お酒と一緒に飲み干して


ベージュのトレンチコートと茶髪のツンツン頭、気怠げな目で表情はいつも険しくて、でもへの字の口にはいつもキャンディーの棒が揺れている。それが私の好きな人。

「飲み過ぎですよ。」
「そーんな事ありませーん。」

見つめている先から目を離さずに残ったビールを一気に飲み干すと、少しぬるくなった苦い後味がじんわりと広がる。隣の七海がそんな私を一瞥して忠告してくるので、彼に視線を移してわざとおどけたように返事しながら空っぽのグラスを机に置いた。
今日は年に一度あるかくらい稀な無礼講の飲み会の日。といっても、いつだって呪術師の世界は人手の足りないブラック企業なので、たまたま任務が入ってない呪術師や補助監督の人たちが集まっただけの会だ。呪術師同士、補助監督とも親交をより深めて普段の仕事の効率向上も目指し
て…が目的と聞いたことあるけど、本当にそれ故に始まったのか、ただの飲み会を正当化させるためにつけた後付けの口実なのはわからない。
各テーブルでは楽しそうに笑っていたりコールと手拍子と一緒にお酒を一気に飲んでいたり、何か相談しているのか泣いていたり慰めたりとそれぞれで、私の隣では同期の七海が黙々と日本酒を飲んでいる。私はあんまり日本酒は詳しくないけど、きっと経費だから良いお酒をここぞとばかりに飲んでるんだと思う。じゃないと、七海はこういうガヤガヤした飲み会なんかには来なさそうだし。
私が今日参加した理由の先に目線を向ければ、相変わらず先程と変わっていないようだった。思わず指先に力がこもってしまって、食べようと握っていた枝豆が皮からピョンっと飛び出し机の上をコロコロと転がって何処かへ行ってしまった。

「…そんなにずっと見ているなら、此処で不貞腐れてないで隣に行けばどうです?」
「…うるさい。今はまだお酒で力を蓄えてんのよ」

目線の先には、日下部一級呪術師。と、可愛い補助監督の女の子。
いつからだったか、気付いたら日下部さんの事を目で追うようになってしまった。人間一度恋心を自覚してしまえば単純なもので、彼の好きなところがどんどん見つかって知らない内に沼に落ちてしまう。そんなこんなで彼に首ったけなわけだが、任務とかの業務などの仕事面では別に何ら問題なく会話出来るが、それ以外は遠くから熱心に日下部さんを見つめる事しか出来ないのが此処最近の悩みだ。
下心のある私が隣に行くなんて出来ないのを知っているクセに七海がそう言うから、唇を尖らせながら手元のグラスを煽ったけれど中身のお酒は先程飲み終わっていたので一粒水滴が乾いた口に触れるだけだった。しょうがなくそこにいた店員さんにハイボールを注文すると、また七海が飲み過ぎですと言っていたけど聞こえないフリをした。

「…日下部さん、あぁいう可愛い系が好きなのかな…?」
「さぁ、本人に聞いたらどうですか?」
「聞ける訳ないでしょ。七海が聞いてきてよ。」
「絶対に嫌です。」
「はぁー…もうダメだ。もう今更可愛い系なんて無理だから終わった…」

彼方のテーブルでは、補助監督の女の子が日下部さんに日本酒をお酌していた。私がそんな事したら、緊張と羞恥と酔いで彼のズボンをびちゃびちゃにすると思う。…彼女は確か、伊知地君の一つ下の子だったっけ。今まで二人の関係性の噂は聞いた事なかったから、私が短期任務に出ていたここ2ヶ月とかで何あったのかもしれない。だって、あの子が彼を見つめる瞳は誰が見ても熱を帯びている。

「驚くほど積極的な時もあれば今みたいに消極的な時もあって…本当に貴女は面倒ですね。」
「紳士的な七海くんってそんな事言っちゃうんだー?五条さんに七海に苛められたって言いつけちゃおうかなー」

最早ガン飛ばしてると勘違いされそうな程ずっと2人を見ている私に、七海が心底呆れたように溜息を一つ漏らす。この同期はさっきから意地悪な事ばかり言うから両手で自分の肩を抱き傷付いたとジェスチャーをして見せると、七海はただ無言で私を見下ろしている。なんだ、五条さんって言ったから怒ったのかな?ただの冗談なのに…ちょっと怯んで身長差のある七海をおずおずと見上げてお互い無言の時間が生まれ、周りのガヤガヤと喋る声がさっきよりも大きく感じる。数秒見つめあって、先に動き出したのは七海だった。

