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「なあ、お前、あの子に声かけろよ…」
「なんだよお前が行けよ。年下にビビリやがって」
「いくつくらいなんだろーな?オレ達よりちょい下くらいかな?」
「にしてもさっきはドキッとしたなあ。あんな綺麗な子がプロで入ってきてたなんて」
「早く手合いで当たりてーな」
「馬鹿、塔矢とあんだけやりあったんだぜ、お前なんかすぐ負けちまうよ」
「でもオレが勝ったらあの子また泣くかもよ?」
「なんだお前、泣いたとこ見てーのかよ趣味悪ィ」
「お前だってドキッとしたとか言ってたじゃねーか!」

男二人が好き勝手に高嶺巴のことを話している。そんな彼らをイライラしながら睨むのは、塔矢だ。

高嶺さん―――視線で追えば、いま進藤と帰って行くところ。呼び止めたい。でも、できない―――どうしてだ。
口実はいくらでもある。父の研究会の話とか、見せてもらうと約束した進藤の一局のこととか、先程の二回戦の事とか…さっきの、二回戦。思い出しただけで頭がごちゃごちゃになる。

近くにいたい人がいる。そう言って海王を辞めて、葉瀬へと行った。進藤がいる中学へ。高嶺さんは進藤を追っているわけじゃないと言うけれど、じゃあ誰のことを言っているんだ?僕が進藤の強さを目指したように、高嶺さんだって進藤に何か感じるものがあったから、彼を追うんじゃないか?
見てほしい。僕と進藤の一局を。僕がどこまで彼に通用するのかその眼で――――しかし囲碁大会で進藤の実力を目の当たりにして愕然とする。僕が必死で追いかけたのはこんな進藤じゃなかったんだ…。

高嶺さんは進藤のことをよく知っているはずなのに、僕にそれを教えようとしない。いつだって「今のヒカルは弱い」と、そんな謎めいた台詞ばかり吐く。”今の”進藤、なんて…君だって以前の進藤を、あの震えるほどに強い進藤を知っているくせに、僕には何も言わないんだ。かつての進藤を認めているからこそ、君は進藤を追うんだろう?倉田さんが言っていた君の「近くにいたい人」というのは進藤じゃないのか?僕が進藤がsaiなんじゃないかと疑った時も、君は進藤の傍にいた。いつも、進藤の、近くに…。

進藤がいる、高嶺さんがいる。
妙に意識して臨んだ若獅子戦は、進藤の一回戦敗退。高嶺さんの言う通り、進藤は強くない―――けれど見慣れぬあの石の並びは気になる。どんな一局だったのか、高嶺さんに勝てば教えてくれると言う。そして僕は彼女に勝った。すぐにでも進藤のことが知りたい。そう思った、そして、「ありがとうございました」とお辞儀したあとすぐに言おうと思った。「さあ約束を果たしてくれ」と。
……言おうと思っていたんだ。彼女の涙と、笑顔を見るまでは。

――――――ヒカル……ありがとう。

僕が見たのは進藤に美しむ微笑む高嶺さんの姿。その瞳には涙が光っていたけれど、花もほころぶ笑顔、とはまさにああいうのを言うんだ。あんな顔、僕は一度だって向けられたことがない。靴を隠された僕に「明日も学校に来てね」と言った時、海王の受験日に「また3年間よろしくね」と言った時、プロ試験の最中に「デートしよう」と言った時…いつだって高嶺さんは笑っていた。でも、進藤に向けたような、あんなに嬉しそうな顔―――あんなのは一度だって…。

高嶺さんのあの笑顔に周りのみんなほうっと呆けて、しばらくは言葉を忘れていた。そしてハッと気付いた時、彼女はもう碁石を片付けて進藤の横に並んでいた。呼び止めることが出来なかった。どうしてだろう、なぜ僕は。

「負けたからあの話はナシ!お前となんかどこも行かねーよバーカ!」
「いいよ、また次の機会に頼むから」
「はぁ?次なんてもうねーよ!」

高嶺さんが去っていく、進藤と一緒に遠ざかって行く。進藤の横で嬉しそうに笑っている。

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