とりあえず
各地で積雪が確認された寒い冬のある日、その日は“彼女”の十三歳の誕生日となる筈だった。
白い病室のベッドの上で意識を取り戻したXX。ベッドの周りにはXXを囲むようにして、電子音を鳴らしている機械が幾つもある。そして目を覚まして間もなく、バタバタと忙しない音と共に数名の人間が病室へと入ってきた。白衣を着ている医師と思われる男性と、看護服を着た女性たち。
「急いでご家族に連絡を!それから脳外の先生や内科の先生、手の空いている先生には来てもらって!」
「は、はい!」
医師の早口の言葉に戸惑いながらも、看護師の一人は通話機を手に、再び病室を出て行った。その様子を見ていたXXはゆっくりとした口調で声を発した。
「………いやだ…」
それは掠れるような小さい声だった。
―――XXは二カ月前、どこにでもいる普通の女子中学生だった。しかしある日、突然の深い昏睡状態に陥り、やがてその身体は変貌していくこととなったのだ。皮膚が剥がれ落ち、髪が抜け落ち、骨格が動き、そして新しく再生されていった――別人へと。その間、XXは眠り続けていた。常人なら痛みで起きてしまう状態にも関わらず、ただ静かに眠っていた。全身を包帯で覆われたその姿はまるで羽化前の繭のように。
突発性離人異能症――一億人に一人と言われる程に稀な病気、それがXXのかかった病気だった。最初に診察した医師はあの伝説のような症例を見て、思わず目を疑ったほどだ。約七十年ぶりに日本に現れた発症者として、本人の知らないところでそのニュースは国中、否、世界中を駆け巡った。その理由として、昔は「神の使い」とまで言われた稀な発症者を国は国宝級に祝福していた。それは彼らが名前の通り「人から離れた」証である異能力を持って生まれ、国が窮地に追われたとき救いの手となったからだ。しかし七十年前の世界大戦時、彼らは祖国においてまるで駒のように使われ、結果として殆どが自殺に追い込まれた。それに憤りを覚えた一人の生存者が、今後は彼らを普通の人間として扱い、二度と武器や研究材料として扱わないこと、そしてお互いに干渉しないことを世界に誓わせた。そして大戦以降、現在の発症者はXXを含めたったの四人であり、本当に希少な存在となったのである。
***
「冬崎くーん、体温測る時間……って、またどっか行っちゃったのか」
ベテラン看護師(45)は担当患者の定期検査に来たのだが、時間通り来てみれば個室のベッドは見事にもぬけの殻。朝にはきちんと連絡していたはずだというのに。
「冬埼くんならまた図書室じゃない?大抵この時間はそこにいるし」
「やっぱりそうよねぇ」
通りすがりの同僚看護師にも言われ、白銀の普段の行動パターンから図書室へと向かう。
看護師の担当患者――冬崎銀永は先日までXXという名前を持っていた。しかし彼の意識が覚醒したとき、そこには白銀の髪と翡翠の瞳を持った少年がいた。
親族曰く、意識が戻ってからの銀永はまるで人が変わってしまったらしい。性別まで変わり、容姿も日本人とはかけ離れてしまった自分を未だ受け入れられないのか、殆ど何も喋らず、意思も見せず、ただじっと静かにそこにいるのだ。
また、記憶が欠けていたのも大きな要因と言えるかもしれない。家族の顔と名前や、自分がどこで生まれたかは覚えているのだが、他はてんで曖昧なのだ。
そしてそんな生まれ変わった我が子を見て、XXの家族――特に母親は酷く戸惑っていた。それは自分が産んで育ててきた子供が、急に全く違う人間になってしまうというのだから、無理もなかった。「それでもこの子が自分たちの子供であることには変わりない」、我が子が変貌していく様をみていた母親はそれを知っていた。だから、長く限りなく続く幸福な人生であってほしいという祈りも込めて――“銀永(ぎんえい)”という新しい名前を与えたのだ。
その銀永は今現在、病院内にある図書室にいた。端から順に本を取ってパラパラと捲っていき、全てのページを見終えたら本を閉じ、今度は別の本を同じように捲る。一見するとただ捲っているだけに見えるが、銀永は意識を覚醒してから、その翡翠色の瞳に写したものを瞬時に記憶できる瞬間記憶能力を持ち合わせていたのだ。しかし発症者が様々な症状を併せ持ってくるのは何も珍しいことではなく、発症と共に脳内物質のバランス構築に影響を受けてしまい、脳内が常に活性化して五感や記憶機能が異常発達しているらしい。
そのためその記憶機能を生かして、今の年齢に必要な知識を入れるよう医師の勧めで様々な本を読んでいるのだ。
