三十七

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 「ありがとう......うれし、かった」

 まるで言い慣れてない言葉でも使ったかのように、赤い髪の少年は呟いた。
 その言葉は一体何に対してなのか。トモエにはわかりようもなかったが、それでもにっこりと無邪気に笑った。

 「もう一度きくよ?私はトモエっていうの。キミは?」

 すると少年は涙を拭い、少々恥ずかしそうに俯きながら、小さな声で応えた。

 「......我、羅」
 「がら?」
 「我愛羅。ガアラって、いうんだ」

 少年、我愛羅はまたぎこちなく口元に弧を描く。対してトモエは、我愛羅、我愛羅、と口の中で繰り返し、うん、覚えた、といってまた笑った。

 しかし、そんな時間は数分と保たなかった。
トモエと我愛羅の耳に、大きくトモエの名を呼ぶ声が届き、二人ともぴくりと反応していた。

 「あ、お父さんの声......」

 トモエは呟く。一方で我愛羅は、眉根を寄せ、きゅっと口元を窄めていた。子供の名を呼ぶ声がどういう合図であるか、我愛羅は知っていた。

 「ごめん、我愛羅くん。私、帰らないと......」
 「......うん」

 一言ぽつりと零す少年。俯く彼の顔が見えず、トモエは慌てて「ご、ごめんね、遊ぼうって思ってたんだけど」と言う。気遣いに気づいたのだろう。やにわに顔を上げた我愛羅は、「うん、でも、」と初めて強く言った。

 「また会えるなら、それでいい」

 それから、力強い目。トモエは目を丸めてその様子を見ていた。
 そのうちほんの少し目線を落としたが、「うん......きっと」と小さく呟いて、また我愛羅に笑いかける。

 「きっとまた来るよ。今度は、遊ぼうね」

そうして、二人は別れたのだった。

 ***

 残りの雨忍二人を捕らえようとしていた砂が今、止まった。
 そこにいる全ての者たちの目が驚きに見開かれる。全ての者たち───トモエと我愛羅を除いて。

 我愛羅と雨忍の間に、トモエが立ちはだかったのである。獲物を見失ったかのように砂はぴたりと動きを止めた。トモエと我愛羅の視線が、この場で初めて交差した。

 「お願い......もうやめて、我愛羅くん」

 トモエの口から嘆願のような声が零れる。トモエは両手を広げて雨忍達を守っていた。ついさっきは殺されかけたことも、今は関係ない。かたくなにトモエの目を見ようとしなかった我愛羅が、今は視線でトモエを突き刺していた。

 「なんのつもりだ」
 「さっきは助けてくれてありがとう。でも、もうやめてほしい…」
 「助けたわけじゃない。さっさとそこを退け......」
 「いいえ、退きません」
 「退け」
 「絶対に、嫌…!」

 周りの者は二人を見ているしかない。「ひぇえっ!」と情けない声をあげて逃げていった雨忍二人のことなど、もう誰も気に留めなかった。
 我愛羅の殺気は先ほどより小さくなったとはいえ、完全には消えていない。止まっている砂が今にも動き出しそうだ。ひたすら冷然とした態度でいる我愛羅と、真剣な表情のトモエ。我愛羅をよく知っているテマリとカンクロウからしたら、トモエのその行為は自殺行為でしかない。

 案の定。


 「殺すぞ」


 しかし、トモエは動じなかった。


 「殺して、いいよ」


 その言葉にさすがの我愛羅も目を丸める。テマリとカンクロウも同じく。
 しかし、砂は動きを見せなかった。それどころか力を失い、雨忍達を襲おうとしたときのまま固まっていた砂は全て崩れた。トモエはじっと原形のなくなった砂を見つめた。

