貴方と私の苗字の話。


自分で言うのも何だけど、私は自分の苗字が気に入っている。女性の平均身長よりも長い手足のせいか、昔から染めたことのない黒髪に長い前髪か、はたまたどちらかといえば切長の目元のせいか。体がある程度出来上がってくる小学校高学年や男女共々思春期に突入し始める中学生の頃から、気付けば下の名前でちゃん付けされるよりも苗字で呼ばれる事が多くなった。別にそれに対して不満もないし、有りがちな苗字だから嫌いとかもない。ただ、時々私の下の名前を知ってる人って何人いるんだろうな、とは思うくらい。きっと、私を今でも名前で呼ぶ人は、親含めて両手に余るくらいだろう。

「あの……大丈夫っスか?」
「え?何が?」

かけられた言葉に対して顔を上げると、ノートパソコンの向かい側に猪野くんが何とも言えない顔をして座っている。今日は猪野くんと共同任務で、先程戻ってきてお互いに待機室で報告書を仕上げているところだ。帰って書いてもよかったけど、まだ夕方と呼べる時間ではないから今から家に帰ってもなんだかんだ家の掃除しちゃったりぐーたらしてしまいそうな気がして、そしたらそれに猪野くんも賛同して向かい合って作業している。特に怪我した訳でもないし、報告書ももう少しで仕上がるから何に対してかわからなくて、一度キーボードから指を離して改めて首を傾げてみた。

「あー……だって、さっき…」
「……あぁ、あれね。」

何だか罰が悪そうに言い淀む猪野くんが、帽子越しに頭をかく。その様子になんとなく察しがついて、思わず小さく笑ってしまった。

「あの……日下部一級術師って、お付き合いされてる方はいらっしゃるのでしょうか…?」

さっき私達を送迎してくれた補助監督の子は、蚊の鳴くような震えた声で車の中で私達に問いかけてきた。話を聞けば、前の任務の時に怪我をしたその子を医務室に連れて行ってくれて、そこで恋に落ちてしまったらしい。ぶっきらぼうに見えて意外と車内でお話ししてくれる事、名前を覚えてくれた事、大人の渋さでかっこいいから他の補助監督や新人の呪術師のみんなからも人気でライバルが多い事。彼女は頬を赤らめてハンドルを強く握りしめながら沢山話を聞かせてくれた。

「だって俺!付き合ってるどうの以前に、寧ろもう結婚してるし、しかも後ろのこの人が奥さんって知らないのかよ!って思っちゃって…!」
「あの時の隣の猪野くんの挙動不審具合すごかったよね〜」
「いや!笑い事じゃないですって!俺めちゃめちゃどうやって相槌打っていいかわからんなかったんスよ!?」

私とその子を交互に見て誰も傷付かないように当たり障りない返事を返してる猪野くんは、今思い出しても面白くて笑ってしまう。もー!っと不満気にソファーの背もたれに体を預ける猪野くんにごめんね、と笑いつつも謝りながら、結婚指輪を付けていない薬指を撫でた。
気に入った苗字を卒業して、日下部の性になったのは随分前だ。といっても、戸籍は変わったけど仕事場で名乗る時に同じ東京エリアに同じ苗字がいても面倒だし、旧姓のままで過ごしてる。指輪も怪我が多い職業柄お互い付けていないので、今日の彼女みたいに私と結婚しているのを知らない子も沢山いるんだろう。

「それにしても、日下部一級術師は意外とおモテになるのね。あんなくたびれたオジサンのどこがいいのかしら?」
「あー…まぁ、あの人も一級ですからね…」

再び報告書を仕上げるべくキーボードを叩き始める。噂の日下部一級術師様を脳内で想像するが、彼女が言うようなカッコいい姿よりも面倒臭そうに仕事に向かう彼の姿しかなくて、キラキラと今が旬の女の子達には大層勿体無いとしか思えない。例えば五条くんとか、七海くんの方が王子様みたいだから隣に立ってて楽しそうに思えるけどな。それこそ普段七海くんをベタ褒めしてる猪野くんが、うんうんと頷きながら相槌を打ってくれてるのが視界の端になんとなく見えた。

