体育館のスペースをめいいっぱい使って、地元住民があちこちで書道だの茶道だの、あらゆる日本文化を紹介してくれている。そのうちの二つを回ってスタンプを回収しなくてはいけない――――というのが、今日の道徳の授業。

生徒達は各々好き勝手に散らばって興味のあるところを探している。書道のスタンプをもらった塔矢アキラも、あともう一つをどこで貰おうかと一人で吟味していた。

「あ、高嶺さん」

数メートル先を一人で歩いていた女の子に気づいて、アキラはぴたっと足を止める。珍しいこともあるものだ、あの高嶺さんが単独でまわっているなんて。彼女はいつも大勢に囲まれているのに。

靴を隠されたあの一件以来、アキラは再び高嶺のことをそれとなく眼で追うようになっていた。玄関口で偶然姿を見かけた時や、廊下ですれ違った時、幾度となく彼女へ視線を向ける。しかし眼が合うことなんてない。高嶺はたいてい誰かと一緒にいるし、遠くからこっそり見る自分の存在になんてちっとも気づかないんだ。
あれから無事に靴が見つかったこと、目立った嫌がらせはないこと、色々と伝えてみたい気もするけれど、タイミングが掴めない。意識して見るようになってから改めて思ったのは、本当に高嶺さんって人気者だな、ということ。そんな感じで近寄れずにいた彼女が、何故かいまは一人。こんなこと、もう無いかもしれない。

―――話しかけたい。


「高嶺さ、」
「高嶺ーーー!一緒に茶道行こーぜ!!!」

思いきって近づいた瞬間、反対側から見慣れない少年がバタバタ走ってきた。なんというタイミング。
高嶺はアキラではなく、走ってきた少年の方に視線を向けてしまった。

「ごめん日高、私茶道はもう行ったの」
「マジかよ〜じゃあどこ行くの次」
「………あっちの、囲碁とかどうかな」

高嶺がぼそっと発した一言をアキラは聞き逃さなかった。囲碁!彼女はいま囲碁と言ったのか!

「えええ、囲碁〜?あんなん誰も行ってねえじゃん」
「まぁ…スタンプさっさと回収したいから」

その言葉にアキラはまたしても落胆した。彼女が再び囲碁に目覚めてくれたかと思ったのだが。
そうか、碁自体に興味があったんじゃなくて、空いてるから行きたかっただけなのか。
それでもアキラは期待したのだ。自分が大好きな碁を、彼女ももう一度好いてくれているのでは、と。

「塔矢」
「えっ」

アキラがはっと顔を上げた時、高嶺はこちらを向いていた。いつのまにか少年はいなくなっている。

「ごめん、さっき話しかけてくれたよね、何だった?」
「あ、いや……スタンプ、集められたかなって」
「まだ一個だけ。囲碁のとこでもう一個もらおうと思ってるよ。塔矢は?それとももう行った?」
「え、えっと僕もまだなんだ」
「じゃあ一緒に行こうよ」

ノータイムでOKを出すと、高嶺はさっさと囲碁コーナーへ向かった。アキラはびっくりしたようなほっとしたような、奇妙な心地で彼女に続いた。
囲碁コーナーは長机一つとパイプ椅子が四つのみと小規模だった。長机には碁盤が二つ置かれ、そのうちの一つは五目並べではあったが使用中だった。

「あ〜負けちゃった」
「さっきのやつな、此処をこうして、こうしてたらな」
「そっか、最初からそうしてればよかったんだ」

座っていたのはアキラのクラスメイトと中年のおじさんだった。クラスメイトはおじさんからスタンプを貰うと、ありがとうと言って去っていく。

「ちょうど盤が二つ空いたから、お座りよ」

優しそうなおばさんがアキラ達に気付いて話しかけてきた。

「いえ、僕は、」
「え、塔矢やらないの?」

あまりこういう場で目立ちたくない――――そう思って否定してみたが、確かに高嶺に同行を申し出ておいて何もしないのは間抜けである。
そもそもアキラは最初から囲碁コーナーに来る気は毛頭無かったのだ。囲碁は好きだが、力を誇示して威張り散らしたいわけではない。高嶺の件があったのでつい、来てしまったというだけで。

「…お願いします」

だが結局、アキラは言われた通りにパイプ椅子に座った。
まあいいや、このコーナーには人もいないし、そんなに悪目立ちすることは無いだろう。
アキラの相手は、さっきクラスメイトと五目並べをやっていたおじさんだった。隣に座る高嶺は、さっき話しかけてきたおばさんとだ。

「坊主、五目並べはわかるかい?」

ここまで完璧に初心者扱いをされるのは初めてかもしれない。碁会所で大人から「アキラ先生」と呼ばれる自分が、五目並べもできない少年だと思われている。別に怒ったりはしないけれど、なんとも妙な気分。

「その子、囲碁はよく知ってるから大丈夫ですよ」
「そうなのか!ほぉ〜若いのに関心だなぁ」

隣に座った高嶺が塔矢の方に顔も向けずに答えた。
この学校の生徒たちで唯一、塔矢のことを知っている彼女だからこそだった。

「偉いわねえ、その年でルール知ってるなんて」
「それじゃあ坊主、三石置きなさい」
「いえ…失礼ですが、置き石はなしでお願いできませんか」
「まあ、遠藤さん相手に置き石ナシなんて!
ボク、このおじさんは強いわよお?女の子の前で良いかっこしたいのは分かるけど、遠藤さんは手加減してくれないから、止めときなさい」
「え?いや、僕は」

じわじわと耳が熱くなるのがわかった。ちらっと高嶺を見てみれば―――やはりこちらを見ようとはしない。
塔矢の実力を十分知っている高嶺なら、塔矢が手加減なしで大人と打てることぐらいは知っているが、"女の子の前で良いかっこしたいのは分かるけど"、おばさんのこの言葉を彼女はどう思っただろう。そんなつもりじゃなかったのに。

「いいです、互先でやらせてください」
「よーし坊主、わかった相手してやる!」
「強気な子ねぇ…さ、お嬢ちゃんはどうする?私と五目並べする?」
「……はい、それでいいです」

高嶺は打とうとしなかった。囲碁のルールを知っている筈なのに。
―――天才と称されたほど強かったのに。

もう本当に打つことはないのだろうか。塔矢の記憶の片隅に、碁を打つ高嶺の姿が過った。

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