(あ、いたいた。やっぱりここだった………)
図書室の椅子に座り片足を膝曲げして背を丸めているその姿は、お世辞にも姿勢が良いとは言えない。それでも彼がそこに座っているだけで、なんと絵になることだろうか。
光の屈折できらきら輝いて見える白銀の髪、瞳に影を差すほど長い睫毛まで白く、精巧に作られた人形のように整った顔立ち。発症者は皆、人間離れした容姿を持つことが特徴の一つでもあるが、これほど目を引く姿とは誰も想像していなかっただろう。彼を呼ぼうとしていた看護師でさえ、自分の職務を忘れ、思わず魅入ってしまっていた。もう何度も目にしている筈なのにこればかりは未だに慣れない。
「……っと、いけない。冬埼くん」
ようやく我に返った看護師が声をかける。銀永がそれに気づいて目線を上に上げるが、さして表情を変えることはなく、まるで看護師がどうして自分を呼んだのか不思議にさえ感じているようだ。
「今日は検査だよって、朝言ったね。読書もいいけれど、時間は守ってほしいかな」
すると看護師の言葉に素直に従い、それまで見ていた本たちを片付け始めた。彼の担当看護師になって分かったことだが、どうやら銀永は他人に言われたことには一切反論せず、ただ静かに受け入れるようだ。そして自分の興味があるものにしか基本反応はしない。
発症者となった彼について、最低限のことは分かってきたのだが、たった一つだけ、それもとても重要なことがまだ見つけられていなかった。
「異能力」―――発症者が必ず持っている超人的な能力。歴史上で見られた異能力は様々で、人を簡単に殺せる能力もあれば、文明の力となるものを開発した能力もあれば、自然と一体化できる能力など、どれも一つとして同じものは確認されていない。
そして銀永も今までの発症者と同じく、異能力を持っているだろうが、それが一体「どういうものなのか」実態は誰も確認できていなかった。発症者の異能力については、発症者自身がそれを熟知して生まれてくる者もいれば、自分の能力について全く知らずに生まれてくる者もいる。銀永は後者のようだった。そのため確認の仕様もない。それは発症者の異能力について検査し、追及することはできないという大きな壁があったからだ。
国連によって締結された戦後の「誓い」では、発症者を研究材料として扱うことはできず、お互いに干渉しないこととされている。そのため銀永が自分で自分の異能力を見つけることしか、方法はない。しかし干渉してはいけないとはいえ、国民はまだかまだかと知りたがっているのが本音だった。どんな能力を持っているのか、もしとんでもない能力なら是非お目にかかりたいと考えている者が殆どだろう。
しかし彼の能力は一向に不明。病院で必要な検査が終われば、一般人と同じ生活を歩むことになる。このまま分からず仕舞いなのだろうか、とも思われていた時だった―――
「え、喬木さん!?どうしましたか…!!」
病室へと向かっていた看護師と銀永だったが、廊下の端において老人らしき男性が一人倒れているのが見えた。入院患者と思われる老人に覚えがあるらしい看護師が驚きの声と共に走った。図書室近くを入院患者は殆ど来ない。病室から少し離れたここは健常ではない患者にとって億劫な距離でもあるからだ。しかしそのためか、病院スタッフもこちらまで見回りに来るものは少ない。現にこうして老人一人倒れているのに気付いたスタッフがいなかったのだろう。
急いで駆け寄った看護師が意識を確認するが、どうやら意識喪失状態。しかも最悪なことに、
「心肺停止…!?」
息をしていなかった。この老人は一体いつからここに倒れ、そして心肺停止状態がいつからで、長らくこの状態だったならば…など、様々な思考が看護師の頭を過ったが、今自分がすべきことは。
「緊急患者発見、東棟三階図書室前!コードブルーをお願いします!」
通話機を使い、院内放送を呼びかけるための連絡を行う。「コードブルー」とは病院内で緊急患者が発生した際に使用される隠語である。これにより緊急事態発生がしたことと、医師が集まる場所を迅速に伝えられる。そして看護師がその後直ぐに気道を確保し、胸骨圧迫に入ろうとしたその時だった。
「…どいて」
視界に写った白い手。それまで見守っていた銀永が、いつの間にか患者の傍にしゃがみ込み、冷めたような声でそう言ってきた。
「なにをするの!人の命がかかって―――「邪魔」
突然尻餅をついたかと思えば、銀永の手が看護師の肩を押しており、看護師はそのまま後ろに座り込んでしまったのだ。そしてそのまま銀永の手は、患者の胸元に置かれ、
ドンッ――!!
