あの夢の終着点は、
今でも、夢に見る。真っ暗な空間に、横線3本の小さな隙間から頼りない細い光が差し込んでくる。どこか遠くから聞こえる幼い笑い声と、時間を知らせるチャイムの音が此処にいる私だけが別世界のように感じた。なにも聞きたくなくて、なにも見たくなくて、強く目を閉じて耳を押さえた両手はとても小さくて震えていた。
「……ハァ、勘弁してよ…」
聞き慣れた音楽に重たい目を開くと、そこはいつもと変わらない私の部屋の天井で。スマホのアラームを止める手は、記憶通り先日変えたばかりの少し季節をイメージしたおまかせのニュアンスネイルだったから安堵の息を吐いた。スマホの時間を見ると今日予定してる任務の1時間前が表示されていて、二度寝は諦めて仕方なく体を起こして軽く伸びをする。
「あの夢見ると、ロクなことないのよねー…」
ぼんやりと、誰に伝えるわけでもなく独り言を漏らしてベットから足を下ろすと、床がひんやりと冷たくてまだ寝たいと訴えかけてきていた体が覚醒していくのがわかる。夢に出てきた小さな少女の時と違って、今は外に出るだけで支度が多い。スキンケアだってしっかり保湿して栄養を入れないと労働に疲れた肌はハリが出ないし、ファンデーションを塗らないと目の下にいつもいる隈も消えることはない。生脚を出すのも抵抗があるし、昔は大人に早くなりたいとあんなにまで願っていたのに実際は不便な事ばかりだ。しかも、こんなに頑張らなきゃいけないのに、それが誰かの為じゃなくてただ仕事に行くだけなんて面倒でしかない。今日の任務内容を頭の中で確認しながら、いつもと同じルーティンで顔を作り髪の毛を整えて身支度を整えている内に携帯のバイブが鳴ってあっという間に時間を知らせてきた。
「ハイハイ、もしもーし」
『おはようございます。今マンションの下に着きました。』
「私も今支度終わったところ。すぐ降りるね。」
電話越しに聞こえてくるのは聞き慣れた後輩の補助監督の低音で、鞄を肩にかけて靴を履きながらお礼を言って電話を切った。確か今日は二級呪術師の人と同伴の任務だったはずだ。待たせるのも申し訳ないので気持ち早足で廊下を歩いてエレベーターに乗り込んだ。エントランスを抜けて外に出れば見慣れた黒塗りの車が止まっていて、後部座席の扉を開けて中に乗り込もうとした途中で動きを止めてしまった。
「…あれ、今日七海くんが一緒なの?」
昨日確認した資料だと、確かに相手は二級呪術師の子だった。任務内容もそんなに難しいものじゃないから、彼が一級に上がる技量があるのかを見守る程で一応2人体制になっただけだったはず。なのに後部座席に先に座ってる人物は、後輩の一級呪術師の七海建人くんでしかなくて。まだ寝起きに近い頭では疑問が解決しなくて首を傾げてしまうと七海くんは深く溜め息を吐き出し、運転席の伊地知くんが困ったように眉を下げながら振り返ってきた。
「今日予定してた二級呪術師の彼が、昨日の任務で怪我してしまいまして…今は家入さんの治療を受けてます」
「あら、そうなの?でもそれなら私1人でもよかったのに。」
「いえ、まだあそこのエリアは情報が完璧には集まっていない状態なので、1人では危険ではないかという判断になりました。それで…」
「ちょうど私が報告書を出しに行ったタイミングで、五条さんに捕まったという訳です。」
中途半端に屈めていた腰もきついので車に乗り込んで扉を閉めると帰ってきた言葉に何度目かわからない瞬きを繰り返す。説明してくれる伊地知くんの後にずっと腕を組んだままの七海くんがやっと口を開いた。その口調はどこか棘があって、きっとそれは人手不足と上の上司たちへの不満だが、この場にいる伊地知くんがすみません…と萎縮してしまった。
「七海くん、何徹目なの?」
「まだ2徹です。今日で11連勤目です。」
「わぁ、ハードだね。私今日久々に10時まで寝れて幸せだったよ。」
