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火曜日、学校を休んでの第6戦。いつぞやのように玄関口で塔矢とバッタリ会った。

塔矢はわずかに口を開きかけるものの、無表情に見つめてくる彼女を見て、すぐにまた口を閉じて速足で控室に直行。呼び止める隙さえない。

「なんだ塔矢のヤツ?今日は落ち着きねーな…」

すれ違った少年が不信そうに塔矢の後ろ姿を見ている。この少年は確か…。

「えっと、和谷くん?」
「え?」
「おはよう。今日はよろしくね」

そうう、今日の対戦相手の和谷だ。巴より1つ年上の院生。巴が挨拶をすると、彼は落ち着き無さそうにソワソワし出した。

「あ、おう、よろしく…えーと」
「高嶺です。君の1つ下」
「え、年下?見えねえー」
「うん、よく言われる」

雑談をしながらそのまま一緒に控室へ向かう。喋っていて思ったけど、和谷はとてもフレンドリーな少年だった。対局前だというのにやたらと話が弾む。

「それで息抜きにネット碁やってんだ。けっこう勉強になるぜ」
「へえ、院生の人もやってるんだ。なんか意外かも」
「ここ最近は見かけないんだけど、スッゲー強いやつがいてさーsaiって言うんだけどソイツ、マジでプロ並みだぜ」
「……」
「?、どうかした?」
「ああいや、うん、saiね…」
「ここだけの話、塔矢アキラもsaiと対局したんだ…プロ試験初日、休んでただろアイツ?その日だよ。もー頭くるぜ!俺達にとって必死の一勝は、あいつにとってはネット碁より価値無いってわけだろ?」

和谷の話をげんなりと聞きながら、荷物を置いていざ対局場へ。一歩中へ足を踏み入れた瞬間、弾んでいた会話もピタッと止まる。この30人の中でたった3人だけが受かる試験――――プロへの入口。
絶対に負けられない戦い。でもそんな戦いを塔矢は放棄した…一敗くらいどうってことない。佐為との一戦の方がずっと大事だと思って、放棄した。和谷が腹を立ててしまうのも無理はないだろう。しかしそれくらい塔矢の力が飛び抜けていることも確か。でもそんな塔矢は自分の前では挙動不審だが。

馬鹿みたいだ。塔矢も、ヒカルも……そして自分も、馬鹿みたい。中学生相手になんであんな大人げないこと言ったんだろう。
塔矢は碁がズバ抜けて上手くて、大人の対応にも慣れていて、なにかと子どもらしくないが――――それでも彼は、子どもだ。12歳の男の子だ。女の子から「話しかけないで!」は堪えただろう。

そのうち謝らないと。

▽▲▽

新品の碁盤は、ヒカルの部屋のド真ん中に置かれた。

「部屋に碁盤があるってのも悪かないなァ、へへ」
《さっそく!さっそく!ヒカルさっそく!》
「わかったわかった」

佐為は早くも大興奮だ。全身全霊で喜ぶ幽霊を見ながら「もうわざわざ巴の家になんか行かなくていーんだよな」とヒカルは思う。
そうだよ、あんなやつのトコへなんか、もう…。

佐為は一般人には見えない。佐為の声は誰にも聞こえない。佐為が打った一局のことで周囲に勘違いされたり、色々と拗れて面倒事に巻き込まれたり、とにかく佐為と会ってからは変な苦労ばかりしている。そういうヒカルの諸々の気苦労をわかってくれるのは、巴だけだった。

伝説の棋士が今は幽霊となってヒカルに憑りついている。佐為が見えるのはヒカルと巴だけ。
佐為のことで相談できる相手がいるのは、ヒカルにとってとても幸運だった。親にも友達にも事情が話せない状況下、誰か一人でも自分を理解してくれているってのは心強い。それに巴はなにかと面倒見が良くて、宿題を手伝ってもらったりご飯を作ってもらったり泊めてもらったり…佐為のことを抜きにしても、ヒカルは世話になっている巴に懐いていた。
それだけにショックだったのだ、塔矢の言葉が。

―――――わかっているのか?…君が囲碁部で遊んでいる間に、僕たちはプロの門を叩こうとしている。こんなところで君に使っている時間なんか無いんだ。
―――――棋士の多くは十代でプロ入りしている。そんなことも知らなかったのか?
―――――彼女はこっち側の人間なんだ。君とは違う。

違う、巴は塔矢じゃなくてオレと同じなんだ。碁が好きな幽霊が見えて、それを知っているのはオレ達だけで、塔矢なんてなんにも知らないくせに。
……でも塔矢と巴がプロ試験を受けてるなんて、オレは知らなかった。確かに何回か巴がそんなこと言ってたけど、ずっと冗談だと思ってた。オレだけ知らない…またオレは仲間外れ。いっつもそうだ。塔矢は佐為を追いかけてる、オレじゃない。巴だってオレのことはきっと相手にしてない。オレだけいつも蚊帳の外。

プロなんて、もっとずっと先のことだと思ってた。そりゃいつか塔矢はプロ入りするんだとは分かってたけど、まさかこんなに早いなんて。碁をずっと続けてれば自然と近づいて行けると思ってたのに。それに、塔矢だけじゃない。まさか巴がプロを目指してるなんて…そんなの全然知らなかった。アイツがそんなに上を見ていたなんてちっとも…オレが巴を頼ってるみたいに、巴だってオレのこと頼ってると思ってた。それなのにオレに一言も相談せずにそんな大事なこと決めちゃうなんて!
なんだよ、巴はオレの味方だと思ってたのに…あいつなんてもう知らねえ!

碁盤と碁石が家にやってきてしばらくした夜、佐為が言った。

《ねえヒカル?もう巴の家には行かないのですか?》
「…行かねーよ、もうアイツのとこなんか」
《どうして?》
「だってもう盤も石もあるんだぜ。あいつの家には、碁を打つために行ってたようなもんだろ!もう行く必要なんかねーじゃん」
《もう、また意地を張って。巴に会いたくないんですか?》
「あ、会いたいわけ、ねーだろ!」

石をジャラジャラ片付けながらヒカルが怒鳴った。下の階から「うるさいわよヒカル!」と母の声が聞こえたような気がしたが、スルーする。

「あいつは塔矢と一緒になって、オレのこと馬鹿にしてたんだぜ!」
《そんなことありませんよ。試験の事なら巴は何度もヒカルに言ってたじゃないですか》
「ふんっ、真面目に話したことなんか無かっただろ。あいつはオレのことなんてどーでもいいんだよ、どーでも」
《どうでもいい?まさか…巴はヒカルにいつも良くしてくれてるじゃないですか。勉強も見てくれるし、ご飯も作ってくれるし、お父上の形見である碁盤まで貸してくれて》
「……」
《そこまでしてくれる人、なかなか居ないと思いますけど》
「…だァァー!うるせーぞ佐為!それ以上言ったらもうお前とは打たねーからな!!!」

佐為はあっさりと慌てた。碁が絡むとこいつはチョロイ。

《ええっそんなぁヒカル!待って!待って!》
「打ちたかったらもう巴の話すんなっ!」
《ヒカル……》
「……」
《でも、でもね?学校でいつも巴はヒカルのこと見てますよ?ちょっとくらいは話してあげたら…》
「うるせーぞ佐為!!」

「うるさいのはアンタよ、ヒカル!静かにしなさい!!」

ヒカルより先にヒカルの母親の雷が落ちた。暫くの間、少年と幽霊は押し黙った。

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