関東大会の一回戦で横浜港北高校に負けた私たち青道野球部は、本格的に夏大会に向けて動き始めた。

用具倉庫の片付けを終えて、仕事もひと段落したので食堂に向かおうとしたときだった。プレハブの方から大きな音が聞こえてきた。
驚いてプレハブの方へ視線を向ければ、勢い良く扉が開いて御幸が出てきた。離れていて良くわからないけど、何かあったのは明白だった。こちらに歩いてくる御幸の苦虫を噛み潰したような表情を見て、思わず固まってしまう。
そんな巴に気がついた御幸が一度足を止めた。しかしすぐに巴のもとまで歩み寄ってきた。スポーツサングラスの下の瞳には、怒りと悔しさが滲んでいる。

「…どうしたの」

そして何も言わず、巴の腕を掴んだ御幸はずんずんと歩き始める。なんと声をかけるのが正解なのかわからず、足早に進む御幸の背中を見つめながら追いかけた。掴まれている腕がすごく熱かった。
御幸に連れてこられたのは、Aグランドのブルペンだった。もうすでに部員たちはグランドから寮の方へと引き上げているので、巴と御幸しかいない。明かりがなくて暗く、とても静かなこの空間で、二人の小さな息遣いだけが鼓膜を震わせていた。

「わりぃ」

普段の飄々とした人物からは想像つかない情けない声を出す御幸に、そっと抱きしめられた。一回り以上大きな御幸の体にすっぽりと埋まった。土と汗と御幸自身の匂いに包まれる。巴はおもむろに御幸の背中に手を回して、小さな子供をあやすように優しく撫でる。御幸は小さくぴくりと反応したあと、少し背中を丸めて彼女の髪に顔を埋めた。こんなに大きな体をしているのに、まるで小さな子供のようだ、と巴は思った。

「…わるい」

落ち着きを取り戻してきたらしい御幸がゆっくりと巴の体を解放しながら、また小さく謝った。御幸の暖かな体温が離れていき、途端に体が冷たくなっていくのを感じる。そうして、すぐそばにあるベンチへ誘導した。素直に腰を下ろした御幸は、気まずそうに首裏を触りながら持っていたスコアブックを開いたり閉じたりする。他人に弱さを見せたがらない御幸のことだから、羞恥や戸惑いでいっぱいなのかもしれない。

「何かあったんでしょう?」

長年の付き合いから、きっと御幸からは絶対に話してくれないと踏んで、巴からそう問うた。御幸は「あー……」と呻きながら、パタンとスコアブックを閉じた。

「沢村の言葉にカッとなって……キレたんだけど、でもあれは沢村が……いや、やっぱ……あー、くそ」

髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す御幸はまた「あー」と呻き始める。きっと沢村の何気ない言葉が御幸の琴線に触れてしまったんだろう。大方、クリス先輩のことだろうと思った。
最近三年生のクリスと沢村は、バッテリーを組み始めた。去年の夏前に怪我で戦線離脱したクリスのことをいろいろ勘違いしている一二年生は多い。特に何も知らない一年生で、真っ直ぐで素直な沢村がクリスのことを勘違いしていても不思議ではない。御幸にクリスを侮辱するようなことを言ってしまったんだろう。
御幸にとってクリスは、誰よりも尊敬している人で越えたい存在でもある。だからこそ、珍しく感情が抑えきれなかったのだ。

「御幸、大丈夫だよ」

自分の仮定があっているなら、きっと沢村は今頃自分の間違いに気がついているはずだと。沢村は自分の間違いをちゃんと受け入れて反省し、正せる子だと思っているため。スコアブックの上で拳を握る御幸のその手に自分の手を重ねた。

「きっと御幸が怒った理由を、沢村はちゃんとわかるはずだよ」

だから大丈夫、とできるだけ優しく微笑んだ。御幸は少し驚いたように目を丸くした。その表情を見て自分の仮定は大方間違いじゃなかったと思った。「月代には敵わねえなー」と眉を下げて力なく笑う御幸は、手の甲に乗せていた彼女の手を取ってギュッと握りしめた。

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