エドガワディビジョンの潮騒(1)
ホットだったはずのコーヒーは、すっかり冷め切っていた。ぺら、と、幻太郎さんが本のページをめくる音が時折聞こえるだけで、長い静寂が私達を包んでいた。……なんだこの状況は。おかしい。喫茶店の壁に掛けられた時計に目をやると、二つの針はしっかりと今が10時半であることを示していた。
「あの……」
「……はい、なんでしょう」
「いつまでこうしているの?」
「……はて」
幻太郎さんは一瞬驚いたように目を開いて、先ほどの私と同じように時計を見た。「おや、もうこんな時間でしたか」と暢気に言う。
「本当に、編集さんとの打ち合わせって、9時の約束だったの?」
「ええ、そのはずです。……遅刻が多い人ではありますが、さすがに1時間半も来ないのは、初めてですねえ」
「忘れられちゃってるってこと?」
「その可能性はありますね」
ゆっくりと頷いて、幻太郎さんは鞄からスマホを取り出した。鞄の中には、本来これから編集さんに見てもらうはずだった原稿が眠っている。
乱数くんのもとで働き始めて早1ヶ月。修羅場を迎えた乱数くんに追い出され、手持ち無沙汰となっていた私に、つい昨日、幻太郎さんが手を差し伸べてくれたのだ。一応、小説家を目指している私にとって、プロで売れっ子の作家である幻太郎さんと編集さんの打ち合わせ現場を見学できるなんてことは、願ってもない話だった。胸を踊らせながら、こうして編集さんと待ち合わせをしているのだが、……編集さんが、来ない。
「何か連絡来てた?」
「……いえ、何も来ていないです。おかしいですね。編集部に連絡してみましょうか」
そう言って、スマホを片手に一旦喫茶店を出て行く。私は冷えたコーヒーを口の中に流し込んで、ただ目の前の空席を見つめていた。
「編集部に電話をしてみたのですが、どうやら……遠藤さんは昨日、あるいは一昨日から行方不明、というものらしいのです」
戻ってきた幻太郎さんは開口一番、そう言った。『行方不明』なんて非現実的な単語に、私は耳を疑って、というかはっきりと幻太郎さんの嘘だと決めつけて、「はい?」と少し意地悪な声色で返事をした。だが、幻太郎さんはそれに返事もせず、物憂げに一つため息を吐いて、また私の真正面の席に座った。
「……えっと、まさか、嘘じゃない……?」
「おや、酷いですね。僕が嘘を吐くわけがないじゃないですか。いつでも本当のことを言っています」
「いやだからそうやって信用失ってるんだってば」
「疑うのは結構ですが、小生はそんなつまらない嘘は吐きませんよ」
そう言って、幻太郎さんは手に持っていたスマホをいじり、何やら文章を打ち込んだ。察するに、どうやら件の遠藤さんにメールかラインか何かしているようだ。
「遠藤さん……って確か、今日来るはずだった編集さんだよね?」
「ええ。編集部の話では、昨日と今日仕事を無断欠勤していると。そして一昨日は有給休暇だったそうで、下手をすれば2日前から行方がわからないとのことです。……彼女、だらしないところもありますが、仕事には熱心です。打ち合わせを無断でバックレる、なんてことはしないはずです。ましてや、会社を2日も続けて無断欠席とは……」
「そ、そうなんだ」
……別に、別に、別にどうでもいいし、今考えることでもないのだけれど、私は何故か、『彼女、だらしないところもありますが、仕事には熱心です』という言い回しに違和感を覚えた。幻太郎さんが、仕事上だけの付き合いの人についてこういう言い回しをするとは思えなかったのだ。それは何だか、少し甘いような、居心地の悪いような、どこか熱っぽいような……まあまあ、大人だもの、いろいろあるでしょう。別に人の関係をあれこれ詮索するつもりも、文句があるわけでもない。別に……別に、どうでもいいことだ。
「行方不明だなんて言い方、推理小説じゃないんだからさ」とどうでもいいことを言って、お茶を濁しておく。幻太郎さんはまるで気にしていないようだった。
「そんな大それた事じゃなくて、体調不良で家で寝込んでる、とかかも」
「ああ、確かに。それはそれで心配ですけどね」
「えーっと、幻太郎さん、家に様子見に行ってあげたら? 編集部に聞けば、住所とかも教えてもらえるんじゃない?」
私なりの気遣いで、そんな提案をしてみる。私の下世話な推測が当たっていて、幻太郎さんと遠藤さんが何か、その、所謂、何か特別な関係なのであれば、家に行ったところで私はまるでお邪魔虫だろう。すると幻太郎さんは、
「ああ、そうですね。ちょっと行ってみましょうか。家の場所は聞かずとも知っておりますし」
と言った。……やっぱり、家の場所知ってるって事は……とかなんとか、更に勝手な想像をしてしまいそうになる私に、
「さ、ナマエ、あなたも行くんですよ」
と幻太郎さんは言って、私はただポカンとしてしまったのだった。
(220522)