静かに安全運転で発車する車の中で横目で七海くんを見て問い掛ければ、漸く組んでた腕が解かれて凝り固まっているであろう肩をほぐし始めた。私が呑気に言葉を返すと、喧嘩を売ってると思われたのかよくわからないサングラス越しに睨まれたから思わず笑ってしまった。
「今日の資料読んだ?」
「先程伊地知くんに貰いました。高校での怪奇現象ですね」
気にする事なく問い掛ければ、七海くんも本気で怒ってるわけじゃないから律儀に返してくれる。他の人だったらあんな視線を食らったら怯んでしまうかもしれないけど、こんな風に逞しくなる前の昔の彼も見てきたからどちらかと言えばこういう風にお話しできるのは素直に楽しい。気付けば、共に勉学に励んでいた仲間は彼らと五条くんと硝子くらいだ。七海くんは一度はこの世界を離れてしまったけど、今はこうやって此処に戻ってきた。会わない間に、すっかり体付きのいい良い男になってたから最初こそ驚いたものだ。流れていく景色を見ながらポツポツと何気ない会話を時折伊地知くんも混じって話してると、一時間くらい経った頃に目的地に到着して静かにエンジンが切られた。
「今日は学生さんたちはいないの?」
「はい、臨時休校ということにして部活動生もいない状態にしてあります。」
着いたのは何の変哲もない学校だが、平日なのに誰一人人がいないからなのか何だか不思議な気分になった。伊地知くんが帳を下ろすのを車に持たれて見守りながら、七海くんと改めて資料を開く。
「問題があるのは北校舎ですね。放課後に物音がする、声が聞こえる、物が移動してる…」
「学校の七不思議みたいだね。」
「目撃情報は北校舎に集中してますし、別行動ではなくて一緒に祓って行った方が効率が良さそうですね」
全て辺りが闇に包まれると、先程までの学校からどことなく嫌な感じがしてくる。微かに感じる呪霊の気配もやはり北校舎の方で、七海くんの作戦に頷いて二人で歩き出した。
そこからは、本当に学校の七不思議のような現象が起きるけれど、私たち呪霊が見える人間からしたら三級や四級レベルが教室や実験室でイタズラして物を動かしているのがほとんどで拍子抜けしてしまった。まぁでも、見えない子達からしたら恐怖以外の何者でもないだろう。その中でも、一匹だけ二級呪霊が奥の音楽室にいたのでそれが生徒たちの謎の体調不良などの原因のようだった。
「いやー、改めて七海くんのその術式って切れ味よくて清々しいね」
「なんですかそれ。それより、これで全部みたいですね」
異形の形の呪霊は、歌とも言い難い奇声を上げてきて攻撃してくるスタイルで頭が割れそうだった。近距離戦では不向きなタイプの呪霊だったが、私が囮になると成長途中の呪霊なのかそれに気付く事なく此方に寄ってきて見事七海くんが後ろからバッサリと7:3でトドメを刺した。消えていく呪霊を見下ろすと、色々な声が混ざっていて主に若い子の声がする。きっと、学生たちの色々な悩みや不安・恨みなどが凝縮されて出来上がった物なんだろう。若者は素直な分、言葉が鋭いナイフのような攻撃力があることを知らないから余計に恐ろしい。
「そうだね、そしたら伊知地くんに連絡、を…ッ」
顔をあげて辺りを見回すけれど、微かに残る呪力はあるが存在はもう感じられなかった。七海くんも背中に呪具を戻していて、私も携帯を取り出したところでグラリと視界が眩む。先程のように頭が締め付けれるように全体的に痛みが広がって、どこか遠くで奇声が聞こえる気がする。確実に仕留めたはず、と思ってどうにか足元を確認すると呪霊は最後の頭が消えていくところだった。
「あ、ぐッ…!」
強い力で腕を引かれて、落ちてしまう、と錯覚したけど腰を引き寄せられて揺らめく体が支えられた。多分、熱い体温と逞しい感覚的に七海くんなんだと思う。もう今がどういう状態か把握出来ないまま、視界が暗くなっていった。
「い、た…かった……七海くん、大丈夫…?」
「えぇ…どうにか…」
