23 夜坂時雨A
夜坂は冷静なやつだ。
いきなり別の世界に飛ばされ、訳も分からないだろうに。おれの説明を聞いた夜坂は、動揺したものの、特に取り乱すことなく現状として受け入れていた。
頭の回転も速く、こちらの世界の事情やおれのサイドエフェクトの理屈を把握するのに時間も掛からなかった。
だから、最初は歳の割に落ち着いているやつだなと思っていたが、夜坂は考えていることが顔に出やすく、意外と表情豊かで素直な人間であることを後から知った。
夜坂は気丈なやつだ。
彼は常に元の世界に帰ることを考えていた。
けれど、身一つで来た彼には帰るための方法を探す手段も技術もない。何もできない自分に歯痒さを感じているようだった。
それでも夜坂は前を向いて今の自分に出来ることを考えていた。
玉狛では嫌な顔一つせずに自ら家事を手伝い、さらに一人で食事当番をこなせるようにと、レイジさんに料理を教わり始めた。今まで碌に料理をしたことが無かったという夜坂は「慣れると意外と楽しいよ」と笑っていた。
だからこそ、そんな夜坂が泣いていた姿がひどく記憶に残っている。
あれは確か『鳩原未来』の件の時だ。夜坂が本部に呼び出された次の日、彼は珍しく寝坊した。「おれが起こす」と張り切る陽太郎が夜坂の腹にダイブする未来が見えたため、おれは陽太郎をやんわり引き留め、代わりに彼の部屋へと足を運んだ。
ノックをしても返事は無かった。荷物が少なくがらんとした薄暗い室内に入り、夜坂の元へ向かう。
体調でも崩したのだろうかと顔を覗き込むと、こちらを向いて眠る夜坂の目元が濡れていた。
この世界には夜坂の家族も友達もいない。気を張らずに休める自宅もない。この世界で『夜坂時雨』という人間を証明できるのは、彼自身の存在しかないのだ。
頭のいい夜坂のことだから、本部の人間から自分が『鳩原未来』と関係があるのか疑われていたことに気が付いてしまったのだろう。さらに、異世界へ消えた隊員の話を聞いてしまったら嫌でも元の世界のことを思い出すはずだ。
夜坂はおれ達の前ではいつも気丈に振る舞っていた。けれど、本当は不安やら緊張やらで張り詰めていて、追い討ちのように今回の事件が重なってしまったのだ。気が付けなくて悪かった。睫毛に溜まった涙をそっと拭うと、夜坂は身じろぎ、ゆっくりと瞼を上げた。
「お、やっと起きた」
顔を覗き込んでいたおれに驚いた夜坂は、後ろの壁に頭をぶって枕に沈んだ。……ごめん、これは読み逃した。
痛むだろう頭を撫で、わざとらしくならないように注意しながらどうしたのか尋ねてみる。が、曖昧に笑う夜坂は「大したことじゃないよ」とはぐらかした。
もともと口数が多い方ではない夜坂は、思っていることをあまり口に出さない。物事を自分の中で完結させてしまう節があった。
おれ達に迷惑をかけまいとしているのだろうか。遠慮せずに、少しくらい頼ってくれてもいいのに。
まあ、今回については大体検討はついているし、夜坂が言いたくないのであれば無理に聞き出す必要もない。夜坂が自分から話せるようになるまで待つことにした。
その後、夜坂は「そうだ」と声を上げ、サイドテーブルに置いてあった本部支給のスマホをいじり始めた。急にどうしたのかと思えば、昨晩玉狛の隊員と連絡先を交換したが、その場にいなかったおれの分だけ登録できていないから教えてほしい、とのことだった。
さっきまでの空気は何処へやら。すっかりいつものペースに戻った夜坂は、やっぱり強いやつだと思った。
夜坂が元の世界に帰る未来が見えた。
最初に気がついたのは陽太郎の未来を見た時だ。
陽太郎と夜坂が一緒にいる姿をよく見かけるが、ある日を境に、陽太郎の未来から夜坂の姿がなくなっていた。それから他の隊員の未来を見てみるも、似たり寄ったりで真相は分からなかった。
八月に入って数日経ったある日のことだった。いつものように起床し、キッチンで朝食を作る夜坂と顔を合わせたその時。弓手町駅のホームで電車に乗り、そのまま車両とともに消えていく夜坂の未来が見えた。不安定な未来だったが、夜坂はきっと、近いうちに元の世界へ帰るのだろうと確信した。
夜坂の未来を見てきっかけを探ったところ、どうやら秀次が関係しているらしい。
何故、それほど関わる機会のない秀次が?と疑問だった。けれど、「本部のラウンジで秀次と何か言葉を交わすこと」が「元の世界へ戻る未来」につながっていることは確かである。
