エドガワディビジョンの潮騒(4)
幻太郎さんが呼びつけたタクシーを待つために、遠藤さんの部屋を後にする。先程入るときには気が付かなかったが、玄関の三和土の部分にはビーチの砂のようなものが少し零れていることに気がついた。ビーチサンダルも何足かある。かなり頻繁に海に行っていたようだ。本当に海が好きなんだな、と感心した。
「そういえば、どうして遊泳場のことなんて知っていたんです? あなただって、別に特段アウトドア派というわけではないでしょう」
タクシーに乗り込み第一声、幻太郎さんはそんなことを聞いてきた。決して、とっても友好的というわけではないが、初めて一緒にタクシーに乗ったあの時の無視と比べればかなり絆が深まったと言えるだろう。
「あぁいや……大した話じゃないんだけど、一回行ったことがあって。その……元彼と」
「おやおや、そうでしたか。これは出過ぎたことをお聞きしました」
「いや別に……」
正直言って、元彼や自分の過去について話すのが嫌なわけではなかった。単に、覚えていないのだ。人間、辛いことはどんどん忘れていく仕組みらしい。特に元彼とのことについては、断片的なエピソードの記憶はあれど、はっきりとせず、全体が何だか靄がかかっているみたいなのだ。
「……」
「……」
「……」
……沈黙になってしまった。前回のタクシーの倍くらい気まずい沈黙。前回と違って、意味のある沈黙だ。
「……いや、違う、違うの。別に聞かれたくないとかじゃなくて。……あんまり覚えてないだけ」
「そうですか。いや、あまりプライベートなことに突っ込むのは野暮かと思いましたが」
「それは構わないんだけど……ホームレスという最大の黒歴史ももう知られてるわけだし」
「ほほ。確かに」
だいたい、私達は遠藤さんのプライバシーに土足で入り込みまくっているわけだし、そういえば幻太郎さんと遠藤さんの匂わせもガンガン香ってくる。今更、自分ばっかりプライバシーとかプライベートとか言っているのは馬鹿らしくもある。
「じゃあ遠慮なく聞きますが。忘れたということは、そんなに昔のことなのですか?」
「いや……就活の頃だったから、3年前くらいかな。海に行こうってなって、でも確か私は夕方からバイトだったから、近場がいいってなって……」
「なるほど。それでカサイ臨海公園ですか」
「公園に入ってしばらく歩くと海岸で。でもほら、所謂ショウナンとかの海水浴場とはちょっと違う雰囲気なんだよね。海の家とかほとんどないし、ファミリーも多いし」
「なるほど。公園の中なので、そういう雰囲気になるわけですね」
「そう、それで……えっと……確か彼が……急に怒り出して……」
「ふむ?」
「私わけわかんなかったんで、どうしたのって聞いたら……えっと……ナンパできなきゃ意味ねーじゃんみたいなこと言い出して……」
「……ほうほう」
「広げた荷物とか全部放り出して彼一人で帰っちゃって……来るとき車だったから、荷物持って電車乗るの大変で……」
「なるほど」
「ウッ、頭痛が……これ以上思い出せない……」
「……あなたも中々苦労していたのですねぇ」
幻太郎さんは、まるで本当に同情しているかのように言った。あるいは、本当に同情してくれているのかもしれない。私は情けない自分について話したので何だか気恥ずかしくて、うつむいて自分の膝を見た。あれからもう3年か。あの時はまだ、自分がそのあとホームレスになるだなんて夢にも思っていなかった。
「気休めですが」
幻太郎さんの声に、私は顔を上げて彼の方を見た。
「きっとその元彼殿よりも、小生と行く今日の海の方が楽しいですよ」
そう言って、彼は何かを手のひらに乗せて差し出した。見ると、あめの小袋だった。子どもの頃よく食べた、立方体型のあめが色違いで2つ入った可愛いやつ。
「あめ……」
「頭痛薬よりも、効くと思いますよ」
見ると、幻太郎さんの頬も膨らんでいた。甘くて爽やかな香りが、車内に漂っている。
(20230717)