大きな音と共に、患者の身体がはねた。まるで自動体外式除細動器を使ったかのように。銀永が添えている手からは青白い線のようなものが不規則に光っている。目の前で何が起きたのか理解できなかった看護師は黙り込んでしまった。そして、遂に奇跡は起きる。
「…かはっ、ゴホゴホッ」
患者が突然息を吹き返したのだ。確かに先ほどまで心肺停止状態だったのに。放心状態の看護師に対し、銀永は冷静な口調で言う。
「……あとは、お願いします…」
後ろからドタバタと病院のスタッフたちが駆け寄ってくる音が聞こえてくる。それを背に、銀永はスタスタと自室へと向かって歩いて行ってしまった。
そうして心肺停止状態だった老人の命を救った出来事から数日、銀永の異能力が漸く判明した。判明したと言っても、本人が直接言葉で説明してきたわけではなく、あくまで例の出来事からおおよその推測になってしまうのだが。
銀永は「電流使い」ではないかということになった。家族がそれとなく聞いたところ本人が否定しなかったので、間違いはないらしい。
あの時銀永は心肺停止状態の患者に対し、自ら電流を発し除細動器となったため、患者は息を吹き返したということだった。そして彼の異能力が判明した直後、国連から使いが現れた。話の内容は、今後は異能力の使用を規制するということ。それは勿論、電流を扱える者が自由にその能力を利用できてしまえば世界の秩序が乱れる可能性が出るからだ。
たくさんの規約の下でしか、彼らは生きていくことは叶わないのが現実である。
目が覚めたとき、自分は…否、僕は全く知らない“自分”になっていた。どうしてこんなことに、とか何度考えても、まとまった答えは出てこなかったから、もう考えるのも放棄した。
鏡を何度見ても慣れないこの姿。以前は父親に似た顔立ちをしていたのに、今は日本人らしさのかけらもない色相と目鼻立ちをしている。かと言って外人になったわけでもない、普通に言えば驚くような美少年なのだ。自分で言うのもなんだが。
また嗜好も変わってしまったようで、以前はあまり読書もしなかったのに、今は活字を見ていた方が寧ろ落ち着く。入院中は時間がたくさん余るので、読書ぐらいしかやることもないし、何も考えなくて済む。それに不思議なことに、覚えようと思ったことは一度見れば暗記していた。頭の中で引き出しのように記憶が取り出せる。約二カ月も入院していたので正直、勉学が本業の学生の身としては不安があったが、以前の自分とは全く違い、知能も上がっている気がする。これも発症者特有の症状なのだろうか。
「それじゃあ、銀永。新しいタオルはここに置いておくからね」
「…うん…」
“銀永”と呼ばれてもまだ直ぐには反応できない。当たり前のようにXXと呼ばれていたのだ。母も初めのころは以前の名前で呼ぶこともあったが、最近は銀永と呼ぶことにも慣れている気がする。
「それから退院するときのこと、今日からちょっとだけお話していこうと思って」
そして日は経ち、自分はついに一週間後に退院できることが決まったのだ。病気にかかったといっても、別人に代わり、普通の人間とは少し違っているだけで、何か侵襲があるわけでもなく、寿命に関わることはないため生活する上では何も問題はない。寧ろ、これからは一般人と一緒に過ごしていくことが今後の課題であり、それは大戦後世界で交わされた「誓い」でもあった。
「…確認だけど、本当にいいのね?自分ひとりで家に帰るなんて…」
ここの病院は日本の首都東京にある大学病院。しかし、実家は地方の田舎にあり、退院にあたって、自分は多くの時間をかけて実家へと帰らねばならない。勿論両親たちは一緒に帰るつもりでいたというが、自分は意識が戻ってからまだ一度も病院外に出たことがない。長身は気遣ってくれているのだろうが、自分はどうしても一人で買えりたいと思っていた。
「……うん…」
「でも、やっぱりお母さん心配だわ…。銀永は今まで一度も外に出たことないし、人はいっぱいいるし、」
「……家に帰るぐらい、自分ひとりでやりたいんだ…。お願い」
今はできるだけ、一人でいたい。
「…それじゃあ、これは高速バスのチケット。バスだと三時間ぐらいかかるから―――」
「神の子」と言われようと自分は人間と同じ。XXだった頃と同じ生活を送るため、銀永の第一歩が始まろうとしていた。
***
その日、無事に退院を迎えることができた銀永の瞳に写り込んできたのは、都会の街中を行き交う人だかりだった。
退院当日には「七十年ぶりの発症者退院」そういったタレコミ目当てに多くの報道が病院前に来ていた。勿論、その後直ぐに報道規制がかけられたが、病院側は事前に策を立てて銀永を裏口から出られるよう配慮していたのだ。
しかし白銀の髪をし、翡翠の目をした美少年など、どこに行っても目を引くことは間違いなかった。そのため銀永自身はキャップを被り、伊達メガネとマスクをして、有名人なみの変装をして歩いていた。勿論、銀永本人はまさか自分がそんなに注目の存在になっているとは思っておらず、普通に正面玄関から出ようとしていたし、変装という考えすら浮かばなかったようだが、家族の心配もあり、このような形となったのだ。
***
人がいっぱいだ。それに建物も高い、こうして見上げなければいけないほど。幸いなことに目当てのバス停は病院から歩ける距離にあった。大都会の中で自分はちゃんと向かえるだろうかと内心不安もあったが、教えられた目印を探すため周囲の光景に目をやりながら歩く。
(あ…、あそこだ…)