「貴女だから言うんですよ。」

呆れたように溜息を吐き出して、私の頭を一度撫でる。そう思った後に頭蓋骨を包み込むように大きな手のひらで掴まれてひと回しくらい回された。それだけでもやけ酒している私は酔いが促進され世界が回って間抜けな声を出していると、崩れた前髪の隙間から七海がちょっとだけ笑っているのが見えた。すぐにその手は離されて、七海は私の髪型を簡単に整えてくれてからお水のグラスを私の手元に置いて立ち上がった。

「どこ行くの?」
「その五条さんに絡まれている伊地知くんを助けに行ってきます」

彼の視線の先を辿ると、確かに五条さんに肩を掴まれて唐揚げを口元に推しつけれている伊知地くんがいた。五条さんは楽しそうに笑っているけど、あれで酒を一滴も飲んでないシラフなのが本当に驚きだ。不憫な伊知地くんにナムナムと手を合わせているうちに、七海は救出のために行ってしまった。七海の登場に五条さんが笑いながら何かを言っていて、やっと解放された伊地知くんは半泣きな顔にも見えた。
一人になってしまったタイミングで、店員さんからハイボールが届いた。グラスがキンキンに冷えていて美味しそうだが、彼が言うようにちょっと酔ってきたなと自覚を感じ始めてなかなか手を着けられず冷め切ったポテトフライの端を口端に咥える。もう湿気ってしまっているポテトは、彼の乾いた唇からいつも覗くキャンディーのようにプラプラ動く事はなかった。ふにゃりと力なく折れているポテトを全部口に放り入れるとほんのり塩味が広がる。

「あ、あの…大丈夫ですか…?」

いい感じに頭がぼーっとしてきて、程よい眠さが心地よくて微睡んでいると肩を控えめに叩かれ意識が戻ってきた。振り返ると見覚えのある補助監督の男の子がいて、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「あー、大丈夫だよ。そんなに酔ってないし」
「でも顔が真っ赤ですし…」

にへらと笑って手を振ってみせるが彼は引くことなくて、先程まで七海が座っていた私の横の座布団に片膝をつく。困ったな、酔いは回ってるけど個人的にはほろ酔い程度な気分だからそこまで心配されるとちょっと萎えちゃう。困った理由はそれだけではなくて、チラリと彼の表情を盗み見る。

「…良かったら外で涼みますか?」

うーーーん、やっぱり彼は私の事ちょっと好意持ってると思うんだよねぇ…。前々から任務で一緒になった時にやたらとプライベートの質問してきたり、出張した際に何かと理由をつけてお土産をくれる時があった。多分そうかも?くらいだったけど、今日隣で私を見つめる瞳は心配の他の感情があるのは嫌と言うほどわかって、確信に変わった。彼も私も大人だから、その言葉がそのまま本当に外で酔いを醒ますだけではないのは明確だ。どうやって気まずくないように切り抜けるか考えるけれど、アルコールで鈍くなった脳みそでは名案が浮かばずにとりあえず距離を取るために身を引いたがその分距離を詰められてしまった。寧ろさっきより近づいた気がする。いやはや、困った。どうしたものか。

「すまん、あっちで潰れてる奴がいるから先にそっちの処理してくれねぇか?」
「はっはい!」

悩んでいるとふと影が落ちてきて、目の前の彼の背筋が一瞬で伸びていい返事が響く。慌てて立ち上がった彼が座布団で一瞬滑りそうになっていて、手を差し伸べようとしたけどその前に彼はバタバタといなくなってしまった。そんな背中を見送りながら、私の心臓はドッドッと煩く鳴り響いてる。だって聞こえた声も、服が擦れる音と一緒に香ってくる香りも私が知ってるものだった。

「どっこいしょっと…」

ズレた座布団の位置を整えてそう言葉を漏らしながら座る日下部さんは、さっきあの子からお酌してもらっていたお猪口じゃなくてグラスを持って来た。多分色的に中身は緑ハイとかだと思う。