「……えっと、ヤキモチとか妬かないんスか?」
「ヤキモチ?」
「だって俺、彼女とか奥さんとかの事好きって言ってる人いたら、なんつーか、モヤモヤしたり心配になりますもん…」

もう一度顔を上げると、一度切れた集中力は彼の元には戻ってこないようで少し冷めた珈琲を飲みながら猪野くんが複雑そうな顔をしている。尖らせた唇は彼の素直さを語っていて、年下らしい可愛らしさが周りの大人達に好かれるのがわかる。うーん…と天井の木目を眺めながら改めて私もパソコンから手を離すと、横に置いてあるカフェラテに口をつけた。

「猪野くんは、なんでヤキモチ妬くの?」
「なんでって…そりゃ、自分の女なのにそんな目で見るなよー、とか思っちゃうし、俺の知らない一面の話されるの嫌だし……万が一、万が一っスよ?もしそっちの奴の方がカッコよかったり強かったりして流れちゃったらどうしようとか心配になるし…」

いきなり質問をされて驚いたのかキョトンと目を開いた後に、顎に手を置きウンウンと唸りながら律儀に答えてくれる。途中から想像が蝕み始めたのか、眉間の皺が深くなってきて最終的にはズンッと重たい空気を背負いながら肩を落としてしまった。どうせ、カッコよくて強い存在を七海くんあたりで想像して、俺勝てねぇわ…なんて思ってしまったんだろう。なんでそんな質問をしてきたのかと答えを求めるように、上目遣いでまるで捨てられた子犬様に此方を見上げてくる。冷えたカフェラテのほんのり広がる苦さを胃の中に流し込みながら、マグカップを机に置いて少しだけソファーに沈めた体を起こした。

「私がヤキモチ妬いてないのはね?そんな風に見られる旦那は男性としても呪術師としてもイケてるなーって思うから。だって、ただでさえ爽やかイケメンって柄じゃ無いのに、中年の太ったオジサンでそれに加えて弱いだなんて、嫌でしょ?」

まず人差し指を立てて猪野くんの前に出せば、いきなり出てきた指に焦点を合わせていて無防備な口は開いたままだった。

「あと、私はみんなみたいに彼の勿論カッコいいとこも優しい所も、頼りになる所も見たことあるけど、それ以上に弱い部分や可愛い部分も知ってるから別にいいの。」

2本目の指を立てると、猪野くんの視線が指先から私に移る。みんなの知らない彼の姿を私だけが知っている。家で2人だけの時に見せる姿を思い出して、思わず口元が緩んでしまうと、猪野くんの瞳が驚きでまた大きく開いた。

「最後に……私はそんなに可愛くも愛嬌ある訳じゃないけど、彼はみんなが思ってるより私の事が大好きなの。だから、ヤキモチも心配も特に無いわ。」

三つの指で収まった彼への想いにどう?と首を傾げれば、猪野くんはほんのり頬を色付かせて唸りながら顔を両手で覆ってソファーの背もたれに戻っていってしまった。どうやら納得してもらえた様子に安心して、マグカップに少しだけ残ったカフェラテを最後一気に飲み切った。

「…大人って、ズルいっスね…。」
「猪野くんもいつか大人になるわよ。若い方が色々いいわよ〜さっきのあの子みたいに、沢山挑戦して沢山経験しなさい。」
「…なんでさっきの補助監督の子に、自分が妻だって言わなかったんスか?」

報告書の締めを入力して、保存した画面を確認してからノートパソコンを閉じた。猪野くんは余韻がまだあるのか、顔を覆っていた手を退けて代わりにパタパタと風を送るために動かしている。補助監督の子は、震える手元を誤魔化すようにハンドルをしっかり強く握っていて、アーモンド色の柔らかそうな髪の毛の隙間から覗く耳は赤く色付いていた。私と違ってまんまるな瞳で、ウブで、愛らしくて、守ってあげたくなるような可愛い子。