やがて目的であるバス停が見えてきた。バス出発時間まであと数分。そうして着いてからほんの少し待っていれば、時間ぴったりにバスがやってくる。流石仕事にきっちりの日本人だ。
チケットを運転手に見せたあとバスに乗車し、指定された座席に座り、数分後、運転手が乗り込んでから漸くバスが出発した。よく見ると前後左右ともに、自分以外の他の乗車客が見当たらない。やはり地方の田舎ということもあり、乗車客が殆どいないようだ。しかしそれも今の自分にとっては都合が良かった。今はできるだけ人とあまり関わりたくない。
長野までの長旅は長いようで、短いようにも感じられる距離だった。その間、自分は休むことなくずっと動く景色を見つめていた。そして、母親から聞かされていた停留所に着いたことが分かり、降りる準備をする。と言っても荷物は事前に家族が持って帰ってくれていたので、自分はショルダーバック一つだけなので確認することは少ないが。
再び外に出たとき、景色はまた一変して見えた。東京ではそびえ立つビルに囲まれていたが、今は高い山々に囲まれ緑が多い印象だ。
母親の話では、着いたら先ずタクシー乗り場まで行くように言われていたので、近くにあるタクシー乗り場へと向かうことにした。二台ほどのタクシーが並んで停まっており、タクシーの傍に運転手らしき人物が立っている。すると男性運転手が自分の方を見て、声をかけてきたのだ。
「冬埼さん、ですか?」
「…あ、…はい…」
「ご家族からご連絡を頂いています。家までお送りしますので、どうぞ」
どうやら母の気遣いで既にタクシーを手配してくれていたらしい。バスと違い、タクシーだと客と運転手の距離が近いから、変装したところで直ぐに自分のことはバレてしまうだろうから、事前にこちらの事情を伝えていてくれたみたいだ。
家まではここから二十分ほどの距離だ。二カ月しか離れていなかったのに、なんだかとても久しぶりな気がする。
そういえば母によると、今日は実家の方で地区の春祭りが行われるとのことだ。祭りの獅子は家の前を通るため、地区の春祭りのときは実家の周りには地元の人たちで溢れる。退院の日と行事が被ってしまったのは偶然で、こればかりは仕方がない。しかし、勿論対策をしていないわけではなく、できるだけ人だかりの少ない間に実家に帰れるよう時間を考えてある。
―――筈だったのだが。
「……無理そうですか?」
「すいません、渋滞で予定時間より遅れてしまって…」
予想外の渋滞でタクシーは遅れてしまったようだ。元々今日はバスの方も渋滞や交通整備などで到着が遅れていたため、既にこちらの予定は大きく狂っていた。こればかりはベテランタクシー運転手さんでも、予定時間に間に合わせることは難しかっただろう。しかしいくら遅れたとは言え、家に繋がる道の交通規制がもうかかっているとは。
祭りの日、家の前を獅子神輿が通るためには車が通らないよう交通規制がかかる。そのため、この交通規制がかかる前に家に着くようにしたかったのだが、結局間に合わせることはできなかった。
「事情を言って入れないかどうか警備員に聞いてみます」
「いえ、大丈夫です…。あの…上の方から回ってもらってもいいですか?」
下が無理なら、上の方から回ればいけるだろう。あちらはまだ交通規制がかかっていない可能性が高い。運転手にお願いをして上段へと行ってもらうことにした。
***
やはり。こちらはまだ規制がかかっていなかった。しかし、これ以上進むと今度は人だかりがあるため車での移動は危ない。タクシーはここまでだ。運転手にお金を渡し、車から降りる。
嗚呼、この通りはよく覚えがある。中学に通い始めた今年から通学道路にもなった道だ。何度も歩いてきた。その道を今は少年になって歩いているのは、やはり違和感があるけれど。
お寺の前には既に多くの人が祭りの見物に来ている。この地に生まれてからずっとこの祭りは味わってきたが、相変わらずの賑やかさだ。そしてこの時季といえば―――
青い空に良く映えた桃色。階段上のお寺には桜の木がたくさん植えられている。春先の今、桃色の桜が満開に近いほど咲いているのだ。
「……綺麗だ…」
帽子のせいで上手く視界に映らない。それにマスクもいい加減鬱陶しく感じていた。桜の景色に見とれてしまい、その時の自分は見落としていた。自分が今どういう姿をしているのかを。
ざわざわと話し声が聞こえてくる。それに加え、何か視線を感じた。あ、しまった。そう思った時には既に遅く、後ろへと振り返れば大勢いた人たちが皆こちらを見ていたのだ。
普通に考えれば、白銀の髪をしているだけで目立つのは当たり前だ。それだけでなく、自分は今、翡翠の瞳に恐ろしく整った顔を持っている。またニュースなんかでも発症者の自分のことは大勢に知れ渡っているのだ。特に、このような小さな地元では特に地域繋がりが強く、「あそこの娘さんが発症者になった」とか何とか噂は広まっているに違いないだろう。そのため、この周りの人たちが何故自分に注目していて、何を囁いているかぐらい安易に想像できる。急いでキャップを被り直したが、やはり視線は感じられる。
「あ、っと…キミ、冬埼さんとこの子、で合ってる?」
「……は、はい…」
「そうかーやっぱりねぇ」
「大変だっただろうに…よう帰ってきたなぁ、おかえり」
「おかえり!」
突然、舞子の男性たちに声をかけられ驚きはしたが、今度は笑顔で「おかえり」と言われ、思考が停止した。自分はどうして知らない人たちに心配され、帰りの無事を喜ばれたのだろうか。同じ地区に住む人たちとはいえ、喋ったこともない人たちばかりなのに。
「……どうも…」
こうやって気軽に声をかけてくれる辺り、