「七海はどうした?」
「え、あー…伊地知くんを救出に…」
「あー……なるほどな。」

私が答えると、五条さんが笑っている卓に視線を投げてご苦労なこったと言葉を漏らしながらグラスに口をつける。それで会話が終了してしまって、二人の間には沈黙の時間が流れた。ガヤガヤと煩いみんなの話声がとても遠く感じる。ただ補助監督の子に介助要請を頼みに来ただけかと思っていたけど、動かないところを見ると日下部さんはどうやら此処に居座る気らしい。切り出す会話の候補をあげるけどもう天気の話題くらいしか思いつかなくて、もう勢いに任せようとハイボールを半分ほど一気飲みした。

「ふぅ…日下部さんはどうしたんですか?」
「俺の卓は肉だのばっかりで食うもんねぇーんだよ。おっさんの胃は繊細なもんでね。」

そう溢しながら日下部さんがネクタイを外したワイシャツの上から胃を摩るので、二十代後半になり私も気持ちが少しわかるので苦笑いを返した。今日はコースではなく各々で頼んでいるから唐揚げや焼き鳥などメニューが豊富だった。うちの卓は酒飲みが多いので主食よりもツマミ系を頼んでいたけど、若い勢が多い卓なら確かに豪華になりそうだ。誰も手をつけてない枝豆を摘んでいる日下部さんを見て、ふと思い出して手前にあった皿を差し出した。

「これ…さっき頼んだばかりなんで、よかったらどうぞ」
「お、いいのか?俺トロたく巻き好きなんだよ」

えぇ、存じております。好きな人が好きな食べ物を何となく食べたくなっちゃう、っていう心理で注文しました。そうやって心の中で呟きながら刺身醤油と新しい箸を取って差し出すと、日下部さんが受け取る時にちょっとだけ指先が触れてそれだけで身体が熱くなった。
トロたく巻を食べている日下部さんは、少しだけ普段よりテンションが高い気がする。一口食べて、居酒屋クオリティーだから舐めてたが意外と美味いな、っ感じで少し目を開いて見下ろして、もう一つ食べた。大きな口に小さなトロたく巻きが吸い込まれるのは面白いし、美味しくて嬉しそうなのが何となく伝わってきて可愛いし、普段とのギャップにキュンとしてにやけそうだ。

「…んだよ。」
「いや、日下部さんって可愛いんだなー…って」
「ハァ?」

どうやら耐えてたつもりだけど口元はだらしなくにやけていたようで、日下部さんが怪訝そうな顔で私を見てくる。素直な感想を述べると、日下部さんは本気で意味がわからんと言いたそうな顔をした。

「あ、勿論可愛いだけじゃなくてカッコいいもありますよ!男らしいというか、こう、雄みがあるというか…」
「雄みってなんだそりゃ…あんまりおっさんを揶揄うなよ。…というか、それ加齢臭とかじゃねーよな…?」
「加齢臭じゃないです全然!なんていうか…香水とかじゃなくて、大人の男の人の香りはしますけど……うーん、言葉に表せないけど、とりあえず好きな香りです!」

酔っ払っているせいで言葉を発する事に墓穴を掘ってしまう。悩みに悩んで振り絞った最後の発言は失言でしかなくて、やってしまったと少し酔いが覚める。赤くなったり青くなったりする私を他所に、日下部さんは最後のトロたくを口の中に放り込んだ。

「ふーん……まぁ、加齢臭じゃねぇならとりあえず良いか。お前も物好きなやつだな。」

そう言って目を細めに口端を少し上げて日下部さんは笑う。その表情も、余裕そうな大人な返しも全てに頭を殴られたような勢いでドッッと心臓が苦しくなる。今まで彼氏がいた事はある。でもこんなにも心掻き乱された事はないから、本当この男の沼にハマるのは危険だと手遅れながら実感する。あの補助監督の子も、ピュアそうなのにこの人を好きになってしまって逆に同情しかない。顔は熱いし喉はカラカラだしで残りのハイボールを飲み干して、馬鹿になった思考を麻痺させる為に追加のお酒を注文した。


「アイツらも元気なこった。」

結局、解散の時まで日下部さんは隣にいて途切れ途切れだけど世間話をしていた。すっかり解散の時間になり皆それぞれで身支度を済ませる。彼のいうアイツら、というのは五条さんがいる集団で、どうやら五条さんの提案で締めのパフェがある店に行くらしい。きっと甘くて美味しいだろうけど、こんな夜に生クリームを食べたら2日酔いとはまた違うダメージを受けそうで恐ろしい。

