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「塔矢が二段に昇格ーーー?!」

『週刊碁』を読みながらヒカルが唸っている。巴はキッチンで肉じゃがの味見だ。

「早ェーよ!くそーどんどん遠くなりやがって」
「でもヒカルも院生順位上がって来てるじゃんない」
「まーな。…巴だって塔矢に負けてんじゃねーぞ」
「わかってる」

6月には若獅子戦も優勝した塔矢は、破竹の勢いで二段へと昇進。
そしてゆっくりと時間が過ぎて、ヒカルのプロ試験の予選が始まった。
予選中は髭面の大人に惑わされたようだが、最終的に3勝2敗のギリギリ合格を決め、8月には本戦へ――――去年巴が通った道を、ヒカルがいま通過しようとしている……塔矢を追って。
そしてヒカルがヒカルで頑張っているように、巴も各タイトル戦の予選が始まっていた。

▽▲▽

その日は気になっていた詰碁集と洋服の雑誌などを買いに本屋を訪れていた。
帰る途中に少し喫茶店に寄って、軽く読んでいこうかと思ったのだが、ふと前方へと視線をやれば気になる光景が目に入った。

そこには地図のような紙切れを片手にキョロキョロしている少年が一人。あの少年の赤いキャップ帽、確か先ほど本屋に寄る前も見かけたような気がする。ずっとこの辺を彷徨っているんだろう。
さすがに知らない人にいきなり話しかけるのは気まずかったが、背丈からしても自分より年下の子だ。流石にこのまま放っておくのは気が引けた。

「…キミ、さっきもこの辺りにいたよね。もしかして迷子かな?」
「?」

巴の呼び声に、キャップ帽の男の子がくるっとこちらを振り返る――――瞬間、ビリリと稲妻のような衝撃が走った。だって、あんまりだ、そんなの……。

「………か、可愛い…」

少年相手に可愛いというのは大分失礼かもしれないが、今の巴には冷静な思考回路は存在しなかった。

「××××××?」

内心浮足立っている巴を他所に少年は訝しそうに睨み、聞き取れない言語を発した。どうやら日本人ではないようだ。
外国人だったことに少し驚いたが、ここで出会ったのも何かの運命かもしれないと思った巴はすかさず言葉を変えた。

「Are you in trouble?」
「!」

簡単な英語は問題ないのだろう、少年はぴくっと反応した。が、すぐにプイッとそっぽを向かれてしまう。しかしそれさえも巴の母性本能をくすぐってしまった。

「Shall I guide you?」
「……」
「Where do you want to go?」
「……」

無視されるかと思いきや、少年はスッと手書きの地図をこちらへ寄越してきた。ハングルの文字と、簡素な道筋。
この辺りなら案内できるだろう。

「Let's go together.」

柔らかく笑顔で言えば、帽子の少年は警戒心ばりばりの無表情で頷いた。


着いた先は文具屋だった。少年は日本の通貨についても不安そうだったので、会計までしっかり見守った。
ただし少年は終始”余計な事すんな!”という顔をしていたが、視線でチラチラッと”これで足りる?”とお金の確認をしてくるあたり、ツンデレだ。

「Your name?」

帰り道は大丈夫だとジェスチャーで示され、しょんぼりする巴に少年が言った。
途端、巴の瞳に光が差し込む。

「と、巴…!高嶺巴」
「高嶺?」
「Yes……you?」
「……洪秀英(ホン・スヨン)」

名前が聞けたと感動している巴の横を、ホン君はすたすたーっと通り過ぎていく。巴としてはもう少しお喋りしたくて呼び止めようかと思ったが、不審者と思われたら困るので、止めておく。

―――ああ……やっぱり連絡先聞いとけばよかった…ッ



この衝撃的な出会いの翌日、ヒカルが家にやってきた。ここ数日は別行動が続いていたし、学校も夏休みに入っていたしで、会うのは4日ぶり。
ヒカルはここのところ和谷や伊角に引っ付いて都内の碁介所を回っているらしい。そんなヒカルの碁会所トークを聞いていた巴は、ふと思った。

「来週は私もくっついて行こうかな。仕事もないし」
「え、巴も?」
「そう。いいでしょう別に?碁会所なんてもう長いこと行ってないもん」
「フーン…ま、いいけど。でも団体戦のメンバーはオレ達だぜ!」
「はいはい」

こうしてヒカルの碁会所巡礼にくっついて行くことが決まった。そしてそれは、彼女にとってとても良い選択だった。

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