お嬢様、あなたそろそろぬいぐるみは卒業です(2)
 今まで私は、父の弱い姿というのを見たことがなかった。物理学者として歴史的快挙となる発見を次々としてのけるほどの天才で、しかも人当たりもよく、ユーモアまである。そんな大人物を演じてのける父のプライドは山よりも高い。もちろん家族の前でさえ、弱気な姿という物を見せることはなかった。仕事上しかたなく、娘である私に頼ることはあっても、それはあくまでも仕事上の話であり、彼のプライドに傷一つでもつくことはなかった。いつでも周りの人から尊敬され、家の中では当然最も強い者として君臨していた。

 そんな父が、震えていた。震えながら、腰を抜かし、命乞いをしていた。

「ど、どうか、私の命だけは……」
「んー、つまらないねぇ♣」

 玄関の扉を開けたわたしの視界に広がったのは、血、血、血、夥しい量の血の海だった。腰を抜かし震える父、血の出所であると考えられる男の体(……体?)、そして異様な風体をした、奇術師のような男。思わず息をのむ。玄関から顔を覗かせた私を見つけた父が、声をあげた。

「ああ、ナマエ! なんということだ!」

 それは、聞こえようによっては娘を思う父の、悲劇の叫びに聞こえたかもしれない。しかし、私にはわかるのだ。……父が私を思う? そんなことは断じてない、ということが。

「……ん、キミ、誰?♠」
「おお、殺人者よ! 暗殺者よ! あれは私の娘だ。ナマエだ」
「ふうん。それで?」

 奇術師のようななりをした暗殺者は、手元ではトランプを弄びながら、興味なさげに私に目をやった。私はただただドアを開けたことを後悔した。今ここで私には一切の発言は許されない。殺人者がこちらにこれ以上興味を持たないことを強く強く祈るばかりだった。

「お前は私の業績に目を付けて暗殺者としてやってきたのだろう。無理はない。私ほど優秀な学者はそういない」
「ね、死にゆく者のご託に耳を貸す趣味はないんだ。悪いけど黙ってくれないかな?♥」
「学者としては、もちろん優秀だ。しかし、手助けを得てこうして活躍していられるというのも、嘘ではない。……つ、つまり。私を殺しても意味はないということだ、暗殺者よ!」
「……?♦」

 父は力強く断言し、私を見つめた。……父の言いたいことがなんとなくわかり、私は血の気が引くのを感じる。

「そ、そんな、お父さん、まさか……」
「父としてこのようなことを言うのは気が引けるが……」

 父が、今本当に気が引けているとは到底思えない。彼は今きっとこう思っているはずだ。『名案だ。さすが私は天才』。しかし同時に不安に思ってもいることだろう。『これでいいのか? 教えてくれ、我が娘よ』。私はそんな父に応えることもできず、ただじっと、暗殺者の目を、見つめた。

「我が娘を、ナマエを殺せ、暗殺者よ」

 思った通りだ。父が指さすその先には、もちろん呆け顔の私がいる。

(141005)
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Apathy