年の瀬も近づく今日この頃。皆さん、現在十三歳である銀永も数カ月前までは同い年の子たちと変わらず、中学校に通う学生であったことをお忘れではないだろうか。そう、彼も再び学生生活に戻らねばならぬのです。義務教育だから。
しかし記憶が殆ど断片的になってしまい、不安定な心境で生活しなければいけないためか、未だに人と上手く関われないようだ。また、「異能力」を持っていることから迂闊に集団生活に踏み込ませることは政府も躊躇しており、本人の様子を見ながら先ずは少しずつ学校生活へ慣らしていくようにと言われている。
そして今日はその第一歩目。以前まで当たり前のように通っていた学校へ、銀永となって初めて見学に行き、クラスメイトとも顔を合わせてみようというプランである。
「ここが幸燿中。今日は車で来たけど、銀永はいつもここへ歩いて通っていたのよ。…本当に覚えてない?」
母と二人でやってきた中学。今年の四月から秋頃まで、XXだった時に通っていたのだ。何か覚えがあればいいのだが、銀永はじっと校舎を見つめたまま何も言わない。家から出るときからずっと黙り込んでいる気もする。緊張しているのだろうか。そうして母の後ろを静かに着いて行く彼の心情にまだ誰も気付けていなかった。
来客用玄関から入り、職員室へと向かった。母は慣れた様子で歩いていく。この中学は既に銀永の兄姉が通っていたこともあるので、勝手が分かっていても不思議ではない。
「本日はよろしくお願いします」
「お忙しいなか、御足労頂いてすいません」
母が職員室へと入り、近くの教員へ挨拶を交わしている。その間、銀永は職員室前の廊下で一人待っていた。やがて一人の男性教員が母と共に出てきた。白髪交じりの年配の教員だ。
「こんにちは。教頭の茂上です」
「……こんにちは」
「今日は私が案内させていただきます。冬埼くんができるだけ早く学校に復帰できるよう、一緒に頑張りましょうね」
笑顔で声をかけてきた教頭に、銀永は目を合わせることはできなかった。小さく声を出して反応を見せるが、やはり表情は固い。
「それじゃあ早速、校内を回りながら授業風景を見に行きましょうか。遠くからでもいいですから、学生がどんな風に勉強しているか是非見て行ってください」
その後、教頭のあとを追うようにして校内をゆっくり回った。その間喋っているのは殆ど教頭で、母がそれに相槌を打って答えるように話が進んでいった。銀永は少しだけ距離を置いたところから二人の後を追っていく。
「あそこが体育館で…今は丁度、二年生がバスケットボールをやっているんですよ。少し見学してみましょうか」
靴がキュッキュッと鳴る音や、ホイッスルが吹かれる音、ボールが弾む音など様々な音が聞こえてくる。そしてたくさんの人の声も。一年ということは銀永と同級生だ。今まで殆ど大人としか関わってこなかったので、同い年の子供との対面に緊張の面持ちでいる。
***
一方で体育館の方では、一年四組と五組が合同で体育を行っていた。今日もいつものようにドリブルやパスといった基本練習の後、練習試合が組まれ、生徒たちはそれぞれチームごとに分かれて試合を行っていた。
「ねぇ、なんか教頭先生見に来てるよ?」
「授業中なのに珍しいね」
普段は担当以外の先生が授業を見に来ることはないのだが、しかも学校で二番目に偉い立場にいる先生が。数名の生徒が教頭先生の存在に気づき、ちらほらと視線をやり始めた。見ると教頭先生の隣には自分たちの母親と同年代の女性もいた。転校生か誰かの母親のようだ。生徒たちが興味深気に傾げていれば、今度は教頭先生と女性が自分たちの後ろの方へと顔を向ける。その後ろにまだ誰かいたのだ。
そして教頭先生と女性の間からゆっくりと顔を出した人物に、皆が驚きで一斉にそちらへと目線をやった。日本人らしからぬ白銀の髪と、青緑がかった翡翠の瞳、顔の造り一つ一つが造形美染みている人形のような少年がそこに存在していたからだ。また、少年を見ると同時に殆どの者が察したことがあった。
“彼”が噂の―――
約二カ月前、一学年の生徒が一人長期入院したことは学校中に知れ渡っていた。只の生徒の入院なら誰も気にも留めない話なのだが、それが“只の生徒ではない”のだからそうもいかなかった。
「え…めっちゃイケメン…」
「やばい……タイプかも…」
「…あんなかっこよくなっちゃうの…?」
以前は確かに自分たちと同じ普通の女子生徒だったのに、ある病気の発症者となったことであんなにも美少年になってしまうのかと、生徒たちの大半が頬を染めて視線を向けていた。
***
見られている――
体育館中から感じる視線に思わず俯いてしまった。先ほどまでバスケをしていた筈の生徒たちが全員、足と手を止めて自分の方に注目してきたのだ。ハッキリ言って怖い。
***
「ここが二年一組です。冬埼くんが一年生の時からいたクラスになりますね」
教頭先生に案内されてやってきたある教室の前。扉の上には“二年一組”と書かれたプレートが付けられている。この学校ではクラス替えはなく、一年の時に振り分けられたクラスで卒業までの三年間を過ごすことになるのだ。そのため自分は入学してから去年の秋頃までこの一組で過ごして、二学年も再び同じクラスメイトと過ごすことになる。
しかし約半年一緒にいたクラスメイトとはいえ、結局今日まで誰の顔も浮かんでこなかった。
「今は社会科の授業を行っています。少しだけ教室の中に入ってみませんか?静かに入って頂ければ大丈夫ですから」
「……いけそう?」
