32 嵐山准


 いつもよりも早い時間に鳴り響くアラームを止めて、もぞもぞと布団から這い出る。
 窓を開けると途端に冷たい風が部屋に流れ込み、思わず身を縮めた。

「……さむ」

 今日はまた一段と冷えるようだ。
 クローゼットから厚手の服を引っ張り出し、未だしょぼしょぼする目を擦りながらキッチンを目指した。


「あ、おはよう」
「おはよう……何だかいいにおいがるする。コーヒー?」

 あくびをしながらリビングに入ると、ふわりと鼻腔をくすぐるいい香りがした。迅がマグカップ片手に椅子に腰掛けている。
 
「はい、夜坂の分」
「ありがとう」

 差し出されたマグカップを受け取り、迅の隣に座る。タイミングを見計らったかのように飲み頃だ。一口含めば、心地良い苦味でだんだん頭がすっきりしていく。





「夜坂、犬すき?」
「い、犬……?」

 事の初めは昨晩の迅のひと言であった。
 自室に向かう途中、にゅっと姿を現した迅に俺は首を傾げる。迅が唐突なのはいつものことなのだが、それにしても意図が読めない。
 にこにこと答えを待つ迅の顔をしばらく見つめてみたが、考えるのをやめた。

「犬好きだよ。というか動物全般好き」
「良かった。明日の朝、というか早朝なんだけど、犬の散歩に行くんだ。夜坂も行く?」
「うちに犬なんていたっけ。雷神丸じゃなくて?」

 犬の散歩。
 玉狛にいるのは犬ではなくカピバラである。もう一度首を傾げて尋ねると、迅はきょとんとした顔のあと、ほんの少しだけ、嬉しそうに小さく笑った。

「ああ、雷神丸じゃなくて犬だよ」
「うーん?全く話が見えないけど、とりあえず俺も行くよ」

 俺の答えに満足そうに頷いた迅は、明日の時間だけ伝えて去っていった。
 こういう時は何かしらのイベントが発生するのだ。最近そう考えることにしている俺は、深入りはせず言われた時間に携帯のアラームをセットしたのだった。


 玄関から一歩外に出ればひゅっと冷たい空気に包まれる。

「それで、どこにも犬なんていないけど……。本物の犬なんだよね?」
「本物の犬だから安心してよ。もうすぐ来るから。ほら、寒いからこれ着て」
「わっ」

 まさか何かの比喩表現なのではないかと疑い始めた俺に、迅は笑いながら頷くと、俺の頭にばさっと何かを被せてきた。

「なんだこれ……あ、コートだ」
「夜坂、冬服持ってないでしょ。おれの貸すから風邪ひかないようちゃんと着てね」
「あ、ありがとう」

 いつの間に用意したのか。
 渡されたコートに袖を通すが、少し余ってしまった。
 同い年なんですなのにこんなに体格差があるなんて。しばらく測っていないけれど、俺の身長が伸びている気配が無いのだ。というか、この世界の同年代の発育が良すぎるだけなのかもしれない。そうであってほしい。
 先に支度を終えた迅が不思議そうに俺の行動を見ている。

「夜坂?変な顔してどしたの?」
「……いや、迅っておっきいんだなと思って」

 ほら、と前へならえのポーズをしてみれば、ゆったりとした袖はすっぽりと手の甲まで覆っていた。

「……何笑ってるの」
「……っはは、悪い悪い。あとで一緒に冬服買いに行こうか」

 ちょっとイラッとしたが、俺の袖を捲りながら迅は楽しそうに笑っていたので許すことにしよう。

「それまでにお給料もらえるように頑張るよ」
「別に服くらい買うのに……。お、そろそろだな」
「……迅!」

 遠くの方から人を呼ぶ声が聞こえた。
 朝のしんとした空気に、弾むような駆ける音が響く。

「あ、嵐山さんと……犬だ」
「ちゃんと犬だっただろ」
「?、なんの話だ……?」

 嵐山さんの先を一匹の犬が走っている。
 事態が飲み込めていない嵐山さんは首を傾げるが、迅が気にするなとばしばし肩を叩いていた。

「ん、あれ。もしかして、コロ?」

 見覚えのある顔、というか首輪に尋ねれば正解だったようだ。
 首を傾げる二人をよそに、コロは「わん」と大きな声で応えてくれた。

「じゃあ、あの姉弟は嵐山家だったのか」

 以前買い物に行った時に、犬のおもちゃが木の枝に引っ掛かってしまった姉弟に遭遇し、助けたことがあった。それからは会えば話をするくらいの仲である。
 言われてみれば嵐山さんに似ていたなぁ、なんて思っていると、当の嵐山さんが不思議そうな顔でこちらを見ていた。