 「......殺せるなら、どうして助けてくれたんですか?やっぱり、昔の我愛羅くんは消えてない......あの頃、私と一緒に笑ってくれた我愛羅くん、そのまま」

 小さな呟き。しかし聞き取ってしまった我愛羅に、小さな頭痛が訪れた。片手で頭を抑える我愛羅。その脳内に十余年前の記憶が流れ込んでくる。

 『どう見たってキミは、私とおんなじ人間にしか見えないんだけど......』

 それは今の我愛羅にしてみれば忌々しい記憶だった。幼い頃の儚い感情が今の我愛羅ではとても受け止められなかった。

 あれからトモエが姿を現すことなど、一度もなかったのだから。

 約束なんてものをしておきながら。それを哀しいと思ってしまったことさえ、もう耐えられないものだった。そうして次第に忘れていった。あの温かさを、忘れたかった。最終的に、嘘の愛情を注いでいた叔父の死と共に、全てを忘れ去った.....はず、だった。
 なのに。今、我愛羅の脳内に甦ってくる映像は、実に鮮明だった。

 「何故......何故、また、現れた......!」

 頭痛のせいか、それともほかの何かのせいか、我愛羅の声は苦痛が滲み出ている。

 「何を、今更!」
 「!」
 「忘れていた記憶を、何故今更、思い出させようとする......!」

 「(今更...)」と心中で唱えたトモエは俯く。確かにそうだ。
 
 「ごめんなさい......謝ることしかできないけど、本当に、ごめんなさい」
 「やめろ、謝るな!」
 「待ってて、くれたんでしょ?」
 「待ってなど、いなかった!お前のことなんて、忘れていた!!」

 我愛羅は自分の両耳を塞ぐ。その脳に過っていく言葉は全てが否定だった。
 今の我愛羅ではそれだけしかできなかった。人を殺すことで自分の存在を認識するようになったのだ。それは、既に、トモエに言われた"人間"ではないのだと、我愛羅ははっきりと自覚していた。人間ではないのだ。人間のような、感情はないのだから。
 寂しさも苦しさも、孤独を感じる心も、全て、自ら捨てたのだから。

 途端に我愛羅に一層強い頭痛が襲う。

 「ぐ......っう、ああ!!」

 尋常でない様子にテマリもカンクロウも、トモエも、動揺を示した。頭を抱え込んでいる我愛羅の苦痛の声は尚も響いている。「が、我愛羅!」とテマリが焦ったように言う。しかし何を恐れているのか、我愛羅に近づくことを戸惑う。
 代わりに地を蹴る足音が、我愛羅の前方からする。
 
 「我愛羅くん!?」

 トモエが、近寄ってくる。我愛羅の頭にトモエの声が響く。駆け寄ってくるトモエの足音が更に痛みを増幅させた。

 「(来るな......来るな!)」


 "オレは修羅の道を選んだ!!"


 トモエは、止まった。
 他でもない我愛羅の手が、トモエに向けられていたのである。
 近寄るな、と命令するかのように。鋭い我愛羅の目がトモエを突き刺す。恐怖を覚えてしまいそうな程の視線だった。トモエは息を飲んでいた。

 「......行くぞ......テマリ、カンクロウ」

 冷静さを取り戻したのか、頭痛も止まった我愛羅は姿を翻した。いつかと同じように我愛羅は瞬身で消える。兄妹達はまた戸惑ったが、トモエに一瞥だけくれると、我愛羅を追った。

 残ったのは、トモエだけ。

 トモエは黙って、さっき駆け寄ろうとした時に上げた手を見た。初めて我愛羅に会った時より成長したこの手は、今の我愛羅に届かなかった。

 目を閉じ、手の平を拳にし、自らの額に当てる。否、当てるどころか押し付けるように力を込めた。歯を食いしばってもいるその姿は、まるで何かを悔いているようだった。何かを......下手な約束をしてしまった自身を。そして、手を伸ばせば届く距離だったというのに、後一歩のところで止まってしまった自身を。我愛羅の睨むような視線を恐いと思ってしまった、自身を。

 「(......もう、恐怖しない)」

 トモエはすっと目を開けた。他の誰でもない、我愛羅を人間だと言ったのは自分なのだ。幼い我愛羅のあの嬉しそうな笑顔を憶えている。彼は、人間だと言われたかったのだ。
理由は知らない。けれど、確かにそうだった。なのに、何故そう言った張本人が恐れて良いのか。


 ガサっ____!