いつから意識が飛んでいたのか。長い時間だったのかもしれないし、一瞬だったのかもしれない。先程まで割れてしまいそうな頭痛が引いてきて、それ故の耳鳴りも落ち着いてきた。今どういう状態かすぐに分からなくて、足に力を入れるとどうやら私はもう立っておらず倒れているようだった。ゆっくり目を開ければ、目の前が真っ青で暫くしてからやっとそれが七海くんのシャツなんだと気付いた。目の前には七海くんがいて、いつものサングラスを外しながら眉間を抑えている。そうか、最後に七海くんが引き寄せてくれたから、私が倒れ込んで七海くんに覆い被さっている今の状態になっているらしい。
「ごめんね、重たいよね。すぐ退くから…痛っ!」
彼の胸板にダイブしてる状態だったので全体重を預けている分、もし意識を手放していたのが長い時間だと大変申し訳ない。起きあがろうと体を起こそうと力を入れると、後頭部に何かぶつかってまた別の痛みが広がってきた。それを見て瞬時に七海くんからまた腕を引き寄せられるので、また彼の胸元へと戻ってしまった。これが女の子だったら柔らかさを感じるんだろうけど、生憎逞しい七海くん相手では硬さしかなくて倒れ込む時に胸板に鼻をぶつけて少し痛い。
「え、何?攻撃?どういう状況なの?」
「どういう状況、と言われると…私たちはどこかに閉じ込められているようですね」
「え?」
顔だけあげて七海くんを見上げると、グッと眉間に皺を寄せて私を見下ろしていた。そう言われると、七海くんの先には先程までの景色と違って白い角が見える。背後で、七海くんが頭上を押す気配がするけど何も音もしないし動く気配も感じられない。ドクリ、と心臓が鳴り響いた。
「動きませんね…恐らく人工物じゃないでしょう。すぐには出れそうにありません」
七海くんの声がどこか膜が張ったように遠くで感じる。足を少し動かすと、コツリと靴越しに爪先が壁に当たってこの空間の距離が伝わってきた。背中越しの天井も、七海くんの手元を見る限り二人が自由に動けるような高さではなさそうで。息が、苦しくなる。心臓が頭に、手に、身体中にあるみたいに鼓動が煩い。あぁ、やっぱり。あの夢見ると、ロクなことない。
困った状態になった。長方形と思われる白いこの空間は扉もなければ隙間も感じられない。体制的にあまり力を込められないが、グッと天井部分を押してみたがびくとも動く気配が見られない。
「…先程の呪霊の最後の何か術式でしょう。闇雲に攻撃するのも未知数なので、とりあえず外の伊地知くんに連絡取れるか確認してもらってもいいですか?」
この空間の狭さで何か攻撃したことによって影響があると防ぎきれない。かといって、長時間居座るのは得策じゃなさそうなので、外部から一度様子を見てもらうのがいいだろう。視線を下ろすと、俯いている彼女のつむじが見える。先程から何も喋らない彼女に声をかけるも、それに対しても返事がない。
「…どうしましたか?まさか、何か体に影響が?」
もしかすると、先程囮になってくれた際に彼女は知らぬうちに攻撃を受けているのかもしれないと思い背筋が冷えるのがわかる。細い肩に手を添えると、ビクリッと思ったより大きな反応があって伸ばしていた手を反射で引いてしまった。
「っぁ、なな…み…ッ」
今度は私の肩が跳ねる番だった。目の前の、自分の胸元に顔を埋める彼女から発せられた声は今にも泣き出しそうなくらい掠れていて、普段の強気で飄々とした様子とは全く違う。どことなく荒くなった息で縋るように体を寄せてくるので、自分の早くなる鼓動も込み上げてきた熱も全て悟られてしまいそうだった。
「っ…あの…」
私は、彼女の事を好いている。正直、いつからかは分からないが、きっと危なっかしかった学生時代から目で追っていた気がするのでその時から無自覚に惹かれていたんだろう。任務中で命に関わる場面だから何も感じなかったが、こうも密着して彼女の存在を感じると男という生き物は単純なもので燻られるものはある。これ以上無闇に動かれると色々と危険な気がして、私のシャツを強く握りしめる小さな拳に手を重ねた。その手は思ったよりも冷たくて、そして、震えていた。
「…どうしたんですか?」
