エドガワディビジョンの潮騒(2)
駅から10分程離れた所にある、閑静な住宅街。連れて行かれたのは、単身向けっぽい小綺麗な小さなアパートだった。オートロックですらない簡素な作りだ。階段を2階まで上がり数歩、その部屋はあった。『遠藤』と手書きの丸文字で書かれた表札が掛かっていて、確かに、編集の遠藤さんの部屋のようだった。
インターホンを押す。……反応はない。もう一度押す。やはり反応はない。ドアに近づいてみるが、中から人の気配も感じなかった。
「部屋はここで合ってるんだよね?」
「ええ。では、開けてみますか」
「えっ?」
そう言うと幻太郎さんは、手荷物の中から当たり前のようにキーケースを取り出し、当たり前のようにその鍵の中からひとつ鍵穴に差し込んだ。幻太郎さんが鍵を開けるのを待つ間、私はまるで他人の秘め事を覗き見しているかのような居たたまれなさを感じていた。わ、私は来たくなかったんだよ、でも幻太郎さんがね、と脳内で誰に言うでもない言い訳を並べ立てるけど、残念ながらこの言い訳を聞いてくれる人は誰一人いない。口に出していないのだから当たり前だ。
「はい、お邪魔しますよ」
「い、いいの? 勝手に入っちゃって」
「居ないときに勝手に中に入るための合い鍵でしょう」
「……何で合い鍵もらってるのか、聞いてもいい?」
「小説家が担当編集の家の鍵を持っているなんてザラだよぉ。特別な事情なんてないよぉ」
「う、嘘?」
「さあ?」
にっこりと綺麗に作られた笑顔までもが嘘くさい。やっぱり、知人の異性関係なんて知らないに越したことはない、と私は改めて思い直す。幻太郎さんが、長い付き合いの女性編集の家の所在地を知っていて、合い鍵を持っていて、人となりを良くご存知であることの意味なんてものは、この際まるっと無視するのが大人として賢明な判断なのだろう。
「……遠藤さーん?」
玄関から、中に向けて呼びかけてみる。返事はない。とかなんとか私がまごついていると、幻太郎さんは何の遠慮もなく靴を脱いで中に上がっていった。勝手知ったる人の家とはこのことで、ずかずかと奥まで行った幻太郎さんは声だけで「早く、入ってきてください。遠藤さんはいません」と私を呼んだ。
仕方なく靴を脱ぐ。玄関から中に入り、短い廊下を抜けるとこぢんまりとしたワンルームが目の前に現れた。随分物が散らかっているが、大ざっぱなタイプの私には見慣れた程度の雑然さであって、空き巣や強盗が入ったわけではなさそうだ。大ざっぱ仲間として、遠藤さんとは友達になれるかもしれない。幻太郎さんも、この光景は見慣れているようで、特に雑然さを気にした様子もなかった。
「……幻太郎さん、このお部屋に来たことあるみたいだね」
「ええ。それが何か?」
「いや別に……」
これ以上詮索しないと決めた矢先に、ついつい詮索してしまった。反省。
「しかし……仕事を無断欠勤して、しかも家にもいないとなると、これはいよいよ推理小説じみてきましたね」
「うーん、でも、部屋を見た感じ特に変なところはなさそうだけど……。ただ単に、仕事がイヤんなっちゃって、サボっちゃえ! みたいな話かもよ?」
「だといいのですが。そういうことをするタイプにも思えないのです」
「そっか……」
私はなるべく失礼に当たらない範囲で、と言っても勝手に部屋に入っている時点で失礼極まりないのだが、なるべくプライベートの覗き見には当たらないように留意しながら、部屋を見渡す。何度見ても、普通の独身女性の部屋にしか見えなかった。貝殻モチーフの小物があったり、青を基調としたインテリアになっていたり、いくつか写真立てには海や浜辺で遊んでいる写真が飾ってあったりと、遠藤さんは海が好きなのだろうということはわかった。
「遠藤さん、海が好きなんだね」
「ええ、そう聞いています。ただ、ここ最近は仕事が忙しくて、遠出はできないと嘆いていました。休日も、いつ編集部に呼び出されるかわからないので、東都、なるべくならディビジョン内から出ないよう言われていたと」
「それって、所謂ブラック企業なんじゃ……?」
「ええ。ブラック企業でしょうね」
ゆっくりと飾られている写真を眺めた。これは飾られているのでプライバシー侵害には当たらないだろう、と勝手に判断した。遠藤さんは本当に海が好きみたいだ。写真には、日付と、恐らく同行者の名前が、可愛らしく書き込まれているので、頻繁に海辺に足を運んでいたのがわかった。一人で映っている自撮りのようなものもあれば、かなり大人数で映っている集合写真のような物もある。中には高校生くらいの随分若い男の子と二人で親密そうに映っている物もあって、……いや、ううん、これはきっと弟なのだろうと思いたい。
「ナマエ、ちょっと来てください」
呼ばれて、振り返る。幻太郎さんは、スケジュール帳を見せてきた。色とりどりのペンで書き込まれていて、表紙はボタニカル柄。どう考えても幻太郎さんの物ではなくこの部屋にあった物だろう。この人プライバシーとかそういう概念ないんか?
渋々私も覗き込むと、幻太郎さんは長い指で3月16日を指して「ここ、見てください」と言う。そこには、小さく“★”が書かれていた。そして幻太郎さんはその長い指をそのまま持ち上げ、先ほどまで私が見ていた写真立ての辺りを指さす。
「あ、3月16日」
数ある写真のうち、ワンピース姿で女友達と思われる女性と映る写真には、今年の3月16日の日付、そして『やっぱ海サイコー♥』と書き込まれている。
幻太郎さんはスケジュール帳をめくって、今度は4月3日の★印を指し、同じように写真立てを指す。そこには、かき氷と共に撮られた自撮りと、今年の4月3日の日付。同様に確認していくと、4月、5月の★印と写真の日付は完全に符合していた。どうやら海に出掛ける日を楽しみにして、印を付けていたみたいだ。「そして、」と言って、幻太郎さんはやけにもったいつけてページをめくった。6月。今月だ。
「6月20日に、★印……!」
6月20日、つまりそれは一昨日、遠藤さんが消息を絶ったとされる日だった。
(221116)