高嶺巴の父親はプロの棋士だった。だった、というのは引退したわけでなく、単に此の世からいなくなってしまったからである。交通事故で撥ねられ、あえなく死んでしまったのだ。
父親はタイトルを取っていた程の実力者で、碁界の間では有名な人であり、将来を期待された棋士の突然の訃報に誰もが驚いていた。
葬儀では父の関係者である碁界のひとたちがたくさん来ていた。その中には塔矢アキラの父親、塔矢プロもいた。アキラも父親に連れられ葬儀に出席したが、母親の隣に座っていた巴はどこを見ているのか、焦点すら合わないほど茫然としており、父親が死んだという事実があの時はまだ整理できていなかったのだと、後になってアキラは思った。
そしてそれ以降、シングルマザーとなった母は出稼ぎに出るため家を空けることも増え、家を任された巴は碁会所をやめ、囲碁から離れていったのだ。
家を支えるためと彼女は言っていたそうだが、誰もがそれは真実ではないと思っていた。
囲碁を続ければ、否が応でも父親の影がちらつくのは目に見えている。プロ棋士の父親の才能を受け継ぎ、天才とすら言われ、父親と同じく将来を期待されていたが、少女がどれほど父親を慕っていたか知っている者たちは何も言えなかった。もう二度と囲碁に戻らないだろう、誰もがそう思っていた。しかし、

―――彼女にとって、その日は大きな機転となる出会いがあった。



夕食に使う醤油と、お味噌汁に使う豆腐が切れていたので買い出しに出ていた巴。
赤信号で足を止めていた彼女は、横断歩道を挟んだ道向かいに不思議な人が目に映った。

社会の教科書で見た、平安時代の貴族が着るような狩衣に頭には烏帽子を被っているその人は、女性のように長い髪と綺麗な顔をしていた。
現代には明らかに異質な井出たちに巴は目が離せなかった。
何故誰も注目しないのだろう。道行く人たちは見向きもしない。

信号が青になり、巴も群衆に流れるように歩き出した。
前方から平安装束の人が歩いてくる。一体彼は何なんだろう。巴はその異質な光景から目を離さなかった。
そして、――――目が合った。

平安装束の人はその一瞬のうちで驚いたかのような、目を見開いていた。

《ヒ、ヒカル!!今、私の妹が…!紫(むらさき)が!!》
「なんだよ急に大声出すなってっ」
《いいから追って!先ほどすれ違った黒髪の少女を追ってください!》

▽▲▽

公園を差し掛かった頃、後ろから誰かが駆けてくる足音が聞こえて巴は振り返った。
そして驚いた。例の不思議な平安装束の人がこちらに向かってきていたのだ。
その横には自分と同じくらいの少年も一緒にいる。先程は分からなかったが、どうやら少年を連れていたようだ。

「おーい!お前!ちょっと待ってくれよ!」
「…は?」

すると少年の方が巴に向かって大声で叫んできた。
何だというのだ。平安装束の人も、知らない少年も、こんな奇抜な組み合わせと関わったことなど今までないはず。

「…なに、私?」
「そう!そこのお前!」
《あぁっ、やはり紫とそっくりです!まるで生き写しのような…っ》

平安装束の人が何故か嬉しそうに瞳を潤ませている。
彼の知り合いと自分が似ているというのか、にしたっていくら似ているからと言ってこんなに慌てるだろうか。

「ねぇ、その人はキミの友達?どうしてそんな恰好をしているの?」
「え?…ま、まさかコイツが見えるの?!」
《私が見えるのですか!?》
「え、なにそれ…見えたらおかしいの?…まって、それってつまり…」
「うん、こいつ幽霊」
《ヒカル!指をささないで!》

ようやく合点がいった。こんなに目立つ格好をしていながら、あんな大群衆の中で誰一人として彼の方を見る者がいなかったことが。
何故自分には見えたのか謎だが、霊感など感じたことは今までないというのに。
信じる信じないの話は、もうここまできたら信じるしかないだろう。実際見えてしまっているのだから。

「……それで、その幽霊さんが私に何か用ですか?」
「あぁ、なんか佐為のやつがお前が、」
「さっきからお前、お前って……キミこそ誰なの。この幽霊さんの何?ていうかキミは普通の人間なの?」
「オレは進藤ヒカル!人間だよ!」
「…ふぅん。私は高嶺巴、お前って名前じゃないから」

進藤ヒカルという少年は見たところ、やんちゃで無鉄砲な小学生といったところだろう。
そしてそのヒカル曰く、その幽霊が巴の容姿を見て千年前に死別した妹とそっくりだったため思わず関係性を知りたくなってしまったらしい。

「そんなに似ているの?」
《はい。慈愛に満ちた、とても優しい子でした。…ですが、私の汚名のせいであの子にも苦労を背負わせてしまったことでしょう…》
「汚名?」
《私はかつて内裏で帝の囲碁の指南役を務めており―――》
「待って、なんだか話が長くなりそうだし。良かったらウチに寄っていってよ。晩御飯も準備しなきゃいけないからさ」

幽霊と少年。突然目の前に現れた彼ら。
偶然のようで、必然のように感じてしまったのはなぜだろうか。

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