マーメイドの死体
 ずっと欲しかったはずの靴を履き、踊り続けることとなった少女はどんな気持ちだったのだろう。赤い靴を手に入れたことを、後悔しただろうか、それとも、しなかっただろうか。カーレーンに思いを馳せながら、私は再び台所に立ち、シチューを作っていた。赤い鍋に白いシチューは本当によく映える。赤い鍋の色から赤い靴を連想した自分の思考の単純さには辟易するが、様々なことを単純化しないと乗り切れないほどの、複雑な状況のもとに私はいるのだ。

(……”気に入った”、かぁ)
 まさか、本気で言っているとは思えなかったが、そのあと触れるようにされたキスは意外にも優しく、殺人鬼とはおおよそ似つかわしくなかった。ヒソカがどういうつもりなのか、彼が本当はどう思っているのか、測りかねている。こういうとき、私の能力は不便だ。
 私の能力は、相手のアイディアを盗み見たり、時には本当に盗むことができるというものだが、得ることができるのはあくまで考えや、アイディアだ。そこに感情は伴わない。その人がどう思っているのか、どんな気持ちかなど、決して知ることはできない。

「シチュー、できたの? 良い匂いがするね♥」
「……まだです」

 対面型キッチンの向こうから顔を覗かせ、ヒソカが声を掛けてきた。昨日、ヒソカに同居の理由を聞いた後、今日になるまで一度も顔を合わせていなかったのだが、今朝開口一番、ヒソカが『シチューを食べよう』と言ってきたのだった。なんでも、ヒソカが初めてうちを訪ねてきた日——つまり父が殺された日ということになるが、部屋の方からシチューの匂いがしたため、その時から食べたかったと。もちろん私はあんな日に作っていたシチューに口をつける気になんてなれず、すぐ捨ててしまっていた。だから仕方なく再び作っているという所だ。

「もう、すぐ?」
「はあ、まぁ……もうすぐ、ですが……」
「じゃあ、見てる♠」
「え?」
「ナマエがシチューを作ってるところ、見てるよ♠」
「え……」

 冗談を言っているのかと思ったが、ヒソカに嘯いているような様子はなく、本当に頬杖をつき、カウンターにしなだれかかってこちらを観察し始めた。後ろを向いても、視線が注がれていることがわかるほどの、濃厚な気配。あまりの居心地の悪さに、なかなか煮えないシチューに心の中で八つ当たりする。(なんで私が、こんな……)


 できあがったシチューを味見すると、お世辞にも美味しいとは言えない出来だった。とにかく、薄い。ほとんどクリームスープと言ってもいいくらいだった。どうしよう、とまごついているのを見て、ヒソカがくつくつと笑った。「何してるの。できたんでしょ? こっち、おいでよ。お皿持ってさ♣」

「あの……少し失敗して……」
「構わない♦」
「でも……」

 立ち尽くして視線を彷徨わせる私を他所に、彼はコンロから鍋をひょいと取り上げ、テーブルの鍋敷きの上に置いた。

「赤い色が映えるから、こうやって食べよう。取り皿を出して。パンを温めよう♣」
「や、やっぱり、私は後で食べますから……」
「一緒に食べなきゃ意味がないでしょ♠」

 ヒソカはつかつかと歩いてきて、あっという間にわたしのすぐ傍に立った。そのまま、勢い腕を掴まれ、顔を覗き込まれる。ヒソカの顔をこんなに近くで見るのは初めてだった。黄色い瞳がわたしを捕らえる。(殺され、る、)

「敬語♦」
「え……?」
「次から、敬語使ったら罰ゲームね♠」
「そ、そんな、突然……どういうことですか?」
「ハイ罰ゲーム♥」

 ちゅ、とわざと音を立てて、頬にキスを落とされた。ヒソカはどう見ても楽しんでいるように見える。反射的に後ずさり、目を白黒させる私を、愉快そうに眺めている。

「な、、なにするんですか……!」
「ハイ、もいっかい♥」
「やめてくださ、」
「もしかしてわざとやってる?♣」

 今度は首筋を、ペロリと舐められる。慣れた手つきで手際よく、いつのまにか私の両手はヒソカによって封じられていた。耳を撫でる体温に、背中が粟立つのを感じる。

「感じてるんだ?」
「やめてく……」
「……♥」
「……やめて。」
「なぁんだ。期待したのにな♥」

 パ、と手を離され、慌てて乱れた髪を手櫛で直した。睨み付ける私とは対照的に、ヒソカは機嫌が良さそうにシチューをカップに注いで勢いよく口に流し込んだ。

「不味いな。味か薄すぎる♠」

 淡々と告げるヒソカは、悪びれない。
 私は、目を見開いた。(……うるさい、死ね。)ヒソカに対して初めて恐怖以外の感情が湧き、私は、ああ怒りとは斯様な物であったかと思い出したのだった。


(151028既視感展開)
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