「日下部さんは、二次会は行きますか?」
「飲み足りねぇが、アレについて行くのはめんどくせーからな…」

各自店を出ると、二軒目に行くためにたむろしてる集団や、無礼講な今日は上司の誘いを断って足早に帰る後輩たちもいて様々だ。私はすっかり出来上がっていて頭がポヤポヤしているけど、日下部さんの顔色は普段とそんなに変わらなかった。飲み足りないなんて、お酒強いんだな。今日は日下部さんの一つ知らなかった情報が増えて豊作だ。

「そしたら!私と二次会はいかがでしょうか⁉︎」

つい、後先考えずにそう言ってしまった。最初に七海に言っていた、お酒のパワーってやつがやっと本領発揮してきたのかもしれない。お酒が入っている時なら、もし断られてもそうですよねーあははーで済ませれるかもだし、その場のノリと空気とかあるし。誰に言う訳でもない言い訳を心に並べて拳を強く握りしめて日下部さんを見上げれば、私の発言か、それとも思ったよりも出てしまった声のボリュームかどちらに対してかわからないが驚いた顔をしていた。

「…そんな気合い入れて誘われんなら、まぁ軽く行くか」

やっぱ断れたらあははーで済ませられないで死ぬな、と拳の中で変な汗をかいてると、日下部さんが吹き出すように笑って私の頭をポンっと叩く。七海とはまた少し違う、男の人の手の感触。撫でる訳でもなく、ただ一瞬置かれたその感覚が堪らなく愛おしかった。

「でもお前もうそんな飲めねぇだろ?あんまり酒だけのところじゃねーとこがいいか…」

お会計を終えた五条さんに見つかって無理矢理パーティーの仲間入りをされないように、暫く適当に歩いて居酒屋のキャッチが少ないエリアに移動してから立ち止まる。完全に酔いが回っている私は、そう言いながらスマホを操作しお店を探し始める日下部さんの横顔を眺める事が今の私の最大の任務だなんてよくわからない事を本気で思った。自分で思っているより、相当酔ってるのかもしれない。
えー、私が酔ってるからそんなことまで気を遣ってくれるの?自分は飲み足りないって言ってたのに?日下部さん優しすぎない?街灯の光もあって足元が見えない程ではないけど、ほんのり薄暗い歩道の端でスマホの画面の光に照らされて見える日下部さんの顔立ちかっこよすぎだろ…。七海みたいに鼻が高いって訳じゃないけど、目元とか顔のパーツの凹凸が光で照らされて際立っているのがとても良い。あー、もう。

「私、日下部さんが好きです。」

色んな好きが頭の中でぐるぐる渦巻いて、好きでパンクしちゃいそうで思わず口に出してしまった。中々ハッキリと声に出したので、一拍遅れてからバッと日下部さんが顔を上げて私を見る。その顔は照れるとか嫌悪とかそういうのはなくて、例えるなら『正気か?』って言いたげなくらい何とも言えない顔してた。
そんな私も今彼に告白したかったとかじゃなくて、アレもソレも好き過ぎるんだけどこれどう思う?やばいよね?って気持ちで言ってしまったから、不思議と照れるとかそういう気持ちも湧いてこない。大体、そうやって好かれる要素を沢山振り撒いている日下部さんが悪いと思う。

「……いや、このタイミングじゃねーだろ…」

お互い見つめあって、でもその間に熱は生まれるような雰囲気ではなくて。無言が続く中に先に口を開いたのは日下部さんだった。間違いない。ここは普通に変哲もない道路の端だし、二軒目探してる途中だし、イルミネーションっていうより居酒屋やキャバクラホストなのどの看板の灯りで爛々としている二十二時だ。ロマンチックもクソもないのは重々承知している。

「このタイミングです!だって私!今!日下部さんの横顔見て、ヤバい!ちょー好き!って思ってましたもん!」
「おっおい!ちょ、声のボリューム落とせ!」
「何でですか!日下部さんも大っきい声出してるじゃないですか!それに、何で好きって思った時に好きって言っちゃダメなんですか⁉︎」
「わかった、わかったからちょっと落ち着けって…」

あんなに話しかけるのも隣に行くのも日和っていた人なんて思えないくらい、ツラツラと想いが溢れ出してそのまま声に出てしまう。それが変だと思えない程に、私は泥酔しているんだろう。お酒の勢いって凄い。焦って額に汗を一筋垂らす日下部さんは勘弁してくれと懇願するように小さく声を漏らしながら私の肩を両手で掴んできた。彼は落ち着かせる為にするその行為も、私には逆効果なのに。