「うーん……わざわざ私から傷付ける意味もないし、怖がらせちゃうかもしれないじゃない?…それに、女に群がるのはハエみたいで煩いけど、男に寄ってくるのは蝶みたいな可愛いものだから、好きなだけ飛ばしておいた方がいいのよ。」
「ひぇ……」

にっこりと笑って見せれば、さっきまで赤くなっていた頬はひゅっと血の気がひいたように元に戻って口元がひくついていた。ノートパソコンとマグカップを持ってお疲れ様と声をかけて廊下に出れば、窓から落ちてきた日差しが差し込んできていて夕暮れを知らせている。雑談しながら報告書を仕上げて、いい時間になってきて丁度タイミングがよかった。

「んー…今日の晩御飯どうしようかな…」

確か、噂の彼も今日はあんまり遅くならないはず。久々に手の込んだ料理を作るのも悪くないかもしれない。とりあえずマグカップを洗いに行って、その足で別件の報告書も提出しに行くことにした。献立を考えながら早足で廊下を進んでいると、丁度明日の任務の補助監督の人と出会って明日の書類も受け取る。今日は何事もタイミングが良くて、本当ラッキーデーだ。内心ルンルンしながら目的地のドアに手をかけると、ふと自分の名前が呼ばれた気がして開ける手を止めた。

「本当、素敵ですよね…美人だけど、時々笑ってくれた時の笑顔が可愛らしいというか…!」
「わかる!この間初めて共同任務で俺緊張してたんだけど、すごく話しかけてくれてさ…俺があんまり喋らなかったのが風邪かと思ったみたいで、帰りにのど飴くれたんだよ…!」
「えっ!なんだよそれ!くそ、羨ましいな…っ」

実際には、呼ばれている訳ではなくて彼らの会話の中で名前が出ているようだった。気のせいかと思ったけれど、確かに先週初めて一緒になった二級呪術師の子が拳を膝の上でずっと握り締めていて、体調が悪いのかと思って帰りにコンビニでのど飴と栄養ドリンクをあげた記憶が新しい。なんだかこの会話の中に入っていく勇気はなくて、扉にかけた手を離して廊下の壁にもたれて様子を見ることにした。

「いやー…本当、付き合ってる人いんのかな…食事誘ったら行ってくれるかな…」
「付き合いてぇよなー……ほら、胸もおっきいし、夜の方もなんかリードしてくれそう。」
「わかる!なんか俺目覚めちゃいそう!パンツスーツもスタイル良いから似合うよな…くびれも堪らないし…胸大きいし…」

おい、胸のこと何回言うんだよ。とツッコみたくなったが、彼らの年齢的に性欲に素直なのは仕方ないだろう。内容は内容だけど、まぁ、素直に受け取ればまだまだ現役で通用するのなら嬉しい限りだ。猪野くんや今日の補助監督の子達のようにもう若い訳ではないから、内面以外に外見も褒めてもらえるのは有難い。

「特に夜にリードしたことないけど…」

どうやら彼らは私に夢見てるようで苦笑いが溢れてしまう。此処は職場で、興奮して声の大きい彼らの他にも補助監督や呪術師も大勢いるだろうから、流石に行き過ぎた話題は控えていただきたい。そろそろかとタイミングを見て壁から体を離した時に、部屋の中からカタンッと短く音がした。

「おー。そしたら家帰ったら本人に言っとくわ。多分あいつ喜ぶぞ。」
「えっ……」
「んじゃ、お疲れ様さん。無駄話してねぇで仕事ちゃんと終わらせろよー」

聞き慣れた声と、小さくなった男性の声に動きが止まってしまった。その間に古くて建て付けの悪い扉を開ける音が廊下に響いて顔を上げると、案の定の姿があって息がヒュッと詰まった気がした。