自分は今どんな顔をしているというのだろうか。心配そうな顔をした母に顔を覗かれ、ついそう思ってしまった。少し前まで通っていた筈の学校なのに、今はまるで転入生にでもなった気分だ。そんな何かが渦巻く中で、小さく頷いてみせた。
それを確認すると教頭先生が先に教室の扉を開けて、入って行った。そのあとを母が続く。自分も同じように進まなければいけないのに、体育館のときと同じように身体が上手く動かない。一歩踏み出すだけなのに、その一歩はいつだって重すぎるんだ。
***
いつものように歴史の授業を受けていた私たち。この授業は先生が板書したところをノートに写して話を聞くだけなので、基本とても静かなのだ。カリカリとノートに文字を写す音が響いていた、その時だった。がらがらと後ろの扉が開かれた音が響いてきたのは。
授業中に教室の扉が開かれることは先ずない。当然生徒たちの関心はそちらにいってしまう。教室に入ってきたのは教頭先生、そして次に入ってきた女性を見て、私は直ぐあることを察したのだった。
教室には真ん中に一つだけ空いている席がある。その席には本来、あるクラスメイトが座っている筈だった。そのクラスメイトは去年まで自分たちと一緒に授業を受けていたが、突然入院をすることになり、結局、一学年を一緒に終わらせることはできなかった。
しかし先日無事退院したという知らせを担任の先生から聞かされ、近々学校の方にも顔を出せるかもしれないということも知らされた。
そして教頭先生と一緒に入ってきた女性は――入学式に来ていたそのクラスメイトのお母さん。どうして今ここに、という考えが頭を過っていれば、二人から遅れた形で“彼”が現れたのである。
今まで見たこともない白銀の髪、青緑の瞳はまるで宝石のようで、絵から飛び出てきたのかと錯覚してしまいそうな程綺麗な顔立ちになって―――帰ってきた冬埼“くん”が。
「…え、あれって…冬埼さん?」
「多分…、でも完璧性別変わってるじゃん…」
「てか顔も全く違う…マジだったのかよ」
皆、半信半疑のようだ。それもそうだ。今は少年の姿をしているが、入院前は確かに私と同じ性別だったのだから。
「皆さん、授業に集中してください」
教室がざわざわし出したため、先生からすかさず注意が入った。先生が全く動じていない様子から、恐らく先生たちには事前に見学のことを伝えられていたのだ。それから授業終了までの5分間、冬埼くんは後ろから私たちの授業風景を見学していた。でも、表情はずっと変わらず人形のように無表情だった。
***
授業見学も終わり、この後は“掃除の時間”が始まって、そのあとは各クラスの“ホームルーム”が行われるらしい。掃除の時間は20分ほどで、その間に自分と母は校長室で校長先生と二年一組の担任である先生と一緒に“今後の話し合い”を行っていた。
「―――それでは、ひとまず来週から半日授業でいってみましょうか」
「はい、ただ…その、本人の様子を見るに、まだ多くを望むのは難しそうなので、週に二日から始めていきたいのですが」
「勿論大丈夫ですよ。病院からの報告を見るに、冬埼くんの学力が他の生徒より遅れているわけでもなさそうですし。…慌てることなく、ゆっくり進めていきましょう」
大人三人が自分の今後のことを話し合っているが、自分自身はまるで蚊帳の外にいた。別に話に加わりたいわけでもないから構わないが。しかし本当に、母には大分心配をかけているようだ。それだけは何だかいたたまれないなと思った。
時間は直ぐに過ぎ、掃除終了の放送が鳴った。学校内で放送が鳴ると、こんなにも響くのか。どこにいても聞こえるな。
「掃除が終わったようですね。あ、冬埼くん…、良かったらホームルームに参加してみませんか?」
「……え、」
「放課後までの少しの時間ですから、それにクラスメイトとも知り合える良い機会になると思いますよ」
「…お母さん、車の中で待ってるから、…銀永一人で行ってみる?」
「……僕、は…」
ホームルームでは何をするか分からないけど、あの“教室”という空間に一人で行くのは不安に感じた。授業を見学したとき、全員が自分の方を見てきたけど、結局誰一人分からなかった。まさに一からのスタートになるんだ。
それから結局、担任の先生と一緒に再びあの教室へと向かっていた。担任の男性教諭は「清水先生」と教えられた。清水先生は背が高く、男子バレー部の顧問でもあり、なんと自分の長兄の元担任でもあるらしい。兄曰く怒ったら一番怖いが、面倒見の良い先生でもあるとのことだ。
掃除道具の片づけをしていたり手を洗っていたり、生徒たちは廊下に溢れ、先生と廊下を歩いている間、ずっと視線はまとわりついてきた。
***
掃除終了後、教室ではクラス中が“冬埼くん”の話題で騒がしかった。
「今の名前、“銀永”くんでしょ?」
「銀永って聞いたことないわぁ。すごい名前」
「普通に呼び慣れない。私絶対、XXって間違える」
「あと、めっちゃイケメンになってて、ビクッたんだけど」
「それな」
以前の“冬埼くん”と交流のある女子たちは特に話が盛り上がっていた。美少年が来たことで色めきだってしまうのも仕方がないだろう。
そして騒がしかった教室も先生の登場で直ぐに静かになった。担任の先生は学校一怖いことでも有名なので、皆怒られたくないがため先生の前では基本大人しい。しかし、要因はそれだけではなかった。噂の美少年も一緒にやって来たからだ。
「お前たち、冬埼に席教えてやってくれ」
先生の一言に教室中がさらに静まった。そして一瞬の沈黙のあと、銀永くんの近くにいたクラスの副委員長がすかさず行動に出てくれた。
「席こっち…」