その様子を見て、頭が冴えてきて自分を落ち着かせるために一度息をゆっくりと吐き出してから声をかける。こんな空間に閉じ込められただけで恐怖で震えるなんて、彼女に限って有り得ない。震える手をもう一度包みこむ様に握りしめると、ぴくりと指先が震えた。
「ごめ…ッ、わ、わたし…狭い、とこが…」
途切れ途切れに掠れた声で紡がれた言葉に、全て合点がいく。荒くなった息は苦しげに早くなってきている気がして、壁についていた左手で彼女の腰元を抱き寄せた。小さく震えてる背に右手を添えて、トントンっと彼女にリズムを伝える為一定に叩く。
「落ち着いて。私は大丈夫ですから。ほら、吸って、吐いて。」
私の声が聞こえているか分からないので、何度も吸って吐くのを伝えながらそれに合わせて背を叩く。少しすると頭でそれを処理できたのか、か細く乱れた息をどうにか自分でも呼吸を整えるために胸元で彼女が息を吸って吐き始めた。
「そうです。上手ですね。ゆっくりで大丈夫ですから。」
彼女の熱い息をシャツ越しに感じる。繰り返している内に自分の叩くリズムと彼女の呼吸がほぼ一緒になり、暫くしてからゆっくりと息を吐き出して細い肩の力が少し抜けたのがわかった。細くて少し背骨の感触を感じるその背中から手を離して、シャツを握りしめている手に触れるともう震えは止まっていた。
「ふっ…」
彼女が吐息を漏らしながらぐったりと自分の体に体を預けている姿は初めて見る姿だ。汗で張り付いた前髪を退けてやれば、私の手の温度が気持ちよかったのか閉じられた瞼がピクリと震えた。そのまま頬に手を添えると無意識なのか擦り寄ってきて、普段の凛とした警戒心もある女性の裏側を暴いて覗いた気分だ。密着した体制故にチリチリと胸の奥に燻る感情が溢れそうだが、自分も落ち着く為にゆっくりと細く息を吐き出した。
「…この後、何食べたいですか?」
「……え、?」
自分のいきなりの質問に、閉じられた瞼がゆっくりと開く。アーモンドのような色素の瞳がこちらをパチリと捉えて、数回瞬きをする。少しだけ涙の膜が張っているようで潤んでいるが、流れるまではないようでその大きな瞳に留まっていた。質問の内容もよく理解できていないのか、困惑とも言えない色を写してる彼女の目を見つめながら頬から手を離して親指で目元を撫でた。
「移動に時間もかかりましたし、何だかんだ帰りは夕飯時でしょう。食べたいものはありますか?」
「食べたいもの…そうだね、何が食べたい、かなぁ」
やっと私の問いかけの意味がわかったのか、頭を必死に動かしながら考えてくれる。そんな様子を見つめながら、相変わらず目元や頬を撫でる手を止めないが彼女はそこにまで意識はいってないらしい。目の下はコンシーラーで隠されているが、疲れを隠すことなく薄らと隈が見える。彼女はいつだってなんでもない顔をしながら、辛さを隠しながら頑張っているんだろう。
「うーん…海鮮食べたいかも。最近コンビニとか多かったから、新鮮なやつ」
「いいですね。日本酒にも合いそうです。飲めますか?」
「うん、飲めるよ。辛口は苦手だけど。」
漸く答えが導き出されて、返ってきた答えにまた質問を返せばコクリと小さく頷く。乱れた前髪を直してやり、そのまま頭の丸みに沿うように手を滑らせると見た目通り柔らかな細い髪が指の間を通りするりと落ちた。
「あの、七海…」
「そしたら、次の休みは何がしたいですか?」
「休み?えっと…お昼まで寝て、家の掃除して…寒くなってきたから買い物とか?」
何度も頭を撫でていると、薄く寄っていた眉間の皺が和らいで行く。まるで彼女は猫のようだ。普段は警戒心を持って凛としているのに、不意に懐いてきたと思えばさらりと逃げていく。しかし、今は確実に自分の手元でこうやって体を預けてくれている訳で。
「最近冷え込んできましたから、ちゃんと着込んで寝てください。」
「ふふっ…わかってるよ。」
