21 帰路


 車の排気音。
 忙しない雑踏。
 機械的なアナウンスと発車のベル。

 それらをぼんやりと聴き、水面を漂うかのような浮遊感に身を任せていたが、不意に何かが右肩にぶつかり一気に現実へと引き戻された。

「……あ」

 やけに重い目蓋を開けると、そこには待ち望んだ景色が広がっていた。


 弓手町駅で迅と林藤さんに別れを告げ、電車に乗ってからの記憶が曖昧である。無事に帰ることができるよう祈りながら、座席に腰を下ろして、それから――。

 俺はいつの間にか往来のど真ん中に突っ立っていた。行き交う人々は不思議そうな顔でこちらをうかがっている。
 通行の邪魔にならないように道の端に避けつつ、きょろきょろと辺りを見渡す。堂々とそびえ立つボーダー本部も、あちらこちらに掲示されていた警戒区域の張り紙も見当たらない――ここは間違いなく、俺の住んでいた街だ。

 振り返れば見慣れた駅舎がある。ちょうど電車が到着したようだ。改札からは会社員や学生達が押し寄せ、少しがさついたアナウンスが繰り返されていた。
 
「帰って、来たんだ」

 懐かしい空気に包まれ、俺は元の世界に帰ることができたのだと実感した。
 けれど、息をつくにはまだ早い。
 俺は緩んだ涙腺をなんとか堪えて走り出した。

 

 風を切っていく感覚が心地よい。背中に張り付くシャツも、首筋をつたう汗も、普段なら煩わしいはずなのに今はなにも感じない。
 こんなに走ったのはいつぶりだろうか。
 なり振り構わず駆けていく俺に、周囲の人々は目を丸くしながら振り返った。

 最後の角を曲がると、弟がちょうど自宅の門をくぐるのが見えた。部活帰りなのだろう、少し汚れたジャージ姿の弟は、俺が駆けてくるのに気がついて立ち止まった。
 少し身長が伸びただろうか。やっぱり三輪くんとそっくりだ。そんなことを思いながら息を整え、数ヶ月ぶりに再開した弟にどう言葉をかけるべきか思案する。言いたいことは沢山あったはずなのに。本人を前にすると頭の中がぐるぐると渦を巻き始め、なにも言葉が出てこなかった。
 俺が落ち着くよりも早く、弟が「あの、」と声をかけてきた。

「どうかしました?」
「……え?」
「慌ててるみたいですけど……何かあったんですか?」

 じり、と半歩ほど後退しながら、弟はおずおずと尋ねてくる。その表情には明らかな警戒の色が浮かんでいた。途端に頭の中が真っ白になり、はくはくと浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
 数ヶ月会わなかっただけで、実の兄のことを忘れるだろうか――違う、忘れているのではない。まるで今日初めて俺と会ったかのような口ぶりだ。
 話し声が聞こえたのだろう、玄関の戸が開き、母親が様子を見るために顔を覗かせた。その姿は数ヶ月前と何の変わりもない。けれど、その顔は数ヶ月ぶりに息子に会った、という表情ではなかった。
 ちらりと表札を確認するが、そこにはしっかりと『夜坂』の文字が刻まれている。俺が十数年住んだ家を間違えるはずもないし、目の前の二人も、俺の記憶の中の弟や母の姿と相違ない。
 どくん、と心臓が大きく脈打った。

「……あの、一つ聞いてもいいですか」

 俺は、やっとの思いで掠れた声を絞り出した。

「この辺りに『夜坂時雨』という方がいるか、ご存知ですか?」
「……夜坂?母さん、この辺にうちと同じ苗字の家ってあった?」
「どうだったかしら……私は心当たりが無いけど……」

 顔を見合わせる二人に、俺の中で何かがばちんと弾ける音がした。
 挨拶もそこそこに、俺は二人に背を向けて駆け出した。

――夜坂はさ、この世界の人間じゃない気がするんだよね。
――夜坂は近界民侵攻の無かった……もしかしたら、それよりも前の分岐なのか?とりあえず、こことは違う進み方をした世界から来たんじゃないかって考えてます。

 頭の中で迅の言葉が反芻され、一つの答えが導き出された。
 ここはきっと、最初から『俺が存在しない世界』なのだ。

 俺は強ばる足を必死に動かし、逃げるように一心不乱に走った。


* * *


 無我夢中で走り続け、気がついたら見知った公園に着いていた。幼い頃、弟とよく一緒に遊んだ公園だ。子どもたちのきゃいきゃいとはしゃぐ声を聞きながら近くのベンチに座った。

 帰ってきたと思ったのに。やっと家族に会えたと思ったのに。俺が最初『近界民の侵攻があった世界』に飛ばされたように、今回は『俺が存在しない世界』に来てしまったのだ。
 振り出しに戻ってしまった……いや、状況から考えると、マイナスなのかもしれない。ここには迅も、ほかの玉狛のみんなも……俺を助けてくれる人は誰もいない。
 迎えに来た親に手を引かれ、子どもたちが一人また一人と家路に着く。数分も経てば、俺は静けさに包まれた公園に一人残された。



 どれぐらい経っただろうか。どこからともなくひぐらしの声が聞こえ始めた。

 膝を抱えた拍子に何かがポケットからするりと抜け落ち、からからと地面を滑る音が聴こた。音の方向にゆっくりと手を伸ばすと、指先に硬い感触が触れる。
 拾い上げたのは、向こうで寺島さんから貰ったスマホだった。ほこりを払い電源ボタンを押してみるが、予想通り。画面は暗いままだ。

 冷たい板に成り下がったスマホを指先でいじりながら、向こうの世界のことをぼんやりと考えた。

 そういえば、城戸さんや本部の人たちにも挨拶せずに来てしまったが大丈夫だろうかと思ったが、別れ際の迅と林藤さんの「後のことは俺たちが何とかする」という言葉には、こういうことも含まれていたのだろうな、と今になって理解した。

 出水くんに勉強を教える約束をしてたのに、破ってしまったな。それに、三輪くんに謝罪できていないし、気を遣ってメールをくれた米屋くんにも直接お礼を言えていない。本部を案内してくれたあの子の名前も聞いていない。
 なにより、あんなにお世話になった玉狛の皆に何も言わないまま出てきてしまった。迅は「上層部で秘密裏に計画されていた」と言っていたから、きっと皆はこのことを知らないのだろう。

 せっかく、迅がチャンスを作ってくれたのに。
 ぽろぽろと溢れるのは後悔の言葉だった。こんな時に、黙ってうずくまることしか出来ないなんて。

「……違う、このままじゃ駄目だ」

 あの時、迅が用意してくれた選択肢の中から、最終的に「可能性があるなら」とこの未来を選んだのは俺なのだ。
 自分で選んだ未来なのに、自分が諦めてどうする。

 このまま膝を抱えているだけでは、一番の目的である「元の世界に帰る」こともできないままだ。

 一か八か。
 ここでうずくまっているよりは進展があるだろうと思い、スマホを握りしめて立ち上がった。



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