「私、もう気持ちを隠せないくらい日下部さんのこと大好きなんです。」

もっと声が聞きたい。もっと色々な顔が見たい。もっと彼の事が知りたい。酔うと普段隠していた感情がムクムクと顔を出す。感情が爆発して、ついでに一緒に涙腺も壊れてポロポロと涙が溢れてきた。それを見てギョッと日下部さんが目を見開く。

「はぁーー……ったく」

日下部さんは目を瞑って何か悶えて、大きく深い溜息を吐き出してからガシガシと乱暴に自分の頭を掻く。あぁ、すみません悲しくて泣いてる訳じゃないんです。ちょっとあなたが好き過ぎて感情が追いつかなくて。弁論したいけど、私の口から出たのはヒックとお酒の匂いが滲んだ嗚咽だけだった。

「ちょっとこっち来い。」

ただただ泣いている女と強面の顔の男だと、人通りのある歩道だとやはり通り過ぎる人々が好奇の目で見てくる。日下部さんは短くそう言うと、私の二の腕を掴み曲がり角を曲がって小道に入って行った。

「く、日下部さん…怒ってます…?私袋叩きされちゃうんですか…?」
「ハァ⁉︎なんでこの流れでそうなんだよ!」

人も街灯もどんどん減って、街の賑わいの音が遠くなっていく。いつの間にか私の涙も引っ込んで、その分酔いもちょっとだけ覚めてきた。私は、相当やらかした。何なら本当に殴って記憶を飛ばして貰いたい。私の腕を引っ張りズンズンと進んでいく日下部さんにおずおずと言うと、凄い剣幕で怒られた。あぁこれはもうお終いだ普通に怖い。

「おら、顔上げろ。」
「んむ……っ⁉︎」

立ち止まって私の二の腕を離すと、日下部さんは私の顎を掴んで上を向けた。いきなり上を向いたので気道が狭ばり苦しくて声が漏れたが、それよりも近距離にある日下部さんの顔に驚いた。息を飲む前に、それはそのまま日下部さんの口の中に消えていった。

「は…ふ…っ」

うそ、私今、日下部さんとキスしてる。触れ合うようなフレンチキスじゃなくて、呼吸も唾液も全て飲み込まれそうな大人なキスだった。上顎を舌先で撫でられるとゾワゾワと背筋が震え、身を引こうとしてもいつの間にか腰に空いた手を添えられていて逃げられない。ずっと、日下部さんとのキスは飴ばかり舐めてるから甘いのかと思っていた。でも実際はお酒の味がして、ちょっとだけ苦い。口が離れる頃には力が抜けていて、日下部さんが腰を支えてくれていなければしゃがみ込んでしまいそうだ。

「一つ、気持ちを隠せないとか言ってたが、お前が俺を見てるのバレバレだ。」
「へっ⁉︎」
「そりゃあんな熱い視線もらってりゃ、誰だって気付くに決まってるっちゅーの」

頭がポヤポヤするが、これは絶対にお酒のせいではないだろう。それよりもかなりの衝撃発言に今度は私がギョッとする番で、そんな様子の私に日下部さんは呆れていた。

「二つ、あぁいう事言うのは二軒目行ってからだろ。あんな歩道で言うやつがあるかよ」
「うっ……すみません…」

先程キスしていたと思えないほど甘い空気は私たちの間にはない反省会が始まった。

「三つ、お前は酒の飲み方に気をつけろ。今日みたいに悪い虫が寄ってくるから、飲むなら七海か俺の隣で飲んどけ。五条でもいい。」
「わかりました…」

申し訳なさと、あと怒られているけど日下部さんに腰を支えられているので傍から見れば抱き締められているような体制なのが気恥ずかしくて、どんどん顔を俯いていく。…さっきまで、それ以上の事してたのを思い出すと顔から火が吹き出しそうだ。