心配される事が擽ったいようで、首をすくめながら小さく笑みを溢す彼女は可愛らしい。しかし、それを口にすればきっとそんな歳じゃないと嫌な顔をするから胸の中だけに留めておく。今更、ずっと狙っていた獲物を早々と逃すなんて、自分もそんな利口に出来ていない。今日は五条さんから任務をなすり付けられて災難だと思っていた数時間前の自分を殴ってやりたい。ゆらゆらと力の抜けている彼女の後頭部に手を添えて軽い力で引き寄せると、その体はすんなりと自分にもたれかかってきた。
「貴女が健康に生きてくれるのが、1番ですから。」
胸元に埋まる頭を撫でて、腰に添えたままだった腕で彼女の体を抱き寄せた。どうか、いつまでも彼女が元気に笑って、好きな事をして楽しいと思えるように、好きな物を食べて美味しいと口元を綻ばせれるように、そして、辛い時はそれを口に出して生きられるように。あわよくば、私の事も見てくれればという淡い期待を少しだけ乗せて、少しだけ上半身を起こして柔らかい香りが鼻をくすぐる彼女のつむじに気付かれないように口付けた。
トクトクと、規則正しい七海の鼓動が聞こえてきて安心する。胸元に顔を埋めて目を閉じていると、七海が少し動いた気配がして頭に微かに吐息がかかるのを感じた。くすぐったいけど、不思議と嫌じゃない。七海は、私が過呼吸になった理由を、聞かないでくれた。そして、彼のお陰で今こうやって落ち着くことが出来てる。いつもだったらどうやっても呼吸を整える事は無理なのに、どうして何だろう。少し身動ぎして七海を見上げると、私の髪を耳にかけながら切長の瞳を緩める。こんな七海の顔、今まで見たことないかもしれない。
「…七海、ありがと…」
私が小さくお礼を言うと同時に、一気に周りの空気が変わった。それで一瞬でそういえば任務中だったと思い出してハッと反射で体を起こす。先程のように背中にぶつかる壁はもう無くなっていて、その景色は元の音楽室に戻っていた。
「あぁ!お二人とも大丈夫ですか!?連絡が途切れたので何かあったのかと…!」
「あ、伊知地くん…」
どうやら、密室で籠っていた分広い空間に戻ってたから空気が変わったようだった。音楽室の扉を額に汗を浮かべながら開けて入ってくる伊地知くんを見て、手元の腕時計を見ると最後の討伐から五分ほど経っていた。あの箱の空間に閉じ込められていたけれど、どうやら時間の流れは変わっていないようだ。ほっと息を吐き出すと、ふと目の前の七海くんと視線が交わりその顔の近さで今の体制を思い出して慌てて広くなった後ろに後ずさって距離を開けた。
「どうやら呪霊の最後の攻撃で一時的に空間に閉じ込められていたようです。若者たちが神隠しにあった、という原因はこの呪霊の術式だったんでしょう」
「なるほど…お二人とも体に異常などはありませんか?」
「私は大丈夫です。貴女は大丈夫ですか?」
「わ、たしは…なんとも…」
まだ座り込んだままの私とは違って、スーツのパンツを汚れを落とすように立ち上がった七海くんは淡々と伊知地くんに報告をしてくれる。確かに、書類の中にそんな事件報告もあったな。なんて考えながら二人の様子を呆けて見てると、七海くんがこちらに手を差し出してきた。すぐに反応できなかったけど、意図に気付いてその手を握れば痛くないくらいの力加減で握り返してくれて、そのままグンっと私の体をいとも簡単に引き上げて起こしてくれた。
「一応、高専に戻って家入さんに見てもらいますか?」
「いえ、大丈夫です。そのまま途中で私たちを降ろしていただいてもよろしいですか?」
「え?」
あれよこれよで結局呪霊の気配も無くなったので最後のあれは未解決のまま、現場の後始末を専門の方々にお任せすることにして学校を後にした。車に乗り込む前に発せられた何気ない言葉に、また後部座席に片足だけ乗せた状態で動きを止めてしまった。何だこれ、デジャブじゃないか。反対のドアから先に乗り込んでいる七海くんになんで、と目線で語ればただただ此方を見据えて座ってる。
「食べるんでしょう?海鮮。オススメのお店があるのでどうですか?」
「あー…なるほど。わかった。うん、いく。」
