「あら、雨ですわ」
隣の檻舘が、ぽつり、そう呟いた。そんなまさかと空を見上げれば、タイミングよく自分の頬にも雨粒がひとつ落ちてきた。ほんとだ、と答える暇もなく、雨粒はひとつふたつと徐々に増え、次の瞬間にはザアザアと音を立てるほどの豪雨となって俺たちの元へ降り注いだ。
「困りましたわねえ」
「なんでそんな悠長なんだよ…」
ほら行くよ、と俺は檻舘の無防備な細い腕を掴む。衣替えしたての制服は生地が薄くてどうにも心許ない。ブラウス越しに感じる彼女の体温には気付かないふりをして、俺は前だけを見て走った。
「どちらに行きますの?」
「雨宿りできるとこ」
こうしている間にも制服はぐんぐんと雨を吸い重みを増していく。さっきまであんなに晴れていたのに…と思ったが、よくよく考えてみれば隣に立つ檻舘に意識の比重が傾いていたのは言うまでもなく、空の様子なんて微塵も意識していなかったことを思い出してひとりで恥ずかしくなった。
「びちゃびちゃですわねえ」
「その割に嬉しそうだね」
「ふふ、だって楽しいんですもの」
雨音に紛れて聞こえるのは、2人分の駆ける足音。加えて、心なしかいつもより弾んでいる鈴を転がすような檻舘の声。こんな災難に見舞われたというのに、檻舘は至極ご機嫌だった。
「今更聞くけど、檻舘は傘ある?」
「あったらこんな濡れ鼠のような状態にはなっていませんわ」
「だよね」
当然俺も持っていない。今日の降水確率はゼロだったのを朝にこの目で確認したのだ。爽やかな笑顔で送り出してくれた画面越しの天気予報士が恨めしい。
「そういえば、次の角を左に曲がった先にある公園に丁度いい四阿がありますわ」
あずまやって何だ、という疑問が脳内に浮かんだが、それをこの場で彼女に聞くのはなんだか格好悪い気がして、俺は無言で従う。檻舘の指示通りに公園に向かうと、確かにそこには雨宿りにちょうど良さそうな屋根付きの一角があった。成程、これが"あずまや"か。俺は彼女を連れて一気に駆け込んだ。
「…とりあえず、ここで様子見かな」
とはいえ時既に遅しといったところか。俺も檻舘も全身余すことなく濡れている。制服が肌に張り付く感覚が不快で思わず顰めっ面になるが、しかし彼女はこんなときでも澄ました顔で微笑んでいる。
「この様子だときっと驟雨でしょう。ここで少し待っていればじきに止みます」
そう言ってベンチに腰掛けた檻舘は、嫌味なほどに清楚で淑やかだ。長い睫毛から滴る水滴に、俺は思わず息を呑む。ぽたぽたと溢れた雫は檻舘の芸術品のような容貌を嫋やかになぞり、やがて制服にじわりと滲んでは消えていく。彼女の楚々たる表象を吸って重たくなったワイシャツは、象牙色の肌が薄っすら透けて見えていて、彼女のいつもの清廉さに混じり、どこか艶かしい色香を感じさせた。
「…これ、今日はまだ使ってないから」
このままでは良くない、と俺の脳内が警鐘を鳴らした。そういえば鞄の中に、訓練で使おうと思って使わなかったタオルがあったはずだと思い出した俺は、未使用のそれを彼女に渡した。しかし、彼女は首を横に振る。
「そんな、駄目ですわ。それはご自身でお使いください」
「俺は平気だから。檻舘の方が風邪引き易いだろ」
彼女の病弱さは同じクラスだった去年一年でよく知っている。しかし彼女は頑なに譲らない。押し付け合いの応酬が続く。
「心操君の身体は、もう貴方一人のものではないのです」
「俺は妊婦か」
思わず突っ込んでしまったが、彼女は至って真面目だった。一体、何がそこまで彼女を固執させているのか。
「心操君はもうヒーローなんですから、体調管理はしっかりしませんと」
「…成る程ね」
檻舘の言葉に、俺は溜息を吐いた。頑なに拒む理由はそれか、なんて馬鹿らしい。俺は持っていたタオルを広げると、ベンチに座る檻舘の前に立ち、無理やり彼女の頭にそれを乗せてわしゃわしゃと動かした。
「ちょっ、ちょっと心操君!」
「何遠慮してんの。使えるものは親だろうと仏だろうと何でも使うのが檻舘でしょ」
「そんな傲慢無礼な人間になった覚えは…って髪が!崩れますから!わかりましたから!」
