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「よぉし!今日はオレが先頭だ!」
意気揚々とヒカルが碁会所へ飛び込んでいった。看板がハングル表記の碁会所――そこから巴が連想するのはホン君のこと。あの子は日本には旅行に来てたのだろうかと。あれから一週間経ったし、もう韓国に帰っちゃっただろう、など。
「なにぼーっとしてんだ?早くいこーぜ」
「うん…」
入り口ではヒカルが棒立ちになっていた。さっきまでの勢いはどこに――――と、周りを見渡したところで気付く。看板からして「もしかして」とは思っていたが。
「……伊角さん」
「うん、お客さんの多くはアレ日本人じゃないな」
和谷と伊角は隣で相談中。入口でもたつくヒカルたちに「突っ立ってないでどうぞ」マスターが気さくに話しかけてくれた。ヒカルは緊張した声で「はっはい」と返事。
その時だった、碁会所のドアがキィっと開いたのは。
「!」
「……!」
いましがた入ってきた人物に気付いて巴が息を呑む。向こうもすぐ彼女に気付いた。ぎょっと眼を見開いている。
「ホ、…ホン君…!!」
巴の突然の声にヒカル達がびくっとした。勿論、ホン君の方も。
「あ……ごめんなさい」
碁会所のマスターは不思議そうに首をかしげていた。
「君、スヨンの知り合い?」
「あの、先週この子の道案内をして、それで…」
「ああそうだったのか」
マスターが納得したような相槌をくれる横で、ヒカルは不満そうにホン君を指差している。
「巴、知り合いなのかよ?コイツさっきさぁー」
「×××××?」
何か文句を言いかけたヒカルを見て、マスターが韓国語でホン君に質問した。ホン君はヒカルを嫌そうに見ながら韓国語で返答している。巴の知らない間、二人の間で何かあったのだろうか。
「あの子が何か?」
「い……いいえ」
ヒカルはわけを話したがらなかった。頑固なヒカルが何も言わずに黙るってことは、おそらく一人で早とちりか勘違いかしていたんだろう。
マスターとホン君が何か話しているが、巴たちには全く分からない。
ヒカルたちが首を傾げていると、マスターが気を使ってホン君の紹介をしてくれた。
「彼は洪秀英、年は12歳。私の甥っ子でちょっと日本に遊びに来てるんだ。キミ達、スヨンにちょっと打ってもらうといい」
「えっオレより2つも年下なのに!」
ヒカルがいらんことを言った。しかしマスターは気を悪くした様子もない。
「彼は韓国でプロを目指してるんだよ」
「えっ韓国で!?じゃあ韓国棋院の院生!?」
「お、俺達も院生なんです!…あ、いや、彼女は違うけど」
和谷と伊角が嬉しそうに喰い付いた。一方、日本の院生の登場にマスターはとてもびっくりしている。
「院生!?韓国では研究生というが―――君たちも?本当?」
「××××?」
「×××××××××××××××××××」
不思議そうにしているホン君にマスターが状況を説明している。ヒカルと和谷と伊角を指差して、どうのこうの。その間にヒカルが「韓国にもプロってあるんだ」とまた失言を始めた。そんなヒカルの失言に日本語のわかるお客さんが怒りを露わにし出した。
「××××××××××××!?」
ヒカルのバカ発言にホン君は大激怒。すごい顔でヒカルのことを睨んでいる。
「な、なんだ?」
「進藤が韓国のこと無知だから怒ってんだよ」
「と、特別なヤツなんだコイツって」
和谷と伊角のフォローもむなしく、その後もヒカルは韓国勢を煽るばかりだった。そのうちにヒカルもイライラし始めて、ホン君とヒカルによる言語の壁を越えた言い合いが始まる。
「彼はこう言っている。”韓国の研究生は君たち日本の院生のようにヌルくない”」
「ヌルいかどうか打ってみろよ!」
「×××××××」
「…君より私と打った方が勉強になるそうだ。ハハ」
「打ってもみないで言うなよな!」
「×××××××」
「なんだよ何言ってるかわかんねーよ!」
「お前が言ってることもわかんねーよ、進藤っ」
和谷の的確すぎる突っ込みが入ったが、ヒカルは止まらない。
「そんなにオレに負けるのがコワイのかよっ」
「おい、そこまで言うのか……ホン、×××××××××」
「ハハッ」
おじさんの通訳でホン君が笑った。その直後、碁盤に置石を2つ並べて、赤いキャップ帽を脱いで指先でくるくると回し始める。余裕たっぷり、という感じだ。
「××××××××××」
「指導碁なら打ってやろうってさ」