副委員長のあとを銀永くんは黙ってそれに付いていく。少し足取りが重そうなのか、とてもゆっくりな動きで。しかし副委員長が席まで案内すると、銀永くんは机の横に立ったまま座ろうとしない。
「…え、あ、座っていいんだよ?」
そう言われてやっと彼は椅子を引っ張ると、静かに座った。さっきまで騒がしかったクラスメイトたちも今は声量を抑えて、ヒソヒソと話し出している。きっと銀永くんに聞こえないようにしているんだろうけど、そんなの何の意味もないような気がした。
それからいつもの時間にホームルームが始まり、早速銀永くんの不思議な様子が目立った。新聞委員会が連絡事項でプリント配布を行ったときだ。前から配られていったプリントを後ろに回していくのが普通なのに、銀永くんは前の席からプリントを渡されると何故か手に持ったまま動かなかった。そしてキョロキョロと左右を見渡していたのだ。…もしかして、
「あ、X……銀永くん、これ後ろの人に回せばいいから」
隣の席に座る副委員長がすかさずフォローに入った。すると言われた通りに銀永くんは、プリントを“まるごと”渡してしまったのだ。
「え?違う違うっ、自分の分を一枚取って回せばいいの。これは銀永くんで、残りをこうやって…」
まさかそれすら分からないなんて。その様子を見ていたクラスメイトたちは皆、衝撃で目を見開いていた。清水先生でさえ驚きで凝視してしまっていたほどだ。
彼は一体どれだけの記憶を失ってしまったのだろうか。さっき席に座るときも、人に言われてからようやく座っていたぐらいだし…。本当に中学二年生としてやっていけるのかな…。
その後も各委員会や係からの連絡をしていき、最後にいつもの如く先生からの話となった。
「えー、今日漸く冬埼が学校に戻ってこれた。だけど、まだ完全復活したわけじゃないから、これから少しずつ戻ってこれるようにしていくということになりました。知っている人もいるかもしれないけど、冬埼は一年生のときの記憶だけでなく、…十三年間生きた記憶も殆ど無くなってしまった、先生が言うのもおこがましいんだけど、きっと不安な気持ちを抱えていてもおかしくはないと思う。だから、さっきのように皆で助け合ってほしい。先生はこのクラスの担任だけど、一日中一緒にいてやることはできない。同じクラスのお前たちにしかできないことだ。…仲間を支えてあげてほしい。これは先生個人のお願いです」
先生はそう言って小さく頭を下げた。教室中がいつになく張り詰めた雰囲気になる。記憶が無くなった話をしたとき、先生が少しだけ泣きそうな顔をしていたように見えた。
原因不明の病気にかかって、訳も分からないまま別人になっていた自分をかれはどう受け止めているんだろう。何を考えているんだろう。
銀永くんは週に二日、午前中だけ学校に来るようになった。銀永くんのお母さんが送り迎えをしてきているらしい。私の母によると、銀永くんのお母さんは銀永くんが昏睡状態になったときからお仕事を長期休養しているんだとか。私はそれを聞いてそれもそうだろうと思った。母親なら自分の子供がああなってしまったら、尚更心配だろうから。
そして銀永くんの主な世話役は、先日の席案内のときから自然と副委員長が面倒を見るようになっていた。銀永くんの隣の席でもある彼女は授業中もサポートできるし。他のクラスメイトとは未だに喋れていない。というのも私たちの方から話しかけていないからだ。銀永くんは世話係の副委員長にさえ、口を効いたことがない。それぐらい無口なのだ。
しかし、今日ばかりはそうもいきそうにない。
「それじゃあ各自実験道具を準備して、取り掛かるように」
二限目に理科の実験があったのだ。しかも私は銀永くんと一緒の斑。他にも女子一人、男子一人の四人構成。こういう班での実験は、どうしたってコミュニケーションを取らなきゃやっていけない。
「私、ガスバーナー取ってくる」
「試薬計るね」
「そんじゃあ俺は…冬埼くん、一緒に試験管持ってこよっか」
男子生徒――千尋君に声をかけられ、銀永くんも実験器具を取りに行ってくれた。流石千尋君、基本誰とでも話せる癒し系キャラなだけはあるなぁ。
***
銀永はクラスメイトの千尋君についていき、試験管と試験管立てを取りいくことに。実験室の前方の台には全ての器具が揃っており、クラスメイトたちが一点に集中して混みあっている。
「俺、試験管立てと試験管二本持ってくから、冬埼くん残りの三本お願い」
そう言われ取りに行こうとするも、クラスメイトたちの中に混じっていけず、中々取りにいくことができない。すると、棒立ちでいた銀永を見て、近くにいたショートカットの女子生徒が話しかけてきたのだ。
「…試験管欲しいの?」
首を縦に振って肯定の意思を見せた。
「これ持ってっていいよ。私は別の取りにいくから」
女子生徒はなんと自分の持っていた試験管を三本分けてくれたのだ。銀永は無表情でそれを見つめ、ゆっくりとした動作で受け取った。
「…混んでると、中々取りにいけないよね」
そう言って笑う女子生徒に銀永はお礼のつもりなのか頭を下げて、無表情で自分の班の方へ戻っていった。試験管を譲ってくれた女子生徒がその後ろ姿に、眉尻を少しだけ下げていたのには気づかず。
***
銀永が学校に来る日、今までは午前から正午までの時間帯だったが、今日からは午後の三限目から放課後までになった。学校に通うようになって二週間経ち、最近はクラスメイトたちも少しずつ銀永へと声をかけるようになった。
そして今日は5時間目に体育の授業だ。しかも体育は合同授業で一組は五組と一緒に行う。合同と言ってもクラスごと基本分かれてはいる。しかし、銀永はこれまで一組のクラスメイトとしか過ごしたことがない。他クラスとの交流は初めてだ。