それから数日、関係する人物の未来を見て回った。夜坂が秀次と遭遇するのは、開発室で行われている夜坂の定期検査の日のようだ。
本部のラウンジで和やかな雰囲気で米屋たちに勉強を教えている未来が見えたが、問題はそのあと。その日は確か、A級部隊の会議が開かれる予定である。隊長である秀次は会議終了後、自隊の隊員たちと合流するためにラウンジに向かう。そこで秀次と夜坂が鉢合わせするのだ。気になったのは、その時の夜坂の態度だ。秀次と顔を合わせた途端、そわそわと落ち着かない様子になる。
その後、二人は一言二言会話をするが、近くで話を聞いていたのだろう米屋の表情から察するに、あまり良い内容ではなさそうだった。
おれはその日、本部に待機し、秀次のいないタイミングを見計らって米屋と会った。それとなく何があったのか尋ねると、米屋はばつの悪そうな顔を浮かべながら事情を説明する。
話を聞いて、おれの中でやっとピースが繋がった。
その翌日。おおよその準備が整い、おれは夜坂の様子を伺うため一度玉狛へ帰った。
おれのサイドエフェクト通りならば、夜坂が帰るのは明日だ。
基地に戻ると夜坂はキッチンで陽太郎のおやつを作っていた。珍しくお菓子を作っていたためレシピはどうしたのかと聞いてみると、夜坂はもともと覚えていたものであると答えた。弟が小さい頃によく作っていたのだと懐かしそうに笑った。きっと夜坂にとっての思い出の味なのだろう。
「夜坂」
――元の世界に帰りたい?
喉元まで出掛かった言葉を、おれは紅茶と一緒に流し込む。
先程夜坂の未来を見たところ、彼が明日帰る未来はほぼ確定していた。昨日の一件によって、夜坂の中で「元の世界に帰る」という決意がより一層固まったようだ。
下手に口を出して夜坂の意思が揺らいでしまったら、この先に続く未来はどうなるのか。元の世界へ帰るチャンスが再び訪れる保証なんて無いのだ。
「……いや、やっぱり何でもない」
夜坂の訝しげな視線を感じながら、おれは本部へと戻る支度を始めた。
遠くから帰宅を促す放送が聴こえる。
忙しない雑踏を眺め、いつも通りの街の様相に安堵した。
夜坂が帰ったことにより、こちらの世界に何か影響はあるのかと危惧していたが、どうやら杞憂だったようだ。
さて本部に戻ろうか、と大きく伸びをしたその途端。
「……え?」
まるで壊れたテレビが息を吹き返したかのように、突然未来が見えたのだ。
まさか。
おれが踵を返したと同時にポケットのスマホが震える。
『迅!』
スピーカーからは珍しく焦っているボスの声が聞こえた。
「おれも見えた。今から戻るよ」
『分かった。俺は車で向かうが途中で拾うか?』
「……いや、大丈夫。トリオン体だし、この距離なら走った方が早い」
簡潔に話を済ませ、おれは弓手町駅へと駆け出した。
先程いきなり見えた未来と寸分違わず、薄暗いホームのベンチに、夜坂が背中を丸めて座っている。俯いているためここからだと表情がわからない。
トリオン体だから走っても息切れなんてするはずないのに、何故だかやけに息苦しい。
「夜坂!」
夜坂は祈るように両手でスマホを握りしめていた。駆け寄って肩を軽く揺すると、ゆっくりと頭が持ち上がる。朦朧としている夜坂は数度まばたきし、揺れる瞳がおれを映した。
「……迅?」
「ああ。一体なんで……」
送り出したはずの夜坂が、何故ここにいるのだろうか。
何があったのか尋ねると、夜坂はぽつりぽつりと言葉をこぼした。
「俺のいた街にそっくりな場所に着いて……やっと元の世界に帰れたんだって思った。…でも、そこも別の世界だったんだ。俺の家族と同じ姿の人たちがいた……けど、その人たちは俺のことは分からなかったみたい。だから、俺が辿り着いたのは……『俺が生まれてこなかった、俺が存在しない世界』なんじゃないかな」
途切れ途切れに伝えられる内容に、おれは言葉がうまく出てこなかった。
「もう一度電車に乗れば、もしかしたら戻れるんじゃないかって思って。……迅は、俺のこと分かる?」
「……うん、ちゃんと分かるよ。おまえは夜坂時雨だ」
「よかった」
夜坂は力なく微笑むと再び俯いてしまった。
その足元に、ぽたぽたと小さな染みが滲んでいく。
「迅が、みんなが、チャンスを作ってくれたのに……。ごめん、失敗したみたいだ」
そう言って、夜坂は顔を伏せたまま嗚咽を漏らした。
落ち着かせるため頭をゆるゆると撫でれば、夜坂はおれのシャツをそっと掴んだ。
その手は微かに震えていた。