「盗み聞きか?」
「いや…別に、そういう訳じゃ…」
「あー、腹減った。帰ろうぜ。」

まるで私が此処にいるのを気付いてたみたいに、私の姿を見ると口端を上げて篤也が意地悪く笑う。言い淀んで動けない私の腰に手を回すと、そのまま欠伸を漏らしながら歩き出したので慌てて足を動かした。

「ちょっと、報告書提出したいんだけど!」
「んなの、別にメールで送ればいいだろ。」
「そうだけど……ねぇ、いつもあんな風に人に言ってるの?」
「んー?どうだろうなぁー……今回はハエがブンブン煩かったからかもな。」

普段は仕事場でこんな触れるなんてスキンシップは取ってない癖に。それは明らかに周りへの牽制で、腰に触れてる手の体温がスーツの布ごしにじわじわと伝わってくる。壁越しに聞こえた言葉に対して問い掛ければ、相変わらず前を向いて歩きながら平然と返される。その言葉で、先程までの猪野くんと私の会話を知っているのが何となくわかった。

「ウチの嫁さんは、こういうのがお好みなワケだ?」
「うるさい…」
「そんな顔で言われても何も怖くねぇわな」

ジクジクと、顔に熱が込み上げてくるけど誤魔化す方法が私にはなくて、それを横目で見下ろして鼻で笑ってくる篤也を睨みつけるしかなかった。さっき猪野くんに意気揚々と上げていた三つの持論は、彼の気まぐれな行動で最も簡単に崩されてしまう。嬉しい。誰の褒め言葉よりも、何倍もこの人からの与えられる言葉や動作が堪らなく嬉しい。

「…今日、お寿司でも食べに行く?」
「おっ!いいな!久々に行くか」

あっという間に高専の校舎を出て、だだっ広い駐車場に向かうとまだ車は沢山並んでいる。篤也がやっと体を離して、車のキーをコートのポケットから解除して解錠の音が鳴る。そのタイミングで声をかければ、ドアを開けた篤也が嬉しそうに顔を上げた。2人で運転席と助手席に乗り込んで、慣れた動作でシートベルトをつける。夕飯が決まれば早速カーナビにいつも行きつけの寿司屋の名前を打ち込んでいる指先と横顔を、私は黙って見つめていた。

「…やっぱり、持ち帰りとかだと嫌?」
「ん?あぁ、別に好きなネタ食えりゃなんでもいいが…」

カーナビに打ち込み終わると、効果音が鳴って到着時間を知らせてくる。いきなり変わった意見に、特に嫌な顔はしないで篤也が此方を見つめてきた。どこか体調が悪いのかと言わずとも語っている切長な瞳を見つめ返して、胸元の自分を守るシートベルトを握りしめながら息を吐く。

「早く家に帰って、くっつきたい気分。かも。」

中途半端に触れて、彼の匂いで包まれる車内にいて、触れられる距離にいると、このまま好きが溢れてどうにかなってしまいそうだった。あぁ、猪野くんに私のことが好きだから、なんて余裕ぶっていたけれど、私の方が大概彼に溺れて抜け出せないみたいだ。私のワガママに、篤也は小さな瞳を一瞬だけ丸くすると、すぐに細めて笑った。ガシガシと乱暴に頭を撫で回されて髪型が崩れてしまったが、長い前髪を耳にかけてくれてすぐに視界が開けてくれる。

「はいはい。んじゃ、ワガママ奥さんのおねだりを叶えるために行きますか。」

もう初々しい関係ではないから、ココでドラマみたいに車内でキスとかはしてくれない。でも、きっと2人だけの家に帰れば、いつもみたいに目一杯甘やかして愛でて愛を注いでくれるんだろう。揶揄うようにそう呟くと、車のエンジンをかけてゆっくりと帰路に向かって走り出した。

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