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その日、竜崎桜乃は初めて“青学のマドンナ”こと、高嶺百合と向かい合っていた。
「今日一日、調理部に体験入部させていただく竜崎桜乃です。よ、よろしくお願いします!」
「あら?あなたこの間、テニス部の大会にいた子よね?勝手にコートに入って怒られてた子」
「は、はい!あの時はお騒がせしてすみませんでしたっ」
「別にいいわよ。あたし達には迷惑かかってなかったんだから」
「(“あたし達”には…って、遠巻きにテニス部には迷惑かけたって言われてるような…。うぅ…やっぱりこの人ちょっと怖いかも〜)」
調理部へ一日体験入部することにした桜乃。顧問の先生には「詳しいことはこの二人に聞いて」と言われ、紹介されたのが釜野と百合だった。部長や副部長は二人とは別にいるらしいが、一番よく活動しているのがこの二人なのだとか。
まさかいきなりこの二人とお近づきになるとは思っていなかったが、これはこれで自分の本来の目的に近づけたと桜乃は改めて体験入部を決めて良かったと思った。
この学校は本来、部活動の兼部は認められていない。しかし、部活動を変えるときや入部するときに部活の様子を実際に知るためにも、このように体験で入部することができるのだ。
桜乃は既に女子テニス部に入部しているため、調理部に入部することはできない。それでも、一日でも早く“その人”のようになるには体験入部が一番近道だと考えたのだ。
「聞いてると思うけどうちは基本自由がモットーだから、ここら辺の器具とか好きに使っていいから。私たちも隣の調理台で好き勝手にやらせてもらうわね」
「は、はい!」
いつかのテニス部の大会で桜乃が起こした暴走を叱咤したのが釜野だったこともあり、どうしても釜野に苦手意識を持ってしまっている桜乃はびくびくしながら返事をする。整った顔立ちをしている釜野は真顔でいると、それだけで相手を威圧させてしまうのだ。
『……』――お辞儀をする。
「!!(わっ…丁寧な人だなぁ)」
釜野と百合はそのままテキパキと器具を出したり、下準備をしたり、二人とも一切無駄のない動きで調理していく。
一方でそれを近くで見ていた桜乃は集中しようにも、二人の美貌や仕草にあてられてしまい注意が散漫してしまい、何度も器具を落としたり、計量を誤ったり、失態を繰り返してしまっていた。
「うぅ〜…上手くいかないよぉ…」
『……』
「え!?きゃぁっ!!高嶺先輩!?」
『!?』
調理が上手く進んでいない桜乃の傍には、いつの間にか隣の調理台からこちらに来ていた百合。突然のことに驚きの声をあげる桜乃だが、百合は別にそんな桜乃を驚かせるつもりはなく、困っている一年生を心配して近づいてみたはいいものの、何と声をかければいいか分からず立ち止まってしまっていただけだった。
その後、お互いに相手を驚かせてしまったことに謝罪をすると、百合の方から自前のノートで桜乃に問いかけた。
―――『何かお困りのようだったので…。』
「あ、す…すみません。騒がしかったですよね。ババロアを作りたいんですけど……あたし、お菓子作りってあんまり上手じゃなくて…」
桜乃が眉を下げながらそう言うと、今度はノートに何かを書き始めた百合。ノートに書きこんでいるだけなのに、その姿はまるで精巧な絵画のように美しい。
「(…ほんとにお人形さんみたいに綺麗…。髪だってあんなに艶があって…口元のほくろも、お、大人の女性って感じ……、リョーマくんが好きになるのも分かるよ…。あたしなんかよりずっと魅力的で…)」
先日、桜乃は思わず自分の悪癖が出てしまい、間接的にも想い人にフラれた。彼が好きだという二つ上の先輩は“高嶺の花”といわれているほど、女性としても人としても魅力的である。
そして、ただ美しいだけじゃなく、彼女の魅力は一つ一つの所作や作法にも表れていた。こうやって後輩を気にかけてくれるのも、料理が上手なのもそのなかの一つだ。