そこでヒカルも激怒。ホン君の帽子をばばっと手で払い、椅子に座って「ニギレよ!」と互先を申し込んだ。ホン君は不満そうにニギった。そのうち周囲がガヤガヤしてきて、お客さんが「なんだなんだ?」といった感じで集まってくる。
「あのー洪君は研修生の中でどのへんのクラスなんですか?」
巴が”嗚呼、でもホン君も碁打ちだなんて、運命的な何かを感じる”と喜ぶ傍らで、伊角がマスターへ質問した。
「韓国は1組から10組まであってね、1クラスが10名。毎月下位4人が下の組に落ち、上位4人が上に上がる。その中でスヨンは順当に上がって来たよ。いずれはプロの道を歩むとまわりの皆が思っている」
「……優秀なんですね、彼は」
「だが…つまずいてしまってね」
「え?」
「初めてクラスが下がったんだ。それだけでスヨンは腐ってしまったらしい。そして次の月もまたひとつクラスを下げた。今月あったプロ試験も…まァ予想通りというか落ちてね。これはちょっと息抜きさせた方が良いと、スヨンの父が私の所によこしてきたんだよ……君たちのクラスは?」
「2クラスあって僕達は1組の上位です」
「ほお」
「レベルが違う!」
さっきまで通訳係をしてくれていたオジサンがずいずいっと会話に入ってきた。
「韓国は棋士を目指す子が日本よりずっと多い。その強さは日本とは比較になりませんよ」
確かに近年は日韓交流戦でも、日本は良い成績を残していない。
「××××××××××」
対局中、ふいにホン君が何かを言った。すぐに通訳おじさんが内容を教えてくれる。
「もし自分が君に負けたら君の名前を憶えてやると言ってる」
「……ああ、覚えてもらおうじゃねーか」
それを聞いてヒカルはさらにやる気を上げる。
二人の少年の間で飛び散る火花。接戦している碁――――とても良い勝負だ。喧嘩腰で始まった時はどうなるかとも思ったけど、二人とも伸び伸びと打っている。
そのとき、ヒカルが悪手―――と思われる一手を放った。
それにしてもヒカルは本当に強くなった。若獅子戦の時もそうだった。これは悪手だろう、という手を打ったと思ったら、見事それを好手へと化けさせたのだ―――今みたいに。
和谷がまずヒカルの狙いに気付く。続いて伊角も。
「×××××××××!?」
外野の韓国勢がわいわい騒いでいるが、その間も勝負は進んでいく。
整地をして、周りの者ははっと息を呑む―――ヒカルの一目半勝ちだった。勝敗が分かった途端、ギャラリーがわっと湧く。日本語、韓国語、各々が好き勝手に発言している。悪態なんかじゃなくて、ヒカルやホン君の健闘をたたえているだけだってことは雰囲気で伝わってきた。
ホン君は―――泣いていた。
「スヨン!」
マスターの呼びかけにも応じない。いや、応じる余裕がない。それくらいボロ泣きしていた。そしてボロボロ泣きながら、キッとヒカルを睨んだ。
「××××!!」
「!?」
「×××! Your name!!」
「あ、……進藤ヒカル。オレの名前は、進藤、ヒカル!」
「……進藤、ヒカル」
涙を流しながらホン君がオウム返しする。悔しくてたまらないのにヒカルの名前を聞くあたり律儀だ。
ずっと泣き続けるホン君を、叔父のマスターが優しく見つめていた。
「調子よく上に上がってきた彼はクラス落ちがショックだった。その惨めさから目を逸らしたかった。そして悔しさと向き合うことからも逃げた。だがもう大丈夫、明日は韓国に帰るがスヨンはまだまだ伸びるでしょう」
「えっ、ホン君あした韓国に帰っちゃうの…!?」
これに驚いたのは巴だ。明日帰国、せっかく運命的な再会を果たしたのに。
先週はしつこくして不審者と思われるのが嫌で引き下がっていたが、こうして碁繋がりでまた会えたからには、今度こそと。
「ほ、ほ、ホン君…!」
引き続き泣いているホン君の肩を掴む。
「私とも打ってください…っ」
「??」
「彼女も君と打ちたいそうだ」
通訳おじさんがご親切に通訳してくれた。
そして巴の要望を聞いたホン君は「えっ」という顔。涙はいつの間にか引っ込んでいる。
「×××××」
「…君はそこの3人と違って院生じゃないんだろう?と彼は言ってるよ」
「院生?ち、違うよ…私はプロです…っ、まだ初段だけど」
「えええっ、君プロなの!?…××××××」
「××!?」
ホン君が驚いたようすで椅子から飛び上がった。
「私と打って、ホン君。それで私が勝ったら…その、連絡先…教えてください…!あ、あと写真も一緒に撮りたい…っ」
「×××××××××(対局で勝ったら連絡先を教えてほしいってさ、あと写真も)」
「×××××××××(アハハ、モテモテじゃないかスヨン)」
「!?」
ホン君は本日何度目かも分からない驚きを見せていた。