【黒檀×朔×めぐりめぐる】


「黒檀の馬、って知ってる?」

隣の笑が、唐突に何かを呟いた。

「…なんだそれ」

水を飲もうと手を伸ばしたが、墨のように黒々とした闇の中でそれを探し当てるのは酷く困難だった。愛した女の身体を弄るのはいとも容易かったのに、と先程までの情事に想いを馳せながら、ああそういえば今日は朔月だったなと、熱に浮かれた頭でぼんやりと考えた。ベッドサイドのランプを灯すと、まぶしい、と小さく唸る声が横から聞こえた。橙色の光に照らされた笑は、白いシーツに身体を埋めながら虚空を眺めている。互いの汗ですっかり湿った、白肌に張り付く艶やかな長い黒髪とその惚けた表情がやけに扇情的で、思わず喉が鳴る。もう若くないのにな、と内心自嘲しながらその問いの答えを待てば、彼女は視線を天井から俺に滑らせ、やや掠れた声で答えを紡いだ。

「空飛ぶ木馬のこと」

「知らんな」

ルームサービスで置かれたミネラルウォーターのキャップを開けながらそう答える。アタシにも頂戴、と彼女が言ったから、口をつけずにそのまま差し出す。飲まないの?と彼女が不思議そうに聞いてきたから、お前の方が喉使っただろ、と答えれば、それもそうだね、と彼女はあっさり納得しそれを受け取った。笑は昔から遠慮がない。しかしそのサバサバとした明朗さが、自分はとても好きだった。人は自分に欠けているものを相手に求めると言うが、その通りだと根暗な俺はいつも思う。

「…で、いきなり空飛ぶ木馬がなんだって言うんだ」

「いや、ふと思い出したんだよね。千夜一夜物語だったかな、子供の頃憧れたんだ」

そう言うと、彼女はぽつぽつとあらすじを語り出した。それは、なんてことのないお伽話だった。空飛ぶ木馬を手に入れた奔放な王子が、紆余曲折あり、巡り巡って他国の王女と結ばれる話。

「大人になってみると、王子どんだけ自己中なんだよって思うんだけどさあ、子供の頃は何処へでも飛んでいける木馬が欲しくて欲しくて仕方なかったね」

「絨毯じゃなくて馬なのがお前らしいよ」

「まあそれもそうなんだけど。空飛ぶ絨毯ってさ、有名だけど実際の物語だといまいちパッとしないんだよ」

「へえ」

いつもは疲れ果ててそのまま眠ることが多い彼女にしては珍しく、今日はよく喋っていた。そして、彼女がこんな風に饒舌に喋る日は、決まって何かあった時だと長い付き合いの俺は知っている。知っているが、彼女がひた隠しにしていることを無理矢理暴きたくはない。だから俺は黙って、笑の話に耳を傾けている。

「…いいなあ。個性を得て、大人になって空を舞う術は覚えたけど、結局空を飛べはしないもんなあ」

「……………」

「人類共通の夢だよね、ホークスとかいいよねえ飛べて」

そう言って笑があまりに自然に他の男の名前を出すものだから、今まで黙っていた俺も流石にムッとして、彼女をぐいっと引き寄せてその身体を掻き抱いた。

「ちょ、いきなり何」

「…こんなとこで他の男の名前を出すとはいい度胸だな」

そこまで言って、自分がいかに恥ずかしいことをしたかを理解する。言ってしまったものは仕方がないが、腕の中で彼女が笑いを堪えて震えているのがなんとも腹立たしい。

「年甲斐もなく嫉妬かな、可愛い消太クン」

「煩い、なんとでも言え」

「はいはいごめんね」

ちゅ、と笑の湿った唇が触れた。ひやりとしたその感触に、そういえば結局まだ喉を潤してなかったなあと頭の隅で考える。

「てかあれだね、このシチュエーションまんま千夜一夜物語だね」

「そうなのか」

「あれって、嫉妬深い王様と、その王様に毎晩お伽話を聞かせてあげる妻の話でしょ」

「へえ」

彼女はなおも饒舌に語る。いっそ唇を塞いでしまうのも手かと考えたが、気の済むまで喋らせてやりたいとも思う。それで彼女の気が晴れるのなら、それでいい。

「最初の妻に裏切られた嫉妬深い王様は、夜を共にした女を朝になると殺しちゃうんだけど、その妻は毎晩お伽話を聞かせて、面白いところで続きはまた明日って感じに終わらせちゃうんだよね。だから続きが気になる王様はその妻を殺すに殺せなくて、そんな夜が何百日と続いていくうちにお互い好きになって、子供も出来てはいめでたし、って感じじゃなかったかなあ…」

「黒檀の馬もそのお伽話のうちの一つ、ってことか」

「幼い頃の記憶だから怪しいけどね」

さすがに喋り疲れたのか、笑は再びミネラルウォーターに口をつけた。俺にもくれ、と言う前に、ごくごくと飲み干されていくそれ。空になった容器は虚しくも彼女の手によってゴミ箱に捨てられた。

「ふう」

喉も潤い満足したのか、彼女はごそごそと俺の腕の中に戻ってきた。そして、ぼそりと呟く。

「消太はアタシのこと殺さないでね」

「殺すか」

「だって消太結構嫉妬深いし束縛しいじゃん」

「だとしても、お前は黙って殺されるタマじゃないだろ」

「ははっ確かに」

笑った笑の顔には、いくらか疲れが見えていた。さすがにもう体力が限界なのだろう。当然だ、今日もだいぶ無理をさせたはずだから。

「…俺はその王様と違って、続きがなくてもお前を殺したりはしないから、いい加減もう寝ろ」

「そうだね、もうこんな時間だ」

そう言った笑の意識は、もう既に半分夢の中に落ちかけているようだった。俺は静かに彼女の背中を摩る。温かな体温とともに、彼女の心音が静かに伝わってきた。

「夢を…見たんだ」

「夢?」

眠りにつくかつかないかの最中で、彼女はぽつりと言葉を零した。

「教え子が自殺する夢。高い高いビルから飛び降りて、アタシは、個性も使えず、何も出来なくて。ヒーロー、なのに。あいつの、先生だったのに」

これが、おそらく笑が今日一番言いたかったことなのだろう。寝惚けてでしか本音を言えない強情なこの女が、俺は愛おしくて堪らない。

「空が飛べたら、彼を救えたのに、って…そしたら昔見た空飛ぶ木馬を思い出して…それで…」

「これだけ話したんだ、今日見る夢ではお前は空飛ぶ木馬に乗れてるよ」

「だと…いいな」

やがて、彼女の規則正しい寝息が聞こえてくる。顔を覗けば、気丈な恋人の閉じた瞳からは涙が伝っていた。俺は彼女を起こさないように指でそっと拭って、そこに口付ける。

「おやすみ、笑」

気付けば、窓から見える空はいつの間にか白み始めていた。朔月は終わりだ。

「…お前は飛べるよ」

朝日が昇るまでの僅かな時間、お前がこの空を飛べていることを密かに願った。


【黒檀の馬に君は乗れるか】