20 弓手町駅A
遠くで蝉が鳴いている。
ここはちょうど日陰だが、あと数歩行けばじりじりと照りつける太陽の餌食になるだろう。
視線を上げれば、飛行機が入道雲の前をゆっくりと横切っていく。
肌にまとわりつく空気は生温く、どこか夏の匂いがした。
日も高くなってきた昼過ぎ。何の前触れもなく、迅に散歩に誘われた。
今は夏真っ只中である。窓から外を見れば、暑さで地面が揺らいで見えた。この中散歩に行くとなると健康に害を及ぼすのではないだろうか。
冗談かと思ったが、迅の表情は少しも変わらない。いつも通りの顔で、俺の目の前に立っている。
どうしたのかと理由を聞こうとしたが、すんでの所で思いとどまる。はたして、迅は何の考えも無しにこんなことを言うだろうか。
知り合ってまだ四ヶ月ほどだが、今までの彼を見る限り、理由も無く突飛なことを言い出すようには思えなかった。
俺は黙って首を縦に振った。
散歩なんて気軽な雰囲気では無かった。
どこかを目指して黙々と向かう迅を見て、これはこれはいよいよ何か目的があるのだろう確信する。
何度か通った道であるため、目的地は容易に想像できたが、その理由までは分からなかった。玉狛では話しにくいことでもあるのだろうか。そんなことを考えながら、やけに口数の少ない迅の隣を歩いた。
また少し、胸がざわついた。
辿り着いた場所はやはり弓手町駅だった。
迅はいつかのようにホームに備え付けられたベンチに腰掛けた。俺も促され、その隣に腰を下ろす。
じわりと滲んだ汗で額に張り付いた前髪を整えつつ、横目でちらりと伺う。迅は真剣な顔でどこか遠くを見つめていた。……俺と同じ炎天下を歩いてきたはずなのに、迅は汗一つかいていない。
「……なあ、迅」
「どうした?」
「どうしたも何も、なんで俺をここに連れてきたの?」
「散歩なんだし、何となくだよ。特に理由はない」
迅は何でもないように答えるが、いつも通りのペースの中に、ほんの少しだけ違和感を感じた。
「何か理由があってここに来たんじゃないの」
「……どうしてそう思ったの?」
「ふらっと立ち寄ったって感じじゃなかったし。……それに、迅は意味の無いことをしないと思ったから」
俺がそう断定したのを聞いて、迅はへらりと笑った。
「……やっぱりバレたか」
迅はぐっと伸びをしながら、「自分でも無理があると思ったんだよね」と呟いた。そして息を一つ吐いた後、先程とは一変し、真剣な顔で俺の名前を呼んだ。
「夜坂」
「なに?」
「元の世界に帰りたいか?」
しっかりと目を合わせて告げられた言葉に、一瞬、時が止まったような気がした。気を抜くと真夏の空のような瞳に吸い込まれそうだ。
「……帰りたいよ。うん、帰りたい」
俺の声は震えていなかっただろうか。
どくどくと脈打つ心臓の音がやけに煩い。
「もしかしたら今日――夜坂は帰ることができるかもしれない」
帰ることが、できる……?本当に?
何も言葉が出てこない俺に、迅は言い聞かせるように「落ち着いて聞いてほしい」と伝える。
「実は少し前から、玉狛に夜坂がいない未来が見え始めていたんだ」
――最初は本部移動になったのかと思ったけど、何だか少し違うみたいだった。
日ごとに未来がはっきり見えるようになって……一週間くらい前かな。今日、弓手町駅で夜坂と別れる未来が見えた。
それで、ああ、夜坂は帰ったんだって確信した。
けれど、今日ここで別れてからの夜坂の未来が全く見えない。
理由は分からないけど、もしかしたら夜坂がこの世界の人間じゃないからなのかもしれない。
ここでの夜坂の存在はイレギュラーだ。
本来ならば、夜坂はこっちの世界の未来の分岐に関わることのない存在なんだよね。
今、夜坂の未来が見えているのは、現在この世界に存在していて、こっちの未来に干渉することができるからなんじゃないかな。
だから……存在がこの世界から離れれば元通り。
夜坂は二度とこの世界の未来には干渉しないことになるから、この世界に関係のない人間の未来は見えなくなる……ってことなんだと思う。
そう言うわけで、夜坂がちゃんと帰れるのか、それとも途中で何かトラブルが発生するのかも分からない。
安全に帰れるって保証は無いんだ。
どんな理屈で夜坂の世界と繋がるのか不明だ。それに、一度見えた「夜坂が帰る」という未来が変化しないとも限らない。
何が引き金になるのか分からないから、今日のことは上層部の間で秘密裏に計画されていたんだ。
「みんなと一緒に玉狛で生きる未来もある。わざわざ危険を冒す必要もない――それでも、夜坂は行きたいと思う?」
迅は落ち着いた声色で問いかけた。
元の世界に帰る。
こんなチャンスはもう二度と無いかもしれない。けれど、果たして無事に帰れるのかも分からない。
俺は拳を握りしめた。
「……それでも、元の世界に帰ることが出来る可能性があるなら――俺は試してみたい」
はっきりと自分の意思を伝えると、迅はゆっくり微笑んだ。
「……うん、そう言うと思った。脅すみたいな言い方して悪かったな」
「いいよ、別に。俺のことを心配して言ってくれたんでしょ?ありがとう」
素直に礼を言えば、少し困ったように笑った。
「おい、お前ら。話は終わったか」
「林藤さん?」
何かを片腕に抱えた林藤さんが、改札の方からやってきた。
「……あ、それ」
「夜坂の鞄だ。これが無いと困るだろ?」
林藤さんが持っていたのは、俺がこちらに来た時に一緒に持ってきたトートバッグだった。受け取って中を確認すると、新品同然の教科書やノート、筆記用具のほかに、スマホと初日に着ていた服が入っていた。
「お前らが玉狛を出た後にまとめておいた。勝手に部屋に入って悪かったな。ちゃんと揃ってるか?」
「……はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「そうか、なら良かった」
林藤さんにぽんぽんと頭を撫でられる。この歳で撫でられるなんて思ってもいなかったので、少し照れ臭くなり、視線を逸らしてバッグを抱え直した。
林藤さんは俺たちが駅に向かっている間に荷物をまとめ、その後車で追いかけてきたようだ。
「夜坂、時間みたいだよ」
迅が指す方を見ると、見慣れた車両が近づいてくるのが確認できた。それは音もなくやってくると、俺たちの前で停車した。
「……こりゃ驚いたな」
林藤さんが苦笑いを浮かべながら、まじまじと車体を見つめる。
間違いない。俺が通学で利用していた電車だ。
ゆっくりとドアが開いていく。
「後のことは俺たちが何とかする。だから心配しないで行ってこい」
「ほら、早く乗りなよ」
「あ」
迅に、とん、と背を押される。バランスを崩した俺はそのまま電車に乗り込んでしまった。
急いで振り返ると、閉じていくドアの向こう側で二人が手を振っていた。
「ありがとうございました」
最後の礼はちゃんと届いただろうか。
どんどん通り過ぎていく、ほんの少し滲んだ景色を眺めた。
八月十五日 午後三時半ごろ
弓手町駅にて
弓手町駅にて