彼は今、自分の目の前にいる先輩に惚れていて、自分はその先輩に勝ち目はないだろう。
けれど――近づくことはできるかもしれない。だから今日、こうして少しでも何か真似できる部分がないかとやって来たのだ。
「(……あたしも料理だって、頑張れば高嶺先輩みたいにっ)」
「ちょっとあなた、何をさっきから一人の世界に入り込んじゃってるのよ。ここは料理するところなの。乙女劇場開きたいなら他所でやって頂戴」
「ひゃっ、すすすすみません!」
「それと、其処にいるあたしの親友が何か言いたいみたいだから、少しは見てあげなさいな」
「は、はい!」
一人で自分の世界に入り込んでしまっていた桜乃。そのせいで、傍にいる百合が震えながらノートを見せていることに気づいていなかったのだ。
それを見かねた釜野はいくつか注意を述べると、再び自分の調理へと戻っていき、残された二人は再び向き合う形に。
そして百合が見せていたノートには、習字の手本みたいに綺麗な字で、作るうえでのポイントがこと細かく書かれていたではないか。
―――『ババロアを作るときは、ゼラチンをふやかす際にダマを作らないことがポイントになってきます。できてしまったダマはベースとなる液に入れても溶けず、残ってしまいます。
ダマを作らないために、粉ゼラチンは「水に振り入れて」戻しましょう。
粉ゼラチンに「水をかける」と全体に水分が行き渡りません。
粉ゼラチンを水に振り入れるときは、振り入れ方にも気を付けて。ドサッと一気に入れてしまうとダマになりやすく、ゆっくり過ぎても最後のほうに入れたゼラチンに水分が行き渡りません。
全体をふやかせるように、調整しながら入れると良いですよ。』
まるで家庭科の先生のようだった。人一倍真面目で優しい百合は、作り方で困っていた桜乃のために懇切丁寧に説明を述べたのだ。いい加減なアドバイスなんかではなく、本気で人助けをしようとする彼女の意思が伝わってくる。
「高嶺先輩…」
―――『それから落ち着いて調理をしましょう。集中できずに注意が散漫になってしまうと、怪我をする恐れもあります。竜崎さんに怪我があっては、竜崎先生が悲しみと思います。』
「(あ、私の名前、憶えてくれてたんだ…。それに私がおばあちゃんの孫だってことも、)」
桜乃のような一年からすれば、高嶺百合という先輩はまさに“高嶺の花”であって、目を合わせることも、話す機会もないような、自分たちとは別世界の人、という印象が強い。
勿論その印象は今も同じで、桜乃は変わらず百合の美しさに目が眩みそうになるが、こうして自分のためにペンを走らせてくれた彼女がいるという事実だけが、少しだけそれを和らげてくれた。
***
「で、できたぁ!良かった〜無事に固まってくれて」
「あら、そっちも終わった?」
「はい!」
「あたし達用事を先に済ませてくるわ。あ、自分のところの片付けはしっかりね」
桜乃がババロアを完成させるとほぼ同時で、お菓子を完成させて既に片付けまで済ませた釜野と百合は用事とやらを済ませるためにエプロンをつけたまま外へと出ていく。
しかし二人が調理室の扉を開けると、デジャヴを感じさせるような形で、外にリョーマが立っていたのだ。そろそろこれも恒例になってきた光景だ。現に釜野と百合は驚く様子が全くない。釜野に至っては呆れたようにため息を零している。
「まーた出待ちなの?あんた暇なのねぇ」
「だから違うってば」
「リョ、リョーマくん!?」
「?……なんでいんの」
「あ、きょ…今日は調理部に体験入部させてもらってて、」
自分から聞いておいてつまらなそうな顔で返事も返さないリョーマ。先日の一件からどこかギクシャクした空気が続いていた。
「……ふぅん。そうだわ、竜崎さん。せっかくだからおチビちゃんにババロア食べてもらったらどう?」
「え、あ、あたしのですか?」
