prologue(2)

 拒否権など、ないに等しかった。先ほど知り合ったばかりのはずの帝統は何故か鬼気迫る様子で私の手首を掴み、あれよあれよという間にネカフェを出てしまった。幸か不幸か、私の荷物はそう多くなかった、というかバッグ一つだけだったので、勢いのままにネカフェを出ることができてしまったのだ。驚いたのは、帝統の金遣いだ。「迷惑かけたな」と店員に言って、モッズコートのポッケに手を入れたかと思えば、次の瞬間にはくしゃくしゃで汚い、しかし大金をむんずと掴んで取り出し、いとも簡単に私の精算を済ませてくれたのだ。正直、見た目としてはお金が潤沢にある人間には到底見えなかったし、事実少し前まで難民仲間だったらしいというのに、こんな大金を持っているなんて(しかも見ず知らずの私のためにポンと使えるなんて)、何かがおかしいと思わざるを得ない。彼はネカフェを出てから何度か「俺のダチでお前を雇ってくれる当てがあるからよ」と、大型犬のように優しい眼差しで言うのだが、しかしこの強引さと力強さ、そして泥と獣の臭いも大型犬のそれだった。

 そんな荒々しい強行突破を見せたのだから、何か確実な当てがあるのだろう、と思うじゃないか。しかしそれは、私のとんだ買いかぶりだったとすぐに気づくこととなった。

「乱数頼むっ! この通り! こいつを雇ってやってくれぇっ!」
「いや〜僕別に一人で仕事できるしぃ……」
「俺の顔に免じて! 頼む!!」
「アハハ。だーいすぅ、顔に免ずるどころか、帝統にこないだ貸したお金、まだ返ってきてないんだけど?」
「そ、それは……そのうち……そのうち返すから……!」

 今にも土下座せんというような勢いで拝み倒す帝統を見て、こんな怪しい人間にのこのこ着いてきた自分が恥ずかしくなる。帝統が紹介してくれたこの人は高名なデザイナーでラッパーの飴村乱数さんという人らしい(名前くらいは聞いたことがある気がする)。デザイナーと聞いて納得で、彼はこの街に似合う、個性的で派手な服装だが、それがまた良く似合っている。
 ……ただ問題なのは、とにかくこの人が私を雇うなんていう保証は一切なく、帝統はただ泣き落としで頼むという一手をもってして、『当て』と言っていた、ということだ。

「まぁ確かにナマエちゃんは可哀想だけどぉ……」
「だろ?! だろ?! じゃあ……」
「でもね帝統、僕だって慈善事業やってるわけじゃないし、第一人手は足りてるんだよぉ」
「そこをなんとか! な! な! ほらナマエも服のデザインとか興味あるだろ?」
「い、いや……」
「ほらぁ! ナマエちゃんも困っちゃってるじゃん! どーせ帝統が強引に連れてきたんでしょお?」
「ぐっ……」

 もちろん私だって、仕事と家をもらえるなんて願ったり叶ったりのチャンスだ。でもそれは迷惑をかけずに手に入るならの話で、ここまで渋られてしまっては諦めるほかない。もとよりそんな話はなかったのだと思えば、ただ私は何事もなかったかのようにあのネカフェに舞い戻ればいいだけの話だ。

「ナマエちゃん、デザインの仕事なんて興味ないでしょ?」
「まあ、正直言えば……」
「じゃ、じゃあ何の仕事に興味あるのか言ってみろよ! そしたらツテを当たって仕事探してやるから!」
「帝統ったら何か変だよ。そんなに必死になるなんて、ナマエちゃんに借りでもあるワケ?」
「いいんだよそんなことは!! なぁ、ナマエ。何かあるだろ? やってみたい仕事とか、ガキの頃の将来の夢とか……」

 見ず知らずのはずの私に(当てもなく)仕事と家を紹介すると言い、迷惑料込みでネカフェ代も精算し、当てが外れたとわかった現在もこんなに必死で仕事を探そうとしてくれている。確かに、私に余程の大きな借りがあるとしか思えない。でも私にはそんな記憶はなかった。考えれば考えるほど、今目の前で土下座をしてみせる姿が、シュールなギャグ漫画のように浮き出て見える。

「帝統、もういいって。……子どもの頃は、小説家に憧れてて、今もそういうのいいなぁ、なんて思う時もあるけど、そんなの現実的じゃないって、私だってわかってる」

 帝統と乱数さんは、同時に目を見開いた。きっと、ホームレスになってまで叶わない夢を持ち続けている私に呆れたのだろう、と思った。一瞬沈黙が走り抜け、タイミング良く、コンコンとドアをノックする音が響く。「乱数、入りますよ」と誰かの声が言い、扉が開く。

「あら、お客様ですか。……どうしたんですか? 二人とも、そんなに目を丸くして」

 レトロな装束の男性が入室してくる。帝統が小さな声で、「……確変」と呟いた。


(210306)