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「これで決まりだ、今のは上手く打てた」――――そう思って顔を上げた時、必ずと言っていいほど碁の幽霊は不敵に笑う。

そして今、対局相手の伊角が「これで決まりだ!」という一手を打ったところ。パチン。その音が響いた瞬間、周りで見守っていたギャラリーも「ああ終わったな」と一息つく。このままいけば黒の巴が5目半負け…碁盤はもう半分以上埋まっている。ここから逆転する手なんて、あるのだろうか。あるわけない――――そう、あるわけない、と思う。それでも佐為は軽々と形勢を変えてしまうのだ。絶対にこんなの挽回できるわけないと……そういう場面で、もう数えきれないくらい逆転されてきた。
だからこそ絶対にあきらめたくない。佐為ならきっと挽回できる―――佐為の碁は、父の目指した碁でもある。
だったら伊角とのこの一局も、勝たなくちゃ駄目だ。これで勝てば私のプロ入りが決まる……いや、違う、今はプロとか合格とかそんなことはいいから、対局に集中するのみ。

時間がじりじりと過ぎていく。
活路が見つけられない。どうすれば黒は逆転できる…私が伊角だったらどう考える……私が、佐為なら、…父だったら…どうする。

「――――!」

そこでぱっと視界が開ける。狭くて苦しそうだった碁盤がやけに広く見えてくる。どうして自分はこんな簡単なことに気づか無かったんだろう。黒の活きる道はここにあるじゃないか。

伊角が巴の狙いに気付いてぴたっと手を止めた。またじりじりと流れていく時間。大丈夫、自分は大丈夫――――生きていける、この盤上で。


「……っ、ありがとう、ございました」
「ありがとうございました」

終わってみれば3目半で巴の逆転勝ち。周囲で見守っていた院生達は気遣わしげに伊角を見つめていた。これに負けたことで彼は合格を逃し……巴は、手に入れた。プロの資格を。

「高嶺さん」

呼ばれてふっと横を向けば、塔矢がじっと巴のことを見ていた。
その視線が少し変わったような気がするのは、また自分の勘違いだろうか。

「良い一局だった」
――――――――良い碁でした、巴。

一瞬、塔矢が…父に見えた。

「ありがとう、塔矢」
「高嶺」

後ろから巴が私を呼んだ。彼はチラッと伊角を見て、ちょっと眉毛を下げた後、また巴に向き直った。

「……おめでとう」
「ありがとう」
「あのさ、さっき…その、」
「?……あ、ちょっと待ってね。先に戦績だけつけにいくから」
「お、おー」

和谷がやけに話しにくそうだったので、巴は白星をつけた後、気を利かせて場所を変えた。
二人きりになったところで和谷が言った。

「さっきの伊角さんとの一局、中盤のお前の一手……あれがさ、saiみたいっていうか…いやsaiなんだけど…
――…でも、高嶺本因坊にも見えたっていうか…」
「……え、」

予期しない言葉に、巴は放心する。
その名はよく知っていた。

「高嶺本因坊って知ってるだろ?数年前に亡くなっちゃったけど、saiってあの人の打ち方と似てんだよな。
オレはよくsaiの対局を観戦してたから分かるんだ。それでさ、お前の打ち方がそれっぽかった。
あれ、そういや高嶺ってお前と同じ苗字……って、え、お前、泣いてる?」
「な、ない、泣いてない」

間抜けな嘘をついた。巴の両目からはボロボロと滴がこぼれていた。突然の事態に和谷は大慌てだ。

「ちょ、え、イキナリどうして……ええっ?」
「高嶺さん!?」

そこへ今度は塔矢がやってきた。
巴の様子がおかしいことに気づいたのだろう。

「ぐず……すん」
「え、泣いて……!? 彼女に何をしたんだ!」
「なんもしてねーよ!!お前が出て来るとゴタつくからあっち行ってろ!!」

和谷がそう言うも、それに従う塔矢ではなかった。慌てる和谷とグズグズ泣く巴を交互に見て、怒ったように顔をムスッとさせている。

「彼女から離れてくれ」
「あのなー!人を悪者扱いしやがって…」

少年二人がワーワー言い合う傍ら、巴は父親の顔が浮かんだ。

今の自分を見たら、あの人は何て言ってくれるだろうか。
どんな言葉をかけてくれるだろうか。
もういない人を焦がれてもどうにもならないことは知っていた。それでも、巴は言いたかった。

―――お父さん、貴方と同じ道にきました。


いつの間にか涙は止まっていた。袖口で水分を拭き取って、嫌々少年二人に向き直る。

「だからっオレは何もしてねえって言ってんだろ!」
「そんなわけない。だったらどうして高嶺さんが泣いてるんだ」
「オレが知るかーーー!!」

(このまま見て見ぬふりして帰りたい)

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