「そう。このおチビちゃん、いっつもあたし達が差し入れするのを邪魔してくるのよ〜。ほんとはこれ全部、海堂ちゃんと桃城ちゃんに渡したいのに、百合の作った分取っちゃうんだから。だからあなたのをあのおチビちゃんにあげてやって。おチビちゃんどうせお腹空いてるんでしょ?」
「ちょっと何勝手に決めてんの。俺、別にたかりにきたわけじゃないし」
「別にいいじゃない。女の子が作ったものなんだから、ありがたく貰っておきなさいよ」
「全然ありがたくないんだけど」
釜野によってどんどん話は進んでいき、何故か桜乃がつくったババロアをリョーマが食べることに。おそらくリョーマとしては桜乃の手作りではなく、さっきからこちらをニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべているオカマ、の隣でじっとこちらを見ている“彼女”が作ったものを貰いたかった筈だ。
桜乃もそれを分かっているからこそ、自分の作ったものをリョーマにあげていいんだろうかと冷や汗がとまらない。
「あー!越前ずるい!一人だけお菓子食べようとしてるなんてー!?」
「……また面倒なのが来た」
「あ、オカマノ先輩とマドンナ先輩だ…!こ、こんにちは!」
「あら一年トリオたち。今日も元気ねぇ」
そこへ運よく?通りがかったのはリョーマの取り巻きであるテニス部一年三人組だった。彼らはボール運びの途中らしく、カゴいっぱいのテニスボールを抱えていた。
「竜崎さん、ババロア作ったの?おいしそうだね」
「う、うん…初めて作ってみたんだけど…」
「なぁなぁ俺も食べていい?今日もたくさんランニングして腹減ってたんだ」
「別にいいけどおいしいかどうかは、」
「じゃ、遠慮なく!」「僕も」「僕も食べたいっ」「……ハァ…」
一年トリオとリョーマがそれぞれババロアを一口スプーンで口に運ぶ。それをハラハラしながら見ている桜乃。百合が教えてくれた通りに、ババロアの固め方はちゃんとできていた筈だ。そう、固め方は。
「「「「!!?」」」
桜乃は一つ大きな見落としをしていた。材料のひとつであるバニラエッセンスを入れる際、本当なら数滴垂らすだけのそれを彼女は、
「にっっっがぁああ!!??」
「なにこれ!?」
「全然バニラの味じゃない!」
液体全て入れてしまっていたため、とんでもなく苦いババロアになってしまっていたのだ。一年トリオはまるで乾汁を飲んだ後のような青白い顔で叫び、リョーマに至っては「なんでこんなに不味くできるわけ」と呆れたように額を押さえていた。
「え、な、なんで!?ちゃんと固められたのに…?!」
「ちょっとあなた。どんだけバニラエッセンス入れちゃったのよ」
「どれだけって…あれって全部入れるんじゃないんですか?」
「ぜ、………っっこのおバカ!!」
「ひぇええっ、ごめんなさぁいいい!!」
なんでもレシピをきちんと見ていなかったせいで、バニラエッセンスをジュースと勘違いして全て入れてしまったということだった。その後、必死で謝る桜乃に釜野は厳しく叱り、悶絶している一年には百合が水を配って介抱することに。
「…百合先輩」
『?』
「口直しに、さっき持ってたお菓子ちょーだい」
その間に水を貰った越前はしれっと百合の手作りお菓子を要求していた。勿論、百合にそれを断る理由もなかったので、以前と同じくリョーマに手作りお菓子を渡すことに。
今日二人が作ったものは、独特な形をしたイタリアのお菓子スフォリアテッラ。上級者向けのレシピを見事作り上げた百合。リョーマも安心してそれを口に入れると、先ほどの衝撃的な味の後だからだろうか、彼女の作ったものはいつもより数倍美味しく感じた。
「…うまい」
―――『本当は紅茶が一緒だともっと美味しいんです。』
「だろうね。また作ってよ、そん時は紅茶付きで」
―――『はい。』
「ってコラ、おチビちゃん!またあなた百合が作った分食べたわね!?それは桃城ちゃんたちの分って何度言えば分かるの!もう!」
「この前桃城先輩たちが、なんかケーキ食べたいって言ってましたよ」
「またいつでもいらっしゃい!」
『!?』