2
青年の名前は、チョン・ジョングク。都心に住む普通の大学生。訳あって家出をし、行く当てもなく電車に乗ったはいいが、途中で財布をスラられていたことに気付き、残った雀の飯程度の賃金で降りた街がこの街だったらしい。
そうして途方に暮れながら歩いていたところを不良に絡まれ、“彼女”に助けられた。
とはいえ、彼女――ハル本人は人助けをした自覚はない。彼女はただおつかいの帰り途中で、ジョングクに群がる不良たちが通行の邪魔だっただけなのだから。自分の目的を邪魔する者は何者であろうと排除する、それだけが彼女の原動力だ。
あの時の衝撃をジョングクは一生忘れないだろう。
眉一つ動かさず、一言も声を漏らさず、圧倒的な力で地面にねじ伏せる彼女の姿に。
気付いたときには男たちは皆、うめき声をあげながら倒れていた。
この少女は一体何者なんだ。自分より大きな体格の男たちをいとも簡単に倒すなんて、普通じゃありえない。
ジョングクが目の前の光景を必死で整理しようとしている間、彼女はコンクリートの上に落ちてしまったレジ袋を拾い上げて、座り込んでいる自分の横を静かに通り過ぎて行ったのだ。
ハッと思考を取り戻したジョングクが慌てて彼女の後を追い、先ほどのお礼と、落ちてしまったレジ袋の中身を心配して声をかけるが、彼女は全くと言ってもいいほど何の反応も示さなかった。
何度感謝と謝罪を述べても、うんともすんとも言わない。もしかして耳が聞こえないのかという考えも浮かんだが、顔を覗き込んでも自分の方に視線すら動かさない様子から、難聴というだけの話でもなさそうだった。
しかし声をかけてしまった手前、このまま突っぱねて帰るのも気が引けてしまい、
そもそも男が女の子に助けてもらったのに何もせず帰るなんて、流石に自分のなかの男としてのプライドが許さなかった。
何とかしてこの恩を返せないかと頭を抱えているうちに、冒頭の通り、彼女の後をつくようにしてこの店に辿り着いたのである。
「なるほどねぇ。あ、これサービス。ただのコーヒーだから安心して」
「…すみません、ありがとうございます」
話をしているうちカウンターの椅子に促されたジョングクは、例の常連客の隣でマスター――キム・ソクジンと向かい合っていた。隣に座る常連客―――ミン・ユンギのこちらを伺うような視線が妙に痛く感じたが。
YG「で、どうすんの?家出した挙句、一文無しなんて笑って済む話じゃねぇぞ。野宿したところでこの時期、朝になったら屍か、狩られて終わりだな」
JK「それは……」
JN「まぁまぁユンギ、この子も事の重大さは十分分かってるでしょ。そんなに怖い顔で説教しなくても大丈夫だよ」
YG「俺はただ、この街は温室育ちの坊ちゃんが来るようなとこじゃないんで、注意しただけですよ」
JK「……この街って、そんなに治安悪いんですか?」
JN「んー、まぁ悪くないとは言い切れないよね。ぶっちゃけ言うと、この街の裏側は主にマフィアが管理してるし」
JK「マフィアって……そんなのフィクションの話だけかと思ってた…」
YG「マフィアっつっても、お前が思ってるような輩じゃねぇぞ。どっちかって言うと、この街の裏側を管理する自警団みたいなもんだ。警察じゃ踏み込めないような部分も、その道のプロの方が詳しかったりするしな」
話を聞いていたジョングクは、もしかして自分はとんでもない街に来てしまったのではないかと思っていた。
さきほど“警察も踏み込めないような”と言っていたが、言い換えれば、そもそも警察すらお手上げな案件が起きるほどヤバい街ともいえるのだ。
釜山にある裕福な家庭に生まれ、首都の大学に通っていた優秀な大学生ジョングクは、今までまるで縁のなかった世界を一気に覗いてしまったようで、ここに来てようやく自分の行いを恥じた。
しかし家に帰ろうという気持ちにはどうしてもならなかった。だからせめて別の街に行こうか、そう考えるも交通費を払えるような金もない。
未来への絶望を浮かべたジョングクが顔色を青ざめていれば、そこへジンから「そうだ」と思いついたように声がかかった。
JN「行く宛てがないなら、うちで働かない?」
JK「え?」
JN「住み込みで店の手伝い。寝る場所は貸してあげるし、ちゃんと働いてくれれば賃金はちゃんと出すよ。それで貯金が溜まったら、キミの好きなようにまた何処へでも行けばいいしさ」
YG「ちょっとヒョン、そんな簡単に…っ。大体、此処にはもうアイツがいるじゃないですか」
JN「ハルは用心棒と…まぁ客寄せ人形みたいなもんだし、僕としてはもう一人ぐらい接客できる子が欲しかったんだよねぇ。
それにあの子も拾ってるし、うちは今更一人二人増えたところでそう変わらないからさ。
――って、わけでどう?」
突然の誘いに戸惑っていたジョングクは判断が遅れていた。
しかし彼らの言うことが理解できていたのならば、住み込みでいるのはもう一人。
窓際のソファで人形のように静かにいる、あの少女だ。
ジョングクが視線の先で彼女の姿を捉えていれば、その切れ長の目が少しだけこちらに向いた気がして、思わず反射的に視線をずらしてしまった。
JN「ジョングクくん?」
JK「え、はい」
JN「そろそろ返事聞かせてもらっていいかな?」
JK「あ…えっと…」
ジンの言葉を聞きながら、ジョングクはもう一度彼女の方へ視線をやった。
そして今度こそお互いの瞳が重なると、
JK「…っ、ここで働かせてください!」
大きな声を上げながら立ち上がっていた。
追記:最後の台詞あれどっかで聞いたことあるぞ、と思った貴方は映画通です。