朝と違うのは、七海くんは不機嫌な感じではなくて、サングラスをかけてない瞳をふっと柔らかく細めているところ。その言葉に、さっきの空間の事がフラッシュバックして納得した。あの空間でのことを思い出したけれど、不思議と今回は怖くなかった。私が頷いて車に乗り込めば、車は伊知地くんの安全運転によって来た道を辿ってゆっくりとアクセルを踏み出した。
「美味しい!やっぱ北海道から仕入れてるだけあるね…!」
「気に入っていただけてよかったです。」
七海くんが連れて行ってくれた料亭は落ち着いた店内で、それでいて掘り炬燵式だったからゆったりと座れて疲れた体には有り難かった。運ばれてきた料理はどれも絶品で、新鮮な帆立や刺身はプリプリで牡蠣も美味しくて何個だって食べられそうだ。頼んだ日本酒もさっぱりとフルーティーなテイストで飲みやすくて、料理の味を邪魔することなく引き立ててくれる。飲み干した後時間差で体がジンっと熱くなるのを感じて、目の前のジャケットを脱いでくつろいでいる七海くんに視線をチラリとやる。彼は全く顔色が赤くなっていなくて、でもどこか楽しそうな気がした。
「…今日はごめんね。」
ある程度お腹が満たされてきた頃、いつまで経っても聞かれないので自分から切り出した。七海くんが此方を見ると、手元に持っていた箸を置いて姿勢を整えたのを見て改めて話を続ける為に口を開く。
「私、小学生の時に人と人じゃ無いものの区別があんまりつかないときがあってさ、それで一回ロッカーに友達に閉じ込められたことがあるんだよね」
今日の朝見た夢のお陰で、いつもより鮮明に思い出せる。七海くんがどんな顔をしているのか見るのが怖くて、手元に視線を落とせばお猪口の中の日本酒が揺らいでいた。
「そこに本当にソレがいるなら入ってみろよって。今思えば、みんな小さかったから仕方なかったんだけどね」
幼さと無知っていうのは、大人になった今だと1番恐ろしいものだなと思える。嫌だと言う私を、揶揄うつもりで悪気がない子たちは笑いながらみんなで押し込めてきた。イジメか、といえば、それくらいしか嫌なことはされたことはないから、本当に遊び心だったんだろう。
「呪霊とあの狭い空間で閉じ込められて、すごく怖かったの。」
押し込められたロッカーの中で、私の呼吸と呪霊のザラザラと不快感を凝縮したような声が反響していた。呪霊は私が見えるとわかっている様子はなくて、自分の存在を知らせるように狭いながら長い首で此方を覗き込んでいる姿は人の形を留めてなくて悍ましかった。何も見たくなくて、何も聞きたくなくて、目を閉じて耳を塞いで耐えていた。日本酒の揺れる水面に映る私の顔は酷く情けない顔をしていて、それを打ち消すために一気に胃の中に流し込んだ。
「ま、今はそんな呪霊バコバコ祓ってんだけどね!あの時の私にそいつ弱いぞって教えてやりたいわ!」
今思えばあんなやつ恐らく四級レベルの呪霊だ。馬鹿馬鹿しくて、誤魔化すように笑ってみせれば七海くんは真剣な顔をして此方を見ていた。その真っ直ぐな視線に、グッと息を呑み込む。七海くんはフーッと長く息を吐き出してから、腕捲りをした腕を此方に伸ばしてきた。
「よく頑張りましたね。」
ポンっと私の頭に手を置くと、控えめに撫でられる。筋の浮かんだ腕が視界に入ってきて、状態を時間差で理解すると胸が熱くなった。涙も出ちゃうかな、と他人事のように思ったけど、それよりも先にくすぐったさが込み上げてきて笑ってしまった。
「…ふふ、ありがとね。」
さっきも、今も、今日は七海くんにたくさん救われた。その後は、その話は終わって他愛もない話をしながら残りの食事とお酒を楽しんだ。店を出た頃にはある程度遅い時間になっていて、送っていくと七海くんは譲らなかったがお互いに任務後だし申し訳ないと押し問答した。本当、今日は七海くんが年上なのか年下なのかよくわからない1日だった。討論の末に、タクシーで家の前まで帰るという約束で折れてくれたので後部座席のソファーに疲れた体を沈めてその場を後にした。