ようやく観念したらしい檻舘から制止の声がかかったため腕を止める。タオルから覗く彼女はきらきらとした瞳を潤ませ、恨めしそうにこちらを見上げていた。
「髪がぐちゃぐちゃです…心操君は随分と遠慮がなくなりましたわね」
「そっちが意固地になってるからだろ」
もう、と呆れた様子で彼女は髪の毛を解く。綺麗に結われていた紅藤色の房が、水分を伴ってはらはらと肩に落ちる。初めて見る彼女の相貌に、思わず目が奪われた。
「どうかしましたか」
「…いつもと印象変わるね。髪色もいつもと違う気がする」
「髪に限らず、濡れると色というものは暗く見えますから。心操君も雨に濡れるとだいぶ印象が変わって見えますわよ」
お返しです、と彼女は手を伸ばし、タオルで俺の頭を乱雑に拭いてきた。ごしごしとタオルが動くたびに自分のものではない甘い香りが鼻腔をくすぐり、心が騒ぐ。
「拭き辛いので屈んでください」
「はいはい」
彼女の求める儘に腰を下ろす。自分が立たないのがなんともお嬢様の檻舘らしくて、少しだけ笑ってしまった。さしずめ俺はペットの犬か。
「…今更だけどごめん。無我夢中でこんなとこまで連れてきちゃたけど、何か予定とか、待ち合わせとかあった?」
檻舘とは、帰宅途中にたまたま出会っただけだった。先生の都合で予定していた練習が無くなり、いつもよりだいぶ早い時間帯に学校を出たら彼女がいた。ただそれだけ、偶然以外の何物でもない。
檻舘にそう尋ねると、俺の頭を揺らしていた彼女の腕がぴたりと止まった。伏せていた顔を上げ、何だろうと彼女の顔をタオル越しに覗けば、彼女はその形の良い眉を八の字にさせ、申し訳なさそうに笑っていた。
「…私こそごめんなさい。きっとこの雨は私のせいですわ」
彼女の発言の意図がわからず、俺は素直に聞き返した。彼女は困ったような顔で、お恥ずかしいのですが、と前置きした上でその形の良い口を開く。
「…久々に心操君に会えて、嬉しかったのです。一言二言世間話をしてお別れなんて嫌で…心の中でもう少し一緒にお話ししたいと願ったりしたから、神様が気を利かしてくれたのかもしれません」
迷惑な神様ですね、と彼女は笑う。
「貴重な時間をごめんなさい。2年生になって、心操君、忙しいでしょうに」
そう謝り、何事もなかったかのように手をの動きを再開させようとする檻舘に、俺の中で言い表しようのない衝動が起きた。気づけば俺は、その繊手を引き、彼女の小さな身体を自分の身体へと抱き寄せていた。
「心操君」
「…ごめん、気付いたら身体が勝手に」
嘘じゃない。自分でもどうしてこんな大胆な行動が取れたのかわからない。しかし謝っておきながら、彼女から離れようとは到底思えなかった。
「ファンが泣きますわよ。心操君、1年生の女の子から人気なの気付いてます?」
「そういう檻舘だって、この前先輩から告白されてただろ」
以前にクラスで瀬呂や上鳴が噂していたのを聞いたことがある。当然だ、彼女は友人としての贔屓目を差し引いても十二分に魅力的な女性だ。誰かのそういう対象になっても不思議ではない。
「…お互い、こうやって変わっていくのですかね」
檻舘の表情は見えない。見えなくて良かったと思う。彼女の温もりと、とくんとくんと鳴る鼓動だけが全てだ。
「…もう少し、このままでいたいって言ったら、どうする」
それは、脊髄から発せられる言葉だった。彼女に拒絶される恐怖よりも、彼女に触れたいという欲求が勝る。俺の言葉を受けてか、檻舘が小さく身動いだ。俺は反射的に腕の力を強める。そんなにしなくても逃げたりしませんわ、と彼女が呆れたように笑うのが聞こえた。
「…雨が止むまでなら」
この雨の中なら、私達のことも隠してくれるでしょうから、とそう呟いて、彼女の腕が背中に回されるのがわかった。
ざあざあと降り続ける雨音を聞きながら、このまま一生止まなければ良いのに、と、月並みなことを考える。きっとこの雨が止んでしまえば、俺と彼女は只の友人に戻ってしまうから。
「冷たいね」
「ええ」
肌に張り付くひやりとした布地越しに、彼女の温もりを探す。雨は、未だ止みそうにない。