 その時、トモエがようやく物音に気づきハッとした頃には、誰かに背中から抱きしめられていた。

 「えっ?」

 「良かっ、た......!」

 思わず漏れたトモエの声に、吐息のような声が返ってくる。
 聞き覚えのある声、そして、その温度も。

 「ヒナタさん?」

 トモエが肩越しに振り返ると、トモエの背中に頭を当てていた彼女・ヒナタは、涙の滲んだ瞳で顔を上げていた。それにトモエが僅かに動揺すると同時に、更に別の声が耳に届く。

 「焦らせんなよトモエお前......何もなかったからよかったものの」
 「ワンッ!」
 「キバ。赤丸、シノも」
 「ヒナタ、落ち着け。無事は確認できただろう」

 振り向けば、なんのことはない、同じ同期チーム八班が揃っていたことに、トモエは呆気にとられた。そして、「う、うん」と後ろから声が聴こえ、温もりが離れる。
 トモエが振り向けば、ヒナタは涙を拭きながら「ごめんね、急に」と顔を伏せた。すぐさまトモエは勢いよく首を横に振る。

 「いいえ。こちらこそ、心配をおかけしたようで。皆さん、いつからいたんです?」
 「ちょうどお前がピンチに陥り、砂の忍に助けられたところあたりだ」
 「あの赤い髪のヤツがいなかったら、オレたちは到着直後にショッキングな場面を見るとこだったんだぜ?勘弁してくれよったく」

 一応自分で助かる方法も持ち合わせていたわけだが、空気を読んでその事は口にしなかった。

 「それよりお前、サスケとか他のヤツらはどうしたんだ?まさかやられたワケじゃねーだろ」

 この場所での"やられた"のイコールの意味を考えると、キバのセリフにデリカシーなんてあったものではないが、トモエは笑顔と共に「もちろん」と答えるしかなかった。シノが呆れた目線を送っていたが。

 「色々あって、はぐれてしまい…そうでした、私行かないと…」

 次から次へ色々なことが起こり、重大なことから離れていた頭がようやく戻ってきた。
 見れば、いつの間にか空は薄暗くなり始めている。気付かないうちに時間が過ぎてしまった。三人の無事な姿を確認できなければ、ここで呑気に談笑している暇はない。

 「......トモエちゃん?」
 「体力も回復してきましたし、私はもう行きます。わざわざありがとうございました、四人とも」
 「くぅん?」
 「いや、けどよ。一人行動は危険だぜ」
 「今お前とオレたちは敵ではあるが、同期として見捨てることはできない。それに夜は危険だ。せめて朝になるまではオレたちといたほうが安全だぞ」
 「ありがとうございます、でも、チーム戦で私一人だけ逃げてるわけにはいきませんから…」

 そう言ったトモエの顔が思いのほか深刻であることに気付いたのだろう。更に抗議しようとしたキバも、思わず縋って引き止めようとしたヒナタも、知らず知らず口を噤んでいた。「だが、ナルトたちの場所もわからないだろう?」とシノが冷静に言うが、それもトモエは「大丈夫」と笑って避ける。
 そして八班の意見に聞く耳も持たず、トモエはさっさと行動に移していた。

 口寄せ。

 印を組んだ後、煙が噴き出る音と共に、美しい白銀の毛並みを持った狼が現れた。

 「......お前、それ…」
 「銀狼ぎんろう、力を貸してください」

 トモエの言いたいことを全て理解しているかのように、銀狼は静かにその背に彼女を乗せた。
 暫く見慣れない生物に目をとられていた三人と一匹は、ようやく我に返ったようだ。

 「ならもう止めねえけどよ......」
 「だが油断大敵だぞ」
 「気をつけてね、トモエちゃん......」
 「ありがとうございます。皆さんも気をつけて、今度は中央の塔で会いましょう」

 トモエがそう言うや否や、銀狼は駆けだした。そのトモエの背中に、ヒナタがもう一度、気をつけて、と声をかける。振り向いたトモエは頷いた───そして、一気に視界が上がっていった。

 日が暮れていく。星も見えない、漆黒の夜。
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