ああ、なんてやさしい未来/迷う


 無表情に並ぶ街路樹。勤めているクリニックがこの先にあるため、すっかりお馴染みとなったこの通りを早足で靴をコツコツと鳴らし歩いていた。今日は本当は非番の日だ。しかし、一刻も早く院長に会い、退職を伝えなければならなかった。辞める理由は何て言おう? あと、この傷だらけの顔や体も、なんて説明しよう。

 そう、私は、生きていた。まんまと、逃げ果せたのだ。力の差が歴然としていたあの場から、ヒソカを出し抜いて。

 私の能力は、簡単に言えば除念だ。どんな強さの念も一通り除念することができるが、その代償として、その念の強さに応じた外傷を与えなければならない、というものだ。

 ……ヒソカが知っていたのはここまで。もう一つの能力をヒソカに知らせていなかったからこそ、逃げることができた。念を外傷に変える力と、その逆、外傷を、相手の念使用を制約する呪いに変える力。相手の外傷が深ければ深いほど、長い間念を使えなくなる呪いを相手にかけることができるのだ。あのとき爪で頬につけた傷からなら、ヒソカの念使用を押さえ込むことができるのはせいぜい5分といったところだろうか。バンジーガムを解き、窓から逃げるためには、十分すぎる時間だったと言えるだろう。相手の意表を突いてその隙に行動を起こすのは、ヒソカの十八番だ。一度くらい、拝借してもいいだろう。(……でもあの手はもう使えないな)。

 控えめにお辞儀をして診察室に入ると、院長はぎょっとして私の顔を凝視した。「事故にあって、」という曖昧な説明に、院長はうんうんと頷き、看護師にてきぱきと傷を手当てするよう指示した。

「同居人が引っ越したので、私ももう少し家賃の安いところに越さなくちゃならなくなって、」
「うん、うん。あそこは土地が高いからね。怪我、一応手当してるみたいだけど一応もう一度きちんとやるから」
「はい、ありがとうございます。自分じゃ最低限しかやってないので。……それで、折角だからもう少し小さな診療所に行こうかなと」
「うん、うん。そうだねえ」

 半分本当で、半分嘘だった。同居人がいなくなったから私もこの町から出る、というのは本当だ。でも多分、医者としてどこかへ勤めることはもうしないだろう。ヒソカに能力を知られ、命を狙われている今、民間人と深く関わりながら生きるのは得策ではないからだ。(……命? 狙われているの? 私が? 本当に?)

 これからは、これまで細々とやってきた除念の方の仕事をメインの仕事に据え、闇に生きていくことを選ばなければならない。念能力を習得したときにその覚悟はしていたつもりだったが、いざ院長に別れの言葉を告げるとその事実が重く心にのしかかった。
 闇で生きていくなんて、私に本当にできるのだろうか? 今まで大口の除念の患者はすべてヒソカに紹介してもらっていたから、これからは自力で探すか、どこかの斡旋所に紹介してもらうようにしなくちゃならない。そのためには、ハンター試験を受けないことには大きな斡旋所も使えないだろう。ハンター試験に受かるためには、……戦闘は苦手だから、まず体を鍛えて、隣の系統である操作系でひとつくらい戦闘用の技を使えるようにして……。でもその前に、ヒソカに見つからないようなところを探して移り住まないといけない。あの時できた3カ所の骨折と内臓破裂を治してしまったため、少なくとも向こう1週間くらいは念を使うことができないのだ。今もし襲われることがあれば、その先にあるのは紛う事なき死だ。
 現実味のなさと、妙な生活感がごっちゃになり、頭が痛くなる。まずアパートを探して、引っ越し業者に連絡して……、でも待って、今のアパートって確かヒソカが契約者だ。放っておいて引き払ってしまってもいいのだろうか? そもそも今のアパートを探してきてくれたのはヒソカだったから、私はアパートの探し方すら知らない。(一人で生きていくって、決めたのになあ)

 院長に、急に辞めることを謝ると、彼は黙って私の肩を叩いてくれた。私の二つ目の能力を知る唯一の人だった彼は、何かを察したのかも知れない。引き止めることも、背中を押すこともせずに。

(130727)

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