「今日はいつもと変えて、最後に一組五組でチームをシャッフルして試合をしてもらおうと思います。時間までは練習してください」
銀永は体育の先生の付きっきりでバスケのルールや、ボールの扱い方など初歩的なことから教わることになった。今まで運動を殆どしてこなかった銀永にとって、全てが初めてに感じた。しかし、
「そうそう、そうやってボールを投げて相手にパスする。あとはボールを床に落として―――?」
先生から直接指導を受けていた途中、それまで言うことを聞いていた銀永が突然動きを止めた。彼の視線はチームごとに練習を行っている一組の生徒たちにあった。クラスメイトたちが気になる様子の銀永に、先生はもしかしてと思った。
「皆と一緒に、練習したい?」
先生の言葉を聞いても銀永の表情は変わらない。しかし、先生へと再び顔を向けた彼の翡翠色の瞳は何かを訴えているようにも見えたのだ。体育の先生は今日初めて銀永の授業を受け持った。そのためあまり彼のことを知らない。今まで自分の意思を見せなかった銀永が、初めて自分の気持ちを表そうとした、とんでもない変化だったとしても。
「…小林くん!ちょっと来てもらえるかな?」
小林と呼ばれた一組の中でも小柄な男子生徒がやってきた。小林くんはクラスの男子で唯一のバスケットボール部だ。バスケの授業では自然と一組男子のリーダー的存在にもなっていた。
「今日は冬埼くんを小林君のチームに入れてもらいたいんだけど、できそう?」
「あ、はい。別に大丈夫っす」
「それじゃあ、彼のチーム練習に行ってもらっていいから」
その後、小林チームに入れてもらい、パス練習やゴール練習などを行うことになった。男子たちは銀永に手取り足取り、懇切丁寧に教えてくれた。
銀永も一度言われたことは直ぐ理解し、飲み込みが異常に早かったので、本当に今日が初めてかと疑うほど上達していった。
「こうやってボールを四角のテープ目掛けて投げる。やってみ?」
教わった通りに銀永が投げると、ボールが綺麗なカーブを描いてゴールポストに入った。
「おお!一発じゃん!すげぇ!!」
「銀永めっちゃ上手いな!」
「去年とはまるで違うわー、……あ、」
男子たちが絶賛を述べる中、一人の男子生徒が口を滑らせてしまった。それはクラスの中でも暗黙の了解になっていたものだ。XXのときの自分を銀永は知らない。今後思い出すことも難しいだろう。だからこれからは新たな人生を歩んでいくしかないのだ。
しかし本人の気持ちは分からないが、きっと誰しも自分の知らない“自分”を話されて良い気分になる者はいないと思う。
周りにいた男子たちの間に沈黙が走った。
「…えっとー、次はドリブル練習するか」
「そ、そうだね」
どこかぎこちない空気のなか、練習時間は過ぎていき、最後の練習試合の時間になった。
***
「銀永くん、今日は直ぐに帰る感じなの?」
掃除が終わってホームルーム前の少しの時間、今日の理科の授業で助けてくれたショートヘアの女子生徒がまたも銀永に声をかけてくれた。彼女の後ろには背の高い女子も立っている。
銀永はそれに対し、少し首を傾げる。いつも母は授業が終わると校門前で待っててくれるため、銀永は普段時間について早いや遅いなど考えたことはなかったのだ。
「もし時間あるなら、放課後、部活見に来ない?」
それはまさかの話だった。放課後に部活動が行われていることは事前に先生たちから教えられていた。しかし、まず学校に慣れることが目標の銀永にはまだ先の話だと思っていたため、そもそも本人は授業だけ受けて帰るだけの日々だと思っていたぐらいだ。
「私と彩芽、同じ卓球部なんだけど…銀永くんそういうの興味あるかなって」
「時間はそんな取らせないから」
「ちょっと覗くだけでもいいし」
どうしてこの二人はこんなに自分を誘ってくれるんだろうか。銀永は突然の話に内心驚きで一杯だ。
「……お母さん…、相談…して、みる…」
自分一人だけで判断することはできない。それに迎えに来てくれる母を待たせるわけにもいかない。先ずは母に聞いてみてからだった。
「全然いいよ。もし来れそうなら……えっと」
「時間気にしなくていいんじゃない?上松先生も自由に来ていいっていう感じだったし」
「そうね。私たち、今日第二体育館でやってるから、気軽に来てね」
やや早いテンポで話を進められたが、とりあえずホームルームが終わったら母に聞きに行くことが自分のやるべきことだと、銀永は頭の中で確認していた。
***
「いいよいいよ、行ってきな。折角誘ってもらったんでしょ?見にいっておいで」
「……帰りって…」
「携帯でメールでも、電話でも何でもいいから連絡してくれればいいよ」
実家に帰る前、両親からは携帯を渡されていた。もし母たちのいないところや、どこで何があっても連絡できるようにということからだった。本来は学校に持ってくることは禁止なのだが、事情が事情なので、先生たちも基本的に学校内で使用しなければ良いということで了承してくれた。
「私は近くの駐車場に車停めて待ってるから、終わったら呼んでね」
***
母にも勧められ見学に行くことを決意したのだが、早速問題が発生していた。あの時、彼女たちは確か“体育館”と言っていたと思うから、授業でも使ったことのある学校内の体育館にやってきたというのに、何故か卓球部がいない。体育館内にはバレー部とバスケ部だけ。どうしてだ。
まさか嘘をつかれたのか…?でも嘘なんてついて何の利益があるというのだ。分からない。