パチリと目を開けると、真っ暗な空間に光が差し込んでいて。あぁ、二日連続この夢か、なんて思ってると背後で呪霊が色々な人の負の感情を背負った奇声をあげている。いつものように夢の終わりを待つために耳を塞ごうとしてると、いきなり薄暗かった空間に眩しい光が差し込んできて反射的に目を閉じた。
「よく頑張りましたね。」
聞き慣れた声と言葉にゆっくりと目を開けると、目の前に七海くんがしゃがみ込んでこっちを見ていた。ゆっくりと頭を撫でてくれる手は私の体が小さいからか全部包み込むほど大きくて、暖かくて体の力が抜けた。そんな私を見て柔らかく笑うと、両手を広げてくれる。
「もう大丈夫ですよ。」
その顔に、その声にあの時出てこなかった涙が溢れてきて、どうせ夢だからと思って子供らしい高い声で泣き声をあげてその胸に飛び込んだ。七海くんは暖かくて、あやすように背中を叩いてくれる手はとても優しい。七海くんの首に縋り付く小さい私の手は、もう震えていなかった。
目を開けると、いつもと同じ部屋で見慣れた天井が視界に広がった。いつもの夢、いつもと同じ朝。違うのは内容がこの十数年見たものと違っていた事。そして、起きた時の体と頭の重さが全然違う。人間はその日あったことを記憶を整理する為に夢に出てくるって本当なんだな、と呑気に思いながら体を起こしてベッドを降りると、自分の足先が爪先まで暖かくて床がいつもより冷たく感じた。
「…おかしい。」
どうにもおかしい。何がおかしいか、って言われると私がおかしい。いつもと朝の準備が同じルーティーンのはずなのに、変なところがないか何故か気になって時間がかかってしまった。それもあるし、家を出る前だったり移動中に窓に映る自分の髪の毛がちゃんと巻けてるかとか謎に気になる。おかしい。ただの労働でしかない仕事に向かう間にこんな気になることなんて此処数年全くなかったのに。
「おはようございます。」
「わっ!!」
やっぱり昨日呪霊になんか変なことされたのかもしれないと思っていると、後ろから聞こえてきた低い声が鼓膜から脳に響いてビクリと体が揺れた。その声の主はもうわかっていて、慌てて振り返ると七海くんがいつもの特有のサングラスをしているけどその奥の瞳がキョトンとしているのがわかった。
「どうしたんですか?」
「え?いやー…?何も…?」
明らかに挙動不審だけど、自分でもよくわからなくて片耳を押さえながら首を傾げて苦笑いを返した。そんなの、私が聞きたい。やっぱり硝子のところで見てもらおうかな。ウンウン一人で唸っていると、私より高い場所にある七海くんの顔が近付いてきて思わず一歩後ろに下がった。七海くんの顔が近付くと、緑色のレンズ越しに七海くんの切長の目が透けて見える。その真っ直ぐとした視線に顔に熱が込み上げてきて、やっぱりいつもと違う自分の体の違いに困惑してもう一歩分距離を取った。
「な、なによ…」
「いえ、やっとスタートラインに立てたな、と思いまして。」
小さく笑うと、七海くんは元の姿勢に戻っていつの間にか体に入っていた力がやっと抜けた。聞いてみたけど七海くんの言うことはよくわからなくて、とりあえず何だか不服だからひと睨みしておいたけどまた笑われた。昨日は良い人な七海くんだったけど、今日は何だか意地悪な七海くんだ。絶対今日見た夢のお礼なんて言ってやらない。そう決意してると、するりと朝一生懸命巻いた毛束を一束取られた。
「今日の夜の予定は?」
当たり前にそれは七海くんしかいなくて、私の毛束をくるりと指に絡めてすぐに離した。あぁ、昨日疲れてたけどちゃんとオイルつけて乾かして良かったな、なんて。此方を覗き込んでくる視線に、じわじわと体の奥から熱がまた込み上げてくる。おかしい。やっぱりおかしい。後輩の七海くんに、こんな事になったことなんて今までないのに。ここまできて流石に今回の症状に名前がついて、硝子のところに行っても笑われていただけだから行かなくて良かったと心底思った。
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