「……負けました」

約1時間の攻防の末、終局。
巴が自身の負けを宣言したのだ。

「すっげー、巴お前普通に佐為と打てるんだな」
「全然普通じゃないよ。佐為の実力が凄すぎて、殆ど手が出なかったから」
《ですが、巴。貴女の力もその歳にして素晴らしいものでした。碁はどれほど打ってきたのですか?》
「………七歳ぐらいまで、ちょっとね」
「最近はやってなかったのか?」

ヒカルの言葉に、巴は碁を片付ける手を止めた。
それは今まで誰も触れようとしなかった、彼女の過去。

「私の父親、プロの棋士やってたの」
「プロって…、スゲーじゃん!なんだそんなスゲー人が身近にいるんなら、いつでも練習できるな」

「無理よ。とっくに死んでるから」

途端、部屋に静寂が訪る。先程まで楽しそうに喋っていたヒカルも、話を聞いていた佐為も、開けてはいけないものを開けてしまったと、顔を曇らせた。

「私が一年生のとき交通事故でね。別に気にしないで。もう大分前のことだから、気を遣われてもね」
「えっと…じゃあ、もしかしてこの碁盤って、」
「あぁ、父親の使ってた碁盤。ちなみにこの部屋も」
「そんな大切なもの…」
「いいよ、碁盤だって使わなかったら意味ないじゃない」
《お父上の部屋だったのですね。それでこんなに棋譜や本がたくさん…》
「事故以来殆どそのままだから。埃は被らないようそれなりに掃除はしてるけど。
うちはお母さんが一生懸命働きに出てくれるからね。家のことは私が全部やるって決めてるの。だから碁はやめた」

父親の死を淡々と述べ、母親を支えるためにあっさりと碁をやめたという少女。
しかし、佐為は少女の本心が少しだけ分かったような気がした。
最初碁盤を出してきたとき、まったく埃を被っていなかった。本当に使っていなかったとしても、これほど綺麗に保存できるだろうか。部屋の中も、まるで今もこの部屋の住人が使っているかのように管理されていた。
きっと本当は―――

「でも、今日久々に打ててよかった」
《巴?》
「佐為の打ち方……お父さんに似てたから」

巴が今までの無表情とは違い、柔らかい笑みをこぼしていた。
嬉しそうに言う様子から、かつて父親と打っていた昔のときを思い出したのだろう。

《私が…ですか?》
「うん。というか秀策かな…あの人、本因坊秀策に憧れてたから秀策の棋譜ばっかり研究してたの。
それで打ち方も昔の定石を現代風にさせてたって、誰かが言ってた」
「佐為は秀策だぜ」
「………はい?」

ヒカルの突拍子もない言葉に巴の思考はフリーズする。
佐為は秀策と言われても、彼は千年前に生きていた人間で、江戸時代に活躍した碁打ちとはまた別ではないのか。

「こいつ、オレの前は本因坊秀策に憑りついて打ってたんだって。だから秀策は佐為自身でもあるんだよ」
「な、なにそれ…じゃあ本因坊秀策って佐為だったの?」
《嗚呼、虎次郎!貴方も立派な碁打ちであったのに、私は自分の我を通し続けてしまった。わかっていても止められなかった私をどうか許してくださいっ…》

何故か一人世界に入っていってしまった佐為。
彼を放って巴はヒカルに話を振った。

「ヒカルは碁の勉強とかしてないの?」
「佐為がうるせーから近所の囲碁教室に通い始めたんだけど、全然何言ってんのかわかんねーの」
「碁はルール覚えるのが鬼門だから、仕方ないよ」
「しかも爺さん婆ちゃんばっかだし」
「私が通ってたところは子供の囲碁教室だったけど、大人ばかりのところもあるからね」

二人の傍らで佐為は部屋に貼ってある棋譜を見て楽しそうにはしゃいでいた。
千年前の麗人の割に、意外と彼も言動は子供らしいところもあるようだ。そんな様子の佐為を見て、巴はあることを提案してみた。

「二人とも、良かったらまたウチにくれば?」
《いいんですか!?》
「お前んちの親はいいのかよ」
「お母さんは今、海外だから」
「か、海外!?じゃあ、巴いま家に一人でいんのか!?」
「別にそんなに驚くことないでしょ。お母さん、優秀な弁護士で海外でも引っ張りだこなんだって。だからいつ来てくれても構わないし」
《やったやった!碁盤のある巴の家なら何時でも碁が打てますね!》
「うげーオレ、そんなに囲碁ばっかやってたくねーよ」
《そんなぁああ…》
「いいじゃない。囲碁教室もいいけど、こんなに最高の碁打ちに打ってもらえるなんて早々ないよ。それに……
――今日、数年ぶりにお父さんも見れたから」

かつてこの部屋で一緒に碁をした父親。
もう一生会うことはないと思っていたのに、碁をやっていたら見えない影を追うような気がしていたのに、こんな形で会えるなんて思ってもみなかった。

ヒカルは巴の言葉がまだよく分からないといった様子だったが、佐為だけはその意味に気づいていた。
過去と今を繋いでいくことの意味が。

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