「副と佐補が親切なボーダー隊員に助けてもらったと言っていたが、夜坂のことだったんだな。改めて礼を言わせてくれ!」
「なんでボーダー隊員……て、ああ、服のロゴか。ううん、大したことないし、気にしないで」

 嵐山さんに熱烈にお礼を言われ、戸惑いつつも首を横に振る。
 そんな光景を迅は微笑ましそうに見守っていた。

「そろそろ行こうか。コロも待ってるし」

 

 他愛無い話をしながら河川敷を歩いていく。朝の空気と川の音が心地よくて、たまには朝の散歩もいいものだ。
 迅と嵐山さんはかなり以前から付き合いがあるようで、共通の友人の話題や地域の話で時々盛り上がっている。
 
 そんな光景を見て自分を重ねてしまい、ほんの少しだけ、ちくりと痛んだ。 

 友人たちは元気だろうか。
 居なくなった俺を心配してくれているだろうか。

「……夜坂?」
「あっ、ごめん、なに?」
「今度は夜坂も京都に一緒に行こうって話。どしたの?眠い?」
「ううん、大丈夫」
「……すまない、夜坂」

 少しだけ開いた距離に慌てて駆け寄る。しゅんとした嵐山さんが申し訳なさそうに謝った。
 イケメンはどんな顔しててもイケメンだなぁ、なんて思いながら嵐山さんを見上げる。

「どうして?」
「無理矢理散歩に付き合わせただろう」
「気分転換になってるから大丈夫だよ。それに、散歩は迅が昨日の夜に突然言い出した事だし」
「え?」
「……ん?」

 俺と嵐山さんで顔を見合わせて固まる。
 その後、嵐山さんはにやりと笑みを浮かべる迅に視線を向ける。

「迅、俺から誘ったと伝えてないのか?」
「いや〜、夜坂の反応が面白くてつい。それに、夜坂は誘えば大体着いてきてくれるから」

 視線が迅から俺に移る。

「うん、俺も今知ったよ。急に犬の散歩に行こうって言い出したから何かと思ったけど」
「よくその言葉に乗ってくれたな」
「だって迅は意味のないことはしないから」
「確かに、それもそうだな」

 俺の言葉に強く頷く嵐山さん。彼も過去に覚えがあるのだろう。

「二人とも変なとこで意気投合しないで。……それで、嵐山。夜坂に何か言うことがあるんじゃなかった?」
「俺に?」
「ええと……俺と友達になってくれないか!?」

 迅に肘で突かれてしばらくソワソワしていた嵐山さんが、突如としてバッと手を差し出してきた。
 なんだこれは。
 人気のない河川敷で、イケメンが頬を赤らめながら手を差し出している。ドラマの告白シーンさながらの光景だが、如何せん登場人物が野郎しかいない。

「えっと……?」
「嵐山ね、いつまでも夜坂が『嵐山さん』って呼ぶから、どうやったら仲良くなれるか悩んでたんだよ」
「迅!」
「こういうのは全部ぱーっと言っちゃう方がいいと思うよ」

 いつもの慎重な暗躍とやらはどこへ、迅はやたら雑なアドバイスを送り親指をグッと立てている。
 とりあえず、俺は目の前の手を握り返した。

「いいよ……、というか俺は元から友達のつもりでいたんだけど……」
「!、本当か!」
「うん。でも、ずっと『嵐山さん』だったのはごめん。テレビに出てた人だー!って思ったら緊張して、それが定着してた。改めてよろしく、嵐山」

 そう言うと、嵐山さんは犬の尻尾の如く繋いだ手をブンブンと振った。

「それにしても、随分とサイズの大きな上着を着ているんだな」
「それはあまり突っ込まないで」



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