちろん苦しい時だってあるけれど、僕はプロになるのだから、そういうことも乗り越えなくてはいけない。同級生から素っ気ないと言われてなんとも思わないわけじゃ無いけれど、少なくとも、僕の中の優先順位は決まっているから。

「…あれ」

さぁ帰ろうと下駄箱を開けたところで、アキラは固まった。あるはずの靴がない。外靴がどこかへ消えてしまった――――というか、隠されてしまった。前にも一度だけこういうことがあった。あの時は結局、市川さんに車で迎えに来てもらったんだっけ。
嫌だなあ、と少し落ち込んだところで後ろから話しかけられた。

「靴、ないの?」
「えっ」

ぱっと振り返って、アキラはまた固まった。学校中の有名人、高嶺巴が背後に突っ立っていたからだ。
彼女はとても人気がある。人形のように綺麗な顔をして、勉強も運動もできて、人付き合いも上手で、いつだって大勢に囲まれている同級生。クラスの違うアキラは喋ったことすら無い、なんとなく遠い存在。
そんな二人は先ず接点すらなさそうだが、実はずっと前に彼女はアキラと同じ囲碁教室に通っていたこともあり、昔は囲碁教室でよく一緒に過ごしていた程に仲が良かった。
しかしある日を境に高嶺は囲碁教室をやめ、学校でもクラスが別々だったこともあり二人の仲は途絶えてしまっていたのだ。アキラも何度か声をかけてみようとした。それでも何も言えなかったのは、巴の雰囲気が少し変わってしまったのが大きかった。
感情の波がなくなり、人と喋るときも言葉は出ていてもどこか淡々としていて。まるで心を閉ざしてしまったようだった。
そんな彼女が自分に話しかけてきた。どうして?

「靴、無いんでしょ?」
「え?あ……うん」

突然の出来事に上手く繕う余裕がなくて、アキラは正直に頷いた。

「とりあえず、探そうか」
「え?」
「私、今日は時間あるから」
「でも」
「きっと見つかるよ。ほら行こう」

そう言うと高嶺はアキラの腕を引いた。本気なんだろうか。

「どうして……高嶺さん」
「だって、上靴で帰るのは嫌でしょ?私だったら恥ずかしいからさ」
「………いや、やっぱり、いいよ。僕、電話して迎えに来てもらうから」

探したところで見つかる保障なんてない。第一、やっと話しかけてくれた彼女にいきなり靴探しをお願いするなんて、男子として少し恥ずかしかった。

「…ねえ、本当に探さないの?」
「うん、大丈夫。前にもこういうのあったから」
「……」
「ありがとうね、高嶺さん」
「いや、私は何もできなかったし……あのさ、また何かあったら言ってね。私と塔矢は同級生だし、力にはなれると思うから」

“同級生”、彼女のその言葉にアキラは内心で驚いていた。
囲碁教室で一緒に過ごしていたとき、そんな言葉は使わなかったのに。

やっぱりあの子は前と違う。

ALICE+