「で、この後どうする?飲み直すか?」

頭上からそんな言葉が降ってきて、思わず顔を上げる。視線がパチリと合うと、日下部さんは明後日の方を向いてしまった。

「…んだよ。」
「私、日下部さんの返事聞いてません。」

いい加減酔いも覚めて、今の状況くらい自分でちゃんと把握出来ていると思う。候補は三つ、二軒目に行って反省会か、はたまた何もなかったかの様子に過ごすか。二軒目は酔ってるので大丈夫です、すみませんでしたーって安全圏内コースか、それか一緒にどちらかの自宅に帰るか他の場所に、な流れだろう。いえば、さっきの補助監督の男の子と同じようなものだ。今回は好意を向けているのが私で、そしてもう爆弾発言とキスをしているという条件が違うだけ。

「だから、さっき返したろ…」
「返事、聞いて、ません。」

別に私だって大人だし、少女漫画のように両思いじゃないと嫌!みたいな訳ではない。日下部さんの事は勿論好きだし、ワンナイトになっても逆にちょっと嬉しい。でも、同じ職場なら話が別だ。流石に気まず過ぎるし、日下部さんと違ってそこまで私も器用じゃない。言葉を区切って強めの口調で言うと、よそを向いていた日下部さんが心底嫌そうに此方を見る。さっきから思っていたけど、本当に告白の場面かな?って疑いたくなるくらいの顔されるから流石に酒が抜けてくると傷付く。

「…告白されたから好きじゃないけどキスだけしたって事ですか?」
「だぁー!違う、違うだろそれは。そんなだらしないやつじゃねーだろうが」

意外と身近な存在でもそう言う事しちゃうタイプなのかと内心ちょっと引きながら呟く。それならやっぱり、あの補助監督の子ともそう言う事あったのかも。胸がズキズキモヤモヤと騒がしい中、思ったよりも大きな声で怒られて滲んできそうな涙は一瞬で引っ込んだ。日下部さんは相変わらず乱暴に自分の頭を掻いていて、将来禿げないかちょっと心配になってしまう。日下部さんの手が腰から離れると、彼と自分の間に隙間が出来て寂しくなる。すると小さく唸って私を見下ろす日下部さんの眉間の皺が深まった。

「…んな風に物欲しそうに見んな。クソッ…好んでる女を上手いこと二軒目に誘って、これからどうしようかって時に出鼻挫かれちまった時のいい返し方なんてあるか…?」

大変だ、彼の体温が恋しくなったのも一瞬でバレてしまったらしい。いや、それよりもその後に聞こえた問題発言の方が大変かもしれない。まだ少し酒残っている頭で理解しようとゆっくりと言葉を飲み込むが、どう考えても今までの雰囲気とは違う発言すぎて幻聴だとしか思えない。幻聴かも、と自己完結しようとしていると、また腰元に日下部さんの手が回されてどこかに飛んでいっていた意識が戻ってきた。

「…で、この後そんな野郎と飲みに行ってくれんのか?」

先程の支えるような力じゃなくて、腰のラインを撫でるような手の感触にさっきまでのキスの感触を思い出す。結局返事、貰えてない。だけど一度知ってしまえばもう深みにハマってしまっていて、自分の幻聴かもしれない彼からの言葉を甘んじてしまいたくなった。

「…飲みに行かないで、このまま日下部さんのお家なんてどうですか?」

トレンチコートの下に着ているスーツの胸元に手を置くと、日下部さんの鼓動がシャツ越しに手のひらに伝わってくる。今まで隣に座ったことも無いから今の彼の脈がいつもより早いかなんてわからないけど、体温は暖かかった。彼を見上げてそう答えれば、日下部さんが唾を飲んで喉仏が上下する。

「…汚れてても文句言うなよ。」

短くそう言うと手が腰元から離れて、そのまま手を取り日下部さんは歩き出した。今度は二の腕じゃなくて手首を掴まれているから、余裕打っている私の脈の速さはバレバレだろう。

「…そういえば、相手の体臭の好みって遺伝子的な相性らしいですよ。」
「そーか、そしたら安心っつー事だな。」

どんどん賑わいの声が大きくなってきて、次の角で大通りに出るのが分かり始める。ぽつりと呟いて見せれば、ぶっきらぼうに返事が返ってきた。彼の一言一言に心が揺さぶられて、期待してしまう。七海に話したら暫くお酒禁止されそうだな。タクシーを待って立ち止まっている間、これから日下部さんの知らない部分に踏み入れてもっと彼の沼にハマってしまうのが怖い気持ちと拗らせすぎた恋心がせめぎ合いするのを感じながら、トレンチコートの腕